「ストレイボウ。」

   オルステッドは、すっかり口に馴染んだその名前を、なんの躊躇いもなく呼んだ。すると、呼
  ばれた本人は、彼の属性を表わすような薬草と毒草を煮詰めた鍋から顔を上げ、オルステッドを
  見る。長い鈍色の髪先は、今作っている薬の色に僅かに染まり、変色していた。
   魔術師らしい姿をした彼は、オルステッドの呼び掛けに、鍋を見つめた時の表情のままの顰め
  面を解そうとしなかった。
   しかし、その表情にオルステッドが怯む事はない。

  「良い魚が手に入ったんだ。今晩、うちに来て夕飯でもどうだい?」

   オルステッドの快活な声に、噎せ返るような匂いのする地下室で、じっとりと鍋を掻き混ぜて
  いたストレイボウは、表情を解かないまま頷いた。

  「良いだろう。だが、この薬の煮込みはあと3時間は掛かる。だから、夕飯は日没をすぎてしば
   らく後になるぞ。」




  A False Name 






    オルステッドはストレイボウの名前を知らない。
   いや、こうして名前を呼んでいるから知らない事にはならないのだろうけれど、しかし同時に
  やはり知らないのだ。それはルクレチア国民のほとんどがそうであろうし、恐らくストレイボウ
  の名を知っているのは、彼に名を与えた、そして今はもう亡き彼の両親だけだろう。
   ストレイボウの、本当の名前を知っているのは。

   ストレイボウ。
   オルステッドが初めてその名前を聞いた時、なんて変な名前だろう、と思ったものだった。名
  前というのは、少なくともオルステッドの住まう地域では、子供に対して親が期待を孕ませて付
  けるものだ。例えば、列聖人の名から付けたり、或いは何らかの含蓄を含む言葉であったり。
   けれども、ストレイボウ――迷いの矢だなんて。
   少なくとも、オルステッドの周りにいる子供には、そんな奇妙な名前を持つ者はいなかったし、
  オルステッドも子供心に変な――ともすれば不吉な名前だと思った。それは、射的による儀礼が
  あり、それを外すというのは不吉だと擦り込まれていたからかもしれない。

   最初に出会った時から『ストレイボウ』と名乗った少年の、その不気味な名前が実は偽名だと
  知れたのは、二人が出会ってから幾許も経たぬ内だった。
   元来それほどまで物事に拘らない――言い換えれば鈍感なオルステッドは、一人読書に勤しむ
  ストレイボウに向かって、きっぱりと言い放ったのだ。

  『変な名前』

   と。
   今考えればいくら子供の時分であったとはいえ、無礼千万この上ない事なのだが、しかしそれ
  に対してストレイボウの表情は微塵も変わらなかった。取りすました涼しげな表情を、眉一つ動
  かさず、短く言っただけだった。

  『だからどうした。』

   そして再び本を捲り始めたストレイボウに、オルステッドはむっとした。子供とはいえ大人顔
  負けの剣技を持つオルステッドは、今までこうしてあっさりとあしらわれた事がない。身分は低
  いものの並はずれた剣技を持つ故に、ちやほやとされた部分の多いオルステッドは、当時はまだ
  大人達の駆け引きなど知らない子供だった。だから、初めて自分を適当にあしらった彼に、むっ
  としたのだ。

  『皆言ってるよ。変な名前だって。』
  『そうか。』
  『どうしてそんな変な名前なんだい?』
  『どうだっていいだろう。』
  『迷いの矢なんて、気持ちの悪い名前。』
  『だからだろう。』

   そこまでして、ようやくストレイボウはもう一度顔を上げ、オルステッドを見据えた。彼の剃
  刀色の瞳には、やはり怒りも悲嘆も灯っていなかった。それは、ただ物事だけを見つめる学者の
  ような眼をしていた。

  『俺は魔術師の家系だ。魔術師はお前達よりもずっと魔に近い所にいる。どれだけ教会に行って、
   神に祈りを捧げても覆しようがない。この血に刻み込まれている。』

   神聖なる力でもどうしようもないものがあるのだ、と彼はあっさりと言った。それは当時のオ
  ルステッドにしてみれば衝撃的だった。神は万能であると教え込まれていたオルステッドにとっ
  て、ストレイボウの言葉は不吉だった。
   しかし同時に、好奇心旺盛な子供の眼を逸らせない甘美さも含まれていた。それは、明らかに
  未知の世界。
   堕落の園を見てしまったようなオルステッドの様子になど気付かず――或いはどうでも良いの
  か――ストレイボウは机に頬杖を突いたまま続ける。大人びた様子は、オルステッドの回りの子
  供とは、全く違う。

  『だから、悪魔達に眼を付けられないように、俺達魔術師は偽名を使う。親は子供に名前を与え
   ると同時に、醜い偽名を与える。そうする事で、悪魔達を油断させる。醜い名前は堕落の象徴
   だ。だから、悪魔達はそれ以上の堕落を誘わない。或いは仲間と思いこむ。そうする事で俺達
   は悪魔から逃げているのさ。』

   自らの名を忌むべき名だと肯定したストレイボウには、些かの悲嘆もない。逆に誇りもない。
  ただ、オルステッドの知らない事実を告げただけという表情だった。

  『じゃあ、君の本当の名前はなんなのさ。』

   ストレイボウの様子と言葉に圧倒されたオルステッドは、僅かに食い下がって尋ねた。すると、
  ストレイボウは――当時はまだ髪の短かった頭を横に振った。

  『それは言えない。』
  『なんでさ。』

   再び本に没頭しようとしているストレイボウは、最後にちらりとオルステッドを見て、囁くよ
  うに告げた。

  『俺の中に、悪魔が入らないように。』

   これは戒めだ。   
   そう囁いて、それっきり、ストレイボウは二度とオルステッドのほうを見なかった。

   それ以降、オルステッドはストレイボウの本名が気になって、何度か聞いてみた。時には知る
  限りの名前を列挙してみせては、ストレイボウに呆れられた。そしてその度に、ストレイボウは
  首を横に振るのだ。
   そうしているうちに、オルステッドが呼ぶ名前は、他の誰の名前よりも、ストレイボウという
  音が多くなった。一緒にいる時間も長くなり、魔術師であるストレイボウの苦労も、徐々に分か
  り始めてきた。
   教会の力の強いこの世界で、魔術師が如何に異端であるかという事。けれども利権を争う為に
  も魔術の力は必要である事。そして自分の剣の腕も、結局はその為に褒め称えられているのだと
  いう事。
   オルステッドは、もう、何も知らずに無知な質問を投げかける子供ではなかった。

       だから、いつしかストレイボウの本名を尋ねる事も止めていた。それは聞いてはいけない事で
  あると理解したからだ。
   しかし、諦めたわけでもない。
   いつかストレイボウが、何かの折に口にするかもしれない。それは満天の星が煌めく空を眺め
  ている時かもしれないし、洞窟に潜む異形を斃す時かもしれない。或いは、本当に何気なく、今
  みたいに鍋を掻き混ぜている時かもしれない。
   それを待つ事だけは、オルステッドは諦めない。

     「俺が帰ってくるまで食事を待てないのなら、俺はお前の家にはいかない。」
  
   硬い声は、けれどもやはり今日もその名前を紡がなかった。
   しかし、それを残念に思う必要はない。きっと、ストレイボウが自分の名前を口にする機会は
  まだまだ沢山あるのだろうから。オルステッドはその時に、聞き逃さなければ良いのだ。 
   
   だから、ストレイボウの相も変わらない硬い声に、オルステッドは殊更陽気に返事をした。
     
  「構わないさ。私だって夕飯の準備にそれだけ時間がかかるからね。」
  「待て、お前は魚を調理するのに3時間も掛かるのか。」
 
   何故薬を作るのと同じだけの時間がかかるんだ。
   
   不機嫌そうにそう告げるストレイボウの声に、オルステッドは笑いながら、背を向けた。