星だけが光る夜だった。
 月はそっぽを向いて顔を隠し、しかし雲一つないが故に空は真珠をばら撒いたように、かそけく光
が瞬いている。
 その真下、ぱち、と爆ぜる焚火が、夜がひたすらに静かであることを告げていた。風は砂を巻き上
げるが音はなく、乾いた草木の葉擦れもなく、生き物の遠吠え一つ響かない。あるのは、黙々と揺ら
めく焚火のみ。
 そんな、沈黙に沈んだ夜を引き裂いたのは、夜に聞くにはあまりにも乱暴な蹄が大地を蹴り飛ばす
音だった。
 たった、一つ。
 それであるにも関わらず、恐ろしいほどの存在感を持って、馬蹄の打ち鳴らされる音は響き渡る。
 遠くから聞こえるそれは――明らかに眼では負えぬほどに遠くからであるにも関わらず鼓膜を打つ
――地獄の底から響き渡るように大地を揺らしながら、そして明確に焚火目掛けて駆け寄っている。
 黙示の日、大地が避け、死者の王達が馬に乗って躍り出てくる時のように、荒々しい蹄の音だった。
 こちらが、逃げる暇も与えない。
 気づいた瞬間からそう時間も経っていないはずなのに、馬蹄は今や耳のすぐ近くに迫っている。
 そして、星空に一つ、ぽっかりと刳り貫かれたように光一点ない闇がある、と思ったら、その闇が
瞬く間に馬の形になった。
 闇から突き出される黒い眼、鼻先、すうっと流れる面長の顔。
 馬、というのは一様にして穏やかな眼を持っているものが多い。人に飼われているものならば、猶
更。
 しかし目の前に闇の中から現れた馬は、凄惨な眼つきでこちらを睨んでいた。泡を吹いて混乱した
馬の眼ではなく、ひたすらに冷静で、しかしそれでも何か怒りを孕んだ眼。

「よう。良い夜だな。」

 怒りを眼の裏に閉じ込めた馬の手綱の先から、馬の雰囲気からはかけ離れた、甘やかで魅力的な声
が落ちてきた。

「だが、それならこの俺を誘っても良いんじゃねぇのか。どっちかが小さく死に逝くにはうってつけ
の夜なのによぉ。」

 馬上に、闇の中から抜け出てきた馬よりも尚黒々としている影が跨っていた。
 見れば、銃に手を伸ばすか逃げ出すかの選択肢を迫られる闇の前で、サンダウン・キッドはしかし
焚火から少し眼を離してそちらをちらりと見上げたっきり、再び揺らめく炎に眼を落としただけだっ
た。
 あっさりと無視された態の影は、賞金稼ぎは、マッド・ドッグは、こちらもサンダウンの態度など
どうでも良かったのか、怒れる馬から飛び降りて、ゆうゆうと焚火を挟んでサンダウンの前に陣取る。
その様子も、サンダウンは無言で許した。
 青い眼に、焚火の赤を映すサンダウンの眼に、もう一つ黒いマッドの影がゆらりと混ざる。

「ほらよ。」

 がさがさと葉巻と酒を取り出していたマッドが、ついでと言わんばかりに投げ出したそれは、ぱさ
り、とサンダウンのすぐ脇に落ちた。サンダウンの目線が、一瞬だけそちらを見る。
 落ちていたのは、自分の顔だった。

「あんたの新しい手配書だと。古くなってたから刷り直されたんだとよ。」

 よかったじゃねぇか、しわしわの顔にならなくって。
 写真の中のサンダウンは、確かに、今よりも少しばかり、若い。本当にごく僅かに、だが。
 新しくなった己の手配書を、サンダウンは一瞥しただけで、感慨は微塵も見せなかった。悲嘆も、
自慢も何もない。
 賞金首の態度に、マッドは微かな笑みを――いつも通りの皮肉めいた笑みを浮かべて、酒の入った
ボトルを傾ける。その途中、ふと思い出したかのように言った。

「そういえば、その手配書を受け取る時に保安官が言ってたんだけどな。あんたの手配書って、印刷
するたびに背景にある染みが濃くなっていくんだってよ。」

 背景にある、ちょうど肩の上にある、茶色い染みが。

「印刷ミスとかだったら笑えるよなあ。茶色いおっさんの肩の上にある茶色い染みが、張り合うよう
に濃くなっていくなんて。俺にしてみりゃあ笑い話程度のことなんだが、その保安官は全然別の事を
考えてたらしくてよ。」

 顔に見えるんだとさ。
 言い置いて、マッドは一息に酒を煽った。喉を数回動かし、嘆息と共にボトルから口を離す。黒い
眼には、しかしそれだけでは酔いは灯らない。

「あんたの肩のとこにある茶色い染みが、顔だって言うんだぜ。男の。」

 サンダウンは、手配書を見下ろしもしない。

「俺は気の所為だと思うんだがね。まあ、言われてみりゃあそう見えなくもねぇんだが、言われなき
ゃ気が付かねぇな。そもそも人間なんか、点が三つありゃあ、それを顔だって思えるんだからな。実
際、他の奴にも聞いてみたが、大概が、言われてみればって反応だった。」

 ただし、大概が、である。
 ごく僅かは、確かに顔が見えたのだ。

「やっぱりさ、そいつらも男の顔が見えるって言うんだぜ。しかもその中の一人は、それが誰なのか
知ってやがった。」

 焚火が一際大きく爆ぜた。同時に、二人の影が別の生き物のように激しく蠢く。
 サンダウンの眼にも、その影が映り込み、彼の眼の色は何色であるのかが分からない。一方でマッ
ドの眼は、ただただ黒々としていた。

「ならず者と、保安官と自警団の銃撃戦に巻き込まれて、嫁と子供を殺された男の顔だってよ。」

 ちかり、と。
 マッドの眼に一瞬だけ、炎が映り込んだ。それこそ、瞳が燃え上がるように。

「それで、」

 サンダウンが、ようやく口を開く。
 夜の奥底で、普段と変わらぬ低い声だった。

「お前は、その男を捜したのか?」
「いいや。」

 マッドは、サンダウンの得体の知れない眼差しを真正面から受け止め、あっさりと言った。

「確かめる、意味がねぇだろう。」

 マッドはボトルを地面に置き、今度は葉巻に手を伸ばす。慣れた手つきで葉巻の先をナイフで切り
落とし、口に咥えてから燐寸を擦る。しゅっと乾いた音が短く響き、ぽう、と芯の青い炎が浮かび上
がった。燐寸の光が葉巻に火を点ける。蛍のように、それは瞬いた。
 その間、誰も口を開かない。
 マッドはマッチの火を消し、葉巻の煙を大きく吸い込んで、溜め息と共に吐き出した。

「確かめたところで、何になるよ。てめぇの賞金額が、今更値上がりするとでも思ってんのか。」

 暗がりの中、白い煙が甘い独特の形を持ってサンダウンに届く。マッドの声に良く似た形をしたそ
れを、サンダウンは無言で吸いこんだ。
 ただし、眼はマッドから逸れてはいない。マッドはその視線をもう一度見つめ、告げた。

「安心しろ。誰もあんたが、その男とやらの嫁と子供を撃ち落しただなんて思っちゃいねぇよ。」

 サンダウンの微動だにしない瞳が、初めて揺らいだ。
 判別しにくい、混沌の坩堝のような色合いであった眼が、更に激しく揺らめき始める。その様子に
気づいていないのか、マッドは葉巻をいつもの態で燻らせている。

「というか、俺には男の顔が見えねぇんだぜ。どうやってそいつを捜せってんだ?というか、そもそ
も顔が見えるってのも気の所為だろうって思ってる。」

 ただの背景の染みでしかない男を捜すというのは、やたら滑稽な話だマッドに顔の持ち主について
語った老人は、やたらと怯える素振りを見せていたが、それは偶々、染みに見出した顔が老人の中の
強い恨みを持つ誰かに似ていただけではないのか。もしかしたら、老人の中に、妻子を殺された男へ
の微かなうしろめたさがあったのかもしれない。老人が、男の妻子の死に直接的に関与していなくて
も、だ。
 老人はもしかしたらならず者と知り合いであったかもしれないし、自警団の一員であったかもしれ
ないのだ。或いは、老人の何かが切欠で、偶々殺された妻子が流れ弾に当たるような場所にいたのか
もしれない。
 だが、それを一々と調べる謂れはマッドにはない。
 手配書を見た大半が、染み、と一言で片付けてしまうものに過ぎないからだ。

「そんなもん調べてる暇があったら、てめぇを捜すってもんだぜ。」
「………そうか。」

 サンダウンの眼は、もう混沌とはしていなかった。青に焚火の炎を混ぜた、落ち着いた色をしてい
た。
 サンダウンが、ゆっくりとした手つきで葉巻を咥える。
 マッドが手を伸ばし、サンダウンの脇に落とした手配書を拾い上げる。
 その時、ふと、サンダウンが葉巻を咥える直前で、囁いた。

「…………そうか、」

 一人しか、お前達には、見えないのか。
 と。