賞金稼ぎマッド・ドッグは、甘い香りを漂わせている事がある。
  それは往々にして、とある有名な、そして高価な葉巻の独特の甘い香りである事や、もしくは娼
 婦がつける香水の移り香である事がほとんどだった。
  アルコールの入った切子硝子のグラスを手の中で弄びながら、微かにそれらの匂いを漂わせる男
 の姿は、傍目に見れば夜を纏った大人の空気を醸し出している。その姿はまだ幼さの残る若い賞金
 稼ぎ達には羨望の的であるし、娼婦達に見ればとびきり豪華な食事に見えただろう。
  そしてその事を本人も自覚しているのか、近付く娼婦は拒まないし、後輩達の眼差しに鬱陶しさ
 を見せる事もない。挙句の果てには、男に特別な趣向を抱く連中にさえその身を曝して、けれども
 そういった連中が身体に食いつこうとした瞬間に、無機質なまでの冷ややかさで蹴り飛ばすのだか
 ら、もはや性質が悪いと言ってもいい。
  しかし、最近、マッドの身体から薫る香りの甘さに、微妙な変化が訪れている。
  マッドから漂う香りが、甘い事に変わりはないのだが、甘さの種類が異なり始めているのだ。
  これまでのマッドの香りが、何処かビターな、苦さを伴う甘味だったとするならば、今のマッド
 の香りは、そのままマシュマロに埋まってしまいそうな甘さだ。要するに、女達よりも子供が振り
 返りそうな甘さ。
  紅茶と一緒に出されないと胸焼けが起こりそうな、甘ったるい菓子の匂いだ。




  White Chocolate





  賞金首サンダウン・キッドは、大いに不満だった。
  サンダウンは賞金首だが、元々は保安官であり、そして賞金首になったのも自分の銃の腕が血を
 呼びこむから、自ら荒野に彷徨い出る事を選んだのだ。その時に全てを捨て去った男は、基本的に
 物を求めない。良く言えば無欲、悪く言えば無頓着なサンダウンが、何事かに不平不満を覚える事
 は非常に珍しい事だった。
  しかし、全てを捨て去ったからこそ、新たに、そして唯一手に入ったものに対して、人一倍の執
 着を覚える事は、無理ならぬ事だった。自ら荒野へ向かったものの、しかし半分ほどは守ってきた
 人々に疎まれたが故であるため、賞金首である自分を疎まずに迎え入れてくれた者に対しては、最
 初の疑いが消えてしまえば後はそちらに転がり落ちるだけだった。
  そんな唯一無二の相手だからこそ、サンダウンは誰よりも嫉妬深く、我儘になるのだ。
  例えその相手が男だろうが、本来ならば点滴であるはずの賞金稼ぎであろうが、そちらに転がっ
 てしまったサンダウンには何の歯止めにもならない。
  また、その相手である賞金稼ぎマッド・ドッグが、男であり賞金稼ぎという事を差し引いてもお
 釣りが来るだけの美人であった事も、サンダウンが転がったまま戻って来ない理由の一つだった。
 しかもこの美人の賞金稼ぎは家事を完璧にこなすときたものだ。サンダウンの中で、嫁にしたいと
 いうどうしようもない――本当にどうしたら良いのか分からない――思いが芽生えたとしても、無
 理はない。  
  そんな、美人で家事を完璧にこなす、ただし男である賞金稼ぎに追いかけられ、果ては塒まで突
 き止めたサンダウンは、自分達は内縁関係にあると思っている。勝手に。
  しかし、若くて美人の出来た妻――ではないのだが――を娶った男が往々にして陥るように、サ
 ンダウンもまた、西部一の銃の腕を誇る賞金首の名を返上して、ただの嫉妬深いおっさんに成り下
 がっている。
  因みにこのおっさん、今現在、家事全般について全く役に立っていないので、嫉妬深い上にごく
 潰しなのである。
  ただし自分が役立たずであるという自覚があまりないおっさんは、役立たずの癖にマッドに対す
 る不満を言う事に何の戸惑いもない。マッドには非常に迷惑な事に。
  その甲斐性なしのサンダウンが、一体何を不満に思っているのかと言えば。

  ――何故、私の前ではあんなふうに笑わないんだ。

  数日前、サンダウンはとある町でマッドを見かけた。
  本来なら、その場でマッドに近付いてそのまま攫っていくのだが、その時にはマッドの周りには
 人が屯していて、サンダウンが近寄れなかったのだ。サンダウンと雖も、賞金稼ぎの塊に突っ込ん
 でいって、マッドを連れ去る事が如何にまずい事なのか――主にマッドにとって――良く分かって
 いる。
  だから、その場では涙を飲んでマッドに近付く事を諦めたのだが。
  その時、僅かに盗み見たマッドは、笑っていたのだ。仲間の賞金稼ぎ達に何を言われたのか、は
 たまた何を言ったのかは知らないが、それはそれは楽しそうに笑っていた。子供が他愛もない事で
 笑う、その顔に良く似ていた。
  マッドが何に対して笑おうが微笑もうが、それはマッドの勝手だ。誰かが口出しすべき事ではな
 い。
  しかし、その時見たマッドの笑顔は、サンダウンには酷くショックで、落ち込ませるには十分な
 出来事だった。
  サンダウンは、マッドがあんなふうに笑ったところなど、見た事がないのだから。
  サンダウンが見た事のあるマッドの笑った顔と言えば、皮肉っぽい笑顔だけだ。瞳に鋭い光を閃
 かせ、口の端を吊り上げて、良い時は悪戯っぽく、悪い時などは冷ややかに、笑う。
  賞金首と賞金稼ぎという、まずは真っ先に思い当たる二人の関係を鑑みれば、マッドのサンダウ
 ンに対する笑みは当然のものだったが、既に目が曇っているサンダウンには、それはただの不満の
 対象にしかならない。
  サンダウンだって、マッドの笑った顔が見たいのだ。皮肉っぽい笑みではなく、純粋に楽しそう
 な笑った顔が。塒にいるサンダウンを見て、嫌そうな顔をするところなど、見たくはないのだ。
  それに、と自分がマッドの不愉快の種になっている事は完全に無視して、サンダウンは更にマッ
 ドへの不満を呟く。

  それに、私の前ではあんな服は着た事はないじゃないか。

  件の時のマッドは、普段の黒いジャケット姿ではなかった。ジャケットを脱いで、シャツ姿を曝
 しているわけでもなかった。
  多分、そろそろ寒くなってきたからそんな恰好をしていたんだろうな、と思う。けれども、どん
 なに寒くとも、サンダウンの前であんな恰好はした事はない。
  ふわふわむくむくの、白いセーター姿なんて。
  マッドと言えば、黒のジャケットとズボンで身を固めている事と、その黒い髪と眼も相まって、
 どうしても黒という色のイメージが付きまとう。肌は白いのだが、その白さよりも艶やかな黒が眼
 に映える。後は、スカーフやタイの赤が、ちらちらと踊っている。
  けれど、あの時のマッドは、白いセーターを着ていた。ふかふかとして温かそうなそれに身を包
 んだマッドは、笑顔の効果もあって、本当に可愛かったのだ。そして、ああ黒だけじゃなくて、白
 も似合うのか、と思った。シャツの白ではなく、毛糸のむくむくとした白は、抱き締めたくなるほ
 ど柔らかそうで可愛らしかった。
  きっと、あの時のマッドは、誰よりも甘い匂いがしていた。
  時折マッドがサンダウンの為に作ってくれる、どのお菓子よりも――リンゴの砂糖漬けを包んだ
 クレープよりも、胡桃をたっぷりと入れたクッキーよりも、生クリームと苺を挟んだケーキよりも、
 ずっと甘かったはずだ。いつまでも口の中で蕩けて、何処までも香りを漂わせる甘さを孕んでいた
 はずだ。
  が、その甘さはサンダウンには齎されなかった。
  何故ならば、次の日に出会ったマッドは、あの時の可愛らしい甘さを掻きたてる姿をしていなか
 った。
  むろん、いつものジャケットをすっきりと着こなしたマッドが嫌なわけではない。エプロンを身
 に付けたマッドも、好きだ。
  が、問題はそこではないのだ。マッドが、サンダウンの知らない顔をして、知らない服を着てい
 た事にある。サンダウンが知らないマッドの姿を、他の誰かが当然の如く見ている事が気に入らな
 いのだ。非常に気に入らない。

  


 「だから、てめぇは俺の服を漁ったってわけか。」

  確かに綺麗に衣装箪笥に入れておいたはずの、けれども今はあちこちに散らばった服を眺めやり、
 マッドは溜め息を吐いた。散らばった服の中では、いじけたように背中を向けて座るおっさんが一
 人。それを見て、そして子供のように散らかして片付けもしない良い歳したおっさんの理由を聞い
 て、マッドは怒りよりも呆れのほうが勝った。
  マッドが着ていた白いセーターを探し出し、自分の前でマッドにそれを着せようと考えた男は、
 けれどもそれが見つからずにいじけているのだ。

 「あのなぁ。言っとくけど、あんたが見た事ない服なんかまだまだ沢山あるぜ。俺の塒は別に此処
  だけじゃねぇんだし。」

  言った途端、ぎぎぎ、という音でもしそうなくらいぎこちなく、サンダウンが振り返る。

 「良いじゃねぇか、服の一枚や二枚くらい。そりゃあ、あんたはその服しか持ってねぇんだろうけ
  ど。俺にまでそれを求めるのはお門違いってもんだぜ。」
 「だが、私の前でセーターは着た事はないだろう。」

  吐き捨てるようなサンダウンの口調に、マッドはもう一度溜め息を吐く。そして、首を竦めた。

 「セーターに何でそんなに拘るんだよ。」
 「可愛かったからだ。」

  サンダウンは真顔だった。

 「あんなに白が似合うとは思ってなかった。その事に、私よりもあの時お前の周りにいる賞金稼ぎ
  のほうが早く気が付いただろう。それが、腹立たしい。」

  お前の事に一番最初に気付くのは、私なのに。
  駄々のように訴えられ、マッドはその言葉の意味に眼を逸らす。鬱陶しくて役立たずな男は、時
 折こうして、信じられないくらいにマッドを求めてくる。

    「……良いだろうが、別に。」

  普段のサンダウンと同じくらいにぼそぼそと呟くと、何故か酷く傷ついた眼をされた。いつもは
 飄々としている男だったが、実は腹の底に何かとてつもない塊を抱えている事をマッドは知ってい
 る。その塊を瞳に浮かべてマッドに縋る姿は迷い子のようで、しかもそれは彼の銃の腕と同じくら
 いの確率でマッドを撃ち落とすのだ。つまり、ほぼ確実に。
  そして絆されたマッドが、サンダウンを宥める為の言葉を吐くのはいつもの事だった。

 「あんたは、誰も見た事がねぇ俺を見た事があるだろうが。」

  部屋の掃除や、夕飯を作っているところ、果てはデコレーション・ケーキを作っているマッドな
 ど、如何なる賞金稼ぎも娼婦も見た事がないだろう。そしてその恩恵に預かる人間など、この世で
 唯一人しかいないのに、一体何を今更。
  けれども、それだけでは満足しないのだ、サンダウンは。

  甘い香りも白いセーターを着た姿も、自分の物だと言い張る男は、欲しいお菓子が貰えなくて、
 或いは他人が食べているのを見て、地団太踏む子供に見えなくもない。そういう子供は、得てして
 自分の持っているお菓子よりも他人が持っているお菓子のほうがおいしそうだと言うのだ。
  そういう子供を黙らせるには、手の中にあるお菓子が、ちゃんと甘いものであると思い知らせて
 やる以外にない。
  だから、マッドは溜め息を吐きながらも、役立たずで嫉妬深い男に、触れるだけの口付けを掠め
 る程度に落とした。

  それで満足しないサンダウンが、マッドに抱きつくのはいつもの事だった。