「よお、キッド。」

  形の良い口の端に皮肉げな笑みを湛えて、柔らかい訛りが微かに残る滑らかな声が耳朶を打った。
  しかし、同時に耳に届いたのは、撃鉄を上げる硬質な金属音だ。甘さの欠片もないその音は、西
 部の荒野からはかけ離れた体躯を持つ男の指には、酷く不釣り合いに見える。ふわふわと柔らかい
 端正な身体に対して、厳めしい黒光りする武骨な銃は、とても重く見える。
  だが、その手の中にある銃が、まるで生き物のように動くところを、サンダウンは今まで何度も
 見てきた。
  いつもと同じように自信満々な表情をしているマッドをこっそりと見て、サンダウンはそっと眼
 を逸らした。すると、その態度が気に入らなかったのか、マッドが口を尖らせて拗ねたような表情
 を浮かべる。

 「なんだよ、キッド。その態度は。」

  キッド、と短く自分の名を呼ぶ青年に、サンダウンはやはり顔を背けた。



 
    One's Real Name





  マッドが、サンダウンの名前を呼んだ事は一度もない。

  色々勘違いされているかもしれないが、サンダウン・キッドというのは、生憎と本名である。サ
 ンダウンが今現在賞金首である事、そして無法者連中の通り名で『キッド』という名が良く使われ
 ている所為か、稀に間違えられるのだが、サンダウンの名前は名も姓も本名だ。サンダウンは、賞
 金首になる時に、変な通り名で自分の存在を知らしめようなどという事は、一度もした事がない。
  ただし、敢えて通り名だ本名だという区別を口にしなかった事も、また事実だ。
  相手が勝手に通り名だと思いこめば、過去と離別しようとしているサンダウンにとって、それは
 都合が良かった。保安官であった頃の名声は既に遠く、サンダウンもそれに縋りたいとは思わない。
 だから、サンダウン・キッドがならず者の通り名に過ぎないという認識が広まれば、それはそれで
 良かった。
  それに、賞金首として人目を避けて放浪する以上、名前を呼び合うほど深い仲になる事などまず
 ないだろう。賞金首の名を呼ぶ者など、せいぜい賞金稼ぎが保安官か検事くらいなもので、そして
 名を呼ぶ時は、それが最初で最後である場合が多い。
  名を呼ばれた時は、血の匂いが流れる時だ。
  間違っても、穏やかに手を重ねて過ごす時ではない。

 「おい、キッド。」

  だが、眼の前には自分のファミリーネームを連呼する賞金稼ぎが一人。穏やかに時を過ごす相手
 ではないものの、付き合いは普通の賞金稼ぎに比べると遥かに長い。
  黒髪黒眼の青年は、自分のほうを見ないサンダウンに不服なのか、ぷくっと頬を膨らませて、サ
 ンダウンの名前を連呼している。

  この青年が、果たしてサンダウンの名を通り名と思っているのか、それとも果たして本名と分か
 っているのか、長い付き合いではあるが知れた事はない。サンダウンも、どうでも良い事だと思っ
 ていた所為もある。
  けれども、あまりに長い時を過ごすようになって、情が移ってしまってからというものの、そん
 な些細な事が気になるようになった。
  いや、通り名である本名である云々はどうでも良い。良くはないが、それよりも気になる事があ
 る。サンダウン・キッドという名前が通り名であろうとなかろうと、本名であろうとなかろうと。

  賞金稼ぎマッド・ドッグは、一度として、サンダウンの名前――ファーストネームを読んだ事は
 ない。

  それが、本当にしょうもない、些細な事である事は、サンダウンも理解している。しかし、気に
 なるものは気になる。
  サンダウンを追われるべきではない――かつて保安官であったと知るサクセズ・タウンの面々は
 既にサンダウンの名を呼ぶ。それはサンダウンの名を本名と知っている所為もあるかもしれない。
  しかし、それにしても彼らよりも付き合いの長いマッドが名を呼ばないとは何事か。
  マッドは誰に対しても物怖じしない。だから、サンダウンに遠慮――なんて言葉があの男の中に
 あるのか――して呼ばないわけではないだろう。だとしたら、あと考えられるものと言えば、賞金
 首と賞金稼ぎであるという立場を明確にするための線引きだろうか。
  一緒に酒を飲んだりしているのに、何を今更、とも思うが、けれどももしかしたら、と思わなく
 もない。だとすれば、マッドは実はサンダウンとの間に、近寄りがたい溝を持っていたいと思って
 いるのだろうか。
  マッドの、感情が読めるようで実は全く読めない笑み。その裏側にあるのが海溝よりも深い溝で
 あったなら、マッドの感情を受け止めきれないサンダウンには途方に暮れる以外の術はない。

     そう思って憮然としていると、サンダウンがこちらを向かない事に業を煮やしたらしいマッドが、
 くるりとサンダウンの前に回り込む。そして、真正面からサンダウンを見据えた。

 「おい、こら、キッド。てめぇなんかまた勝手に暴走してねぇか。」
 「私は至って普段通りだが。」
 「はん、普段から歩く事にすらぐだぐだ考えて理屈付けてからでねぇと歩き出せねぇ奴が、何ぬか
  してやがる。」

     きっと、こちらの心を読んだわけではないのだろう。マッドは、それが賞金稼ぎとしての一つの
 技巧であるのか、こうした引っ掛けを行う事がある。そしてそれは総じて、当たっているのだ。更
 にマッドは、その瞬間の相手の動揺を見逃さない。
  この時も、微かに吐かれたサンダウンの溜め息を聞き逃さなかった。

   「で、てめぇは何をまた考えてるんだ?どうせしょうもない事なんだろ?」

  そうなんだろ、としつこく聞いてくる男に、むしろ原因はお前だと言ってやりたくなる。それと
 も、それさえも分かってやっているのか。だとしたら、腹立たしい事この上ない。
  内心でむっとしたサンダウンに、マッドはその変化にきょとんとした。

 「キッド?」

  そしてこの期に及んでも、やはりそちらの名前でしか呼ばない。そんなマッドから再び顔を背け
 小さく呟いた。

 「お前は、私の名前を呼ばないな………。」
 「あん?」
 「……………。」

  それきり口を噤んだサンダウンに、マッドの黒い眼は怪訝な光を灯す。しばらくの間、マッドは
 サンダウンの顔を見上げて、それからくるりとまたサンダウンの前に回り込む。真正面からサンダ
 ウンの顔を見上げたマッドは、黒い眼でじっとサンダウンを見つめ、そこから僅かな情報さえ逃さ
 ないように窺う猟犬のようだ。
  やがて、何か合点がいったのか、マッドの表情がすっと解けた。その表情のまま、零れ出るよう
 に呟く。

 「………そっちのほうが、俺が対等であれるからさ。」

  何の事かと思い、マッドの顔を覗きこめば、マッドの表情は先程の息を殺した猟犬の眼差しから
 はずっと柔らかいけれど、しかし些かの冗句も割り込めない真剣さでサンダウンを見上げている。

 「俺の『名前』は、此処に来る前に、置いてきた。だから、此処にはもうない。誰も俺の『名前』
  は呼ばないし、呼んでもいけない。」

  それが、マッドの本名の事であると気付き、サンダウンははっとした。
  賞金稼ぎマッド・ドッグというのは、ただの通り名だ。そしてサンダウンは彼の本当の名前を知
 らない。サンダウンのように通り名なのか本名なのかという類ではなく、マッドの名は本当に隠さ
 れているのだ。

 「もうないものを呼ぶ事は出来ない。それはあんたも同じだ。あんたは、俺を、この狂気と泥に塗
  れた名前で呼ぶ事しかできねぇのさ。そして俺もそれで良いと思ってる。おれが、望んで冠した
  名前だ。かまわねぇ。」

  でも、だから、不公平だ。

 「俺はあんたを本名で呼ぶのに、あんたは俺を通り名で呼ぶなんて、不公平じゃねぇか。」

  ひっそりと、マッドはサンダウンの名が本名である事を知っていると告げた。
  けれども、本名で呼ぶ事と通り名で呼ぶ事の、どちらが、より不公平な思いをするのか、マッド
 は語らなかった。
  本当の名を呼べないサンダウンが憐れなのか、それとも本名しか口にできないマッドが愚かなの
 か。
  サンダウンも、それには言及しなかった。いや、どちらが不公平な思いをするかなど一目瞭然で、
 追求する気にもならない。代わりにマッドの頬に手を添えた。

 「………他の連中は、そうは呼んでいないだろう。」

  マッドの名を知らないのはサンダウンだけではない。賞金稼ぎ仲間達も娼婦達も、マッドの名は
 知らないはずだ。けれども、マッドは彼らを本名で呼ぶはずだ。
  すると、マッドは微かに笑ったようだった。

 「あいつらとは、別に、対等でありたいとは思ってねぇから。」

  あんただけだ。
  声は、睦言と言うよりも、寧ろ夜の果てのように密やかだった。
   「だから、俺は『通り名』で通用するあんたの名前を呼ぶのさ。それなら、詭弁かもしれねぇが平
  等だろう。俺はこの先、昔の名前を使う事はねぇんだから、それ以外に対等である為の方法はね
  ぇんだ。」

    黒い毛並みをした狂犬は、けれどもその名に反する理的な眼差しで、サンダウンを見つめた。揺
 らぎの一片も見えない瞳は、全てを内包した宇宙のようで。たぶん、マッドは、この眼の光と同じ
 色の魂と、その在り方を持っている。
  それらを望んで、彼の親は彼に『名前』を付けたのだろうか。だとしたら、その名はどんな色形
 を帯びていたのか。

  少なくとも、サンダウンは、その魂の瞬きに付けるべき名前を知らなかった。