逢引きであり、表舞台からの略奪
04:今宵、月の明るい丘で逢おう







 見上げれば、白々とした巨大な月が、自分のした事を一挙一動余す事なく見ていた事に気付いた。


 乾いた荒野に訪れた束の間の春。


 その化身であるかのような小さな紫の花が咲き誇る丘には、眼も眩むような香りが立ち込めている。
 月の光を孕んだその花々の中に、男が一人倒れていた。
 瞼を固く閉じた男の傍には二頭の馬が佇んでおり、うち、黒い馬は酷く心配そうに花の中に沈む男の姿を
 見下ろしている。
 花の匂いが擦りつくのではないかと思うほど、深く沈む男はぴくりとも動かない。
 月の光を受け止めてもなお動かない頬を、青い眼が二つ見下ろしている。

 獣のようにしなやかな、ごく自然な筋肉を綺麗に付けた細身の身体に、武骨な手が伸びる。


 が、触れる寸前でその手は止まった。



 月が、見ている。



 男が背負ってきた月が、男が倒れた今も世界の代弁者のように見つめている。

 咎めるような世界の光に、サンダウンはその青い双眸を伏せ、マッドに触れようとした手を引き下げた。






 



 
 見事なまでに月の明るい夜だった。

 あまりに見事すぎて、魔女がサバトを行うのだとすればこんな日ではないかと感じるほど、月は美しかっ
 た。


 短く儚い春の夜。


 その一瞬を憐れんだのか、夜の女王は銀色の美しい顔を下々に曝した。


 春宵一刻値千金。


 そう言ったのは、夢か現か定かではない、あの悲しみに彩られた色のない世界で出会った、年若くして顔
 を隠して生きる事を選んだ青年だったか。
 その言葉に頷きたくなるほど、その夜は素晴らしかった。

 常に乾き、砂塵を運ぶ風はしっとりと濡れて甘い香りを運び、砂に塗れた地面には翠の芽吹きがそこかし
 こに見られた。
 無慈悲に照りつける太陽はその身を潜め、それにより牙を剥く冷気も和らいで温んだ空気を流している。
 所々で活発に動く命の蠢きは新たなる命を求める動きで、短い時間を共に過ごす相手を探すべく熱を散ら
 している。


 この世界は、こんなにも満ち足りていただろうか。


 毎年巡っていたはずの訪れを、サンダウンは初めて目にしたかのように愛馬を止めてしばし見つめた。
 穏やかな風に吹かれて芽吹いたばかりの翠が揺れ、花弁が月の光を孕んで、硝子の欠片のように煌めいて
 は舞い落ちる。


 甘い、芳香。


 何もかもを捨てて、死に場所を求めた時から、それらにはずっと背を向けてきた。
 次の世界の為に短く咲き誇る世界は、サンダウンには無用の長物であり、またそれ以上に世界そのものが
 サンダウンを必要としていない。
 入る隙のない世界を求めるほど、サンダウンは若くもない。
 それ故に諦め、背を向ける。


 だが、その背を打つように、激しい馬蹄の響く音が地面を伝わってきた。
 そして、それ以上に激しく、奔流のような気配が空気を震わせている。



 この季節、この世界。



 何よりも鋭い熱を湛える気配が迫ってくる。


 背を向けたサンダウンを、再びこの世界に突き付けようと、全てを溶かすような熱が渦巻いている。


 火傷するのではないかと思うほど気配が近づいた時、サンダウンは背を打つ波を見る為に振り返った。



 そこに広がったのは、先程にもまして鋭く輝く大輪の月と、それを背負う黒い影だった。












 弾かれた世界に足を踏み入れるつもりなど毛頭なかった。

 場末のうらぶれた酒場を渡り歩くサンダウンにとって、ふとした拍子に見つけたその酒場は、賞金首にな
 った今となっては足を踏み入れる気にもなれない場所だった。


 明るい笑い声と、食事を楽しむ人々の食器が掠れ合う音。
 きらきらと窓ガラスから零れるオレンジの明かりに乗って、時折楽器の音が聞こえてくる。
 ずっと昔に、守るために自らの手で捨てた愛おしい色と音。

 そこに満ちる温もりは、時折、まるで性質の悪い薬物のようにサンダウンを誘い苛むが、手を伸ばすには
 もう遥かに遠い場所に行ってしまった。

 何よりも今や火種である自分をそんな場所に置けば、守ろうとしたはずのそれを叩き壊してしまう事は眼
 に見えている。


 春の甘い夜。


 いつにもまして明るく、そして人の情が探るように、しかし切なく優しく熱を放つ世界で、どれほど自分
 の存在が邪魔なものか、サンダウンは良く知っている。


 唯一サンダウンに情と信頼を傾けてくれる賢い愛馬を引き、次の春を迎える為の宴を始める人々の灯りか
 ら眼を逸らし、その穏やかな田舎町を波風立てずに去ろうとした。
 誰にも気づかれる事なく、気配を零さずに立ち去る事などサンダウンには容易い。
 明るく命溢れる人々の集まる酒場を通り過ぎ、そのまま町の入口に向かうサンダウンの背後で、宴に遅れ
 たらしい一人の若者が慌てて酒場の扉を開いた。


 小さな木の扉が、軽く軋む音。
 それに被さるように笑い声が弾ける。
 空気が出入りするように流れ出した音楽は、懐かしい旋律を辿る。
 焦がれそうな人の温もりが一瞬、背中にぶつかり、消える。



 だが、それよりも。


 咄嗟に振り返りそうになったのは、そんな愛おしく優しい、懐かしい詩の所為ではない。


 そこにあるもの全てを薙ぎ払うような、脊髄を焼き切る気配が一瞬開かれた木の扉から噴き上げた。



 ――――どうして。



 軽やかな笑い声。 
 爆ぜるような動き。
 熱を惜しみなく滾らせる気配。



 張りつめた弦のような緊張を感じさせるそれに、サンダウンに湧き上がった疑問は一つだけだ。

 何故此処に、などといった愚問はする気にはなれない。

 何をしている、など命を謳歌する彼には無意味な問いだ。



 ――――どうして、お前は。



 サンダウンを必要としない季節に。

 世界から弾かれようとするサンダウンに。



 ――――どうして、お前は。



 一度感じた熱は消える事ができない。
 彼の気配は地面に空に吸い込まれ、その熱を主張する。
 きっと彼の事だ、明るい酒場の中央で、若い娘達と踊っているのだろう。
 この時期この季節、誰もあの男を放っておこうとは思わないだろう。
 あの命そのもののような熱を、誰もが欲しがり、手を伸ばす。 
 容易に想像できる光景。
 あの男もそれを振り払いはしないだろう。



 だが――――。



 その時、サンダウンの胸の内に過ったのは、この季節に全く相応しい感情だった。
 命咲き誇る美しい世界の土壌で這いずり回る、汚泥のような感情の一つ。
 きっと、あの男の周囲でも、あの男の光を自分だけのものにしようと泥の感情の投げ合いが起こっている。
 そしてサンダウンは、その勝者が自分である事を知りすぎている。
 勝者になるための方法が如何に簡単であるかも。


 するべき事はただ一つ。


 先程まで愛おしい守るべき存在だと感じていた、あのさざめく灯りの中に、火種を放り込んでやればいい。


 完全に消していた、自分の気配を。



 転瞬、惜しみない雨のようにこの夜の下に振り撒かれていた熱が、一気に凝集した。
 世界に霧散していた熱という熱が、ただ一点に集まる。
 常人ならその場にへたり込んでしまいそうな空気。
 酒場にあった笑い声が消える。
 今まで彼の熱を受けて輝いていた世界が、急に萎んだ瞬間。
 それを最後まで見届けず、サンダウンは今度こそ本当に町から出るべく愛馬を促した。


 あの男が追ってくるという確定した未来を戦利品にして。










 
 響いた銃声が一発だけに聞こえたとしても、それを恥じる事はない。
 きっと、今、花の中に沈んだマッドだけが銃声の音を正しく数えられただろう。
 幾度も繰り返されてきた決闘。
 その度にサンダウンはマッドよりも速く引き金を引き、その銃を弾き飛ばしていた。 

 けれど、今夜、サンダウンが放ったのは六発。

 撃鉄を上げて引き金を引くという一連の動作が必要であるにも関わらず、サンダウンのそれはほぼ一発に
 聞こえた。

 サンダウンが狙ったのは、いつもどおり、マッドの銃。

 そして、彼のこめかみのすぐ隣にある空気。

 頭のすぐ脇を五発の銃弾が、凄まじい風圧を巻き込みながら駆け抜けていったのだ。
 轟音と共に脳を揺さぶられ、マッドは脳震盪を起こし、花弁を巻き上げて倒れ込んだ。
 おそらく、サンダウンにしか出来ない芸当。
 だが、意識を失う寸前に、マッドは何が起きたのか理解しただろう。
 サンダウンは、マッドを見くびるつもりはない。


 むしろ―――――


 突然脳の支配を奪われ意識を遠ざけた男の身体を、サンダウンは黙って見下ろす。
 そして、あまりにも大人げなかった自分の所業に内心で苦笑する。
 直前まで、命が謳歌する季節に背を向けていたくせに、命を祝う春の宴の中から、命そのもののようなこ
 の男を奪い去ったのだ。
 しかも、この男にしか分からない方法で。
 そしてマッドも、サンダウンがそんな事をした理由は知らないだろう。


「お前が…………。」


 倒れ伏した身体に零しかけた言葉は、責任を全てマッドに押し付けるようなものだった。
 しかし、サンダウンは胸の内に湧いた言葉が己の本心である事を、嫌になるくらい知っている。


 ――――お前が、願っている時に来るからだ。


 月に照らされて皆が喜びの踊りを踊るこんな日に、サンダウンがそれらから身を引いたこんな日に、人の
 温もりに懐かしさを感じてしまうこんな日に。


 よりにもよって、サンダウンに熱を届けるマッドが、その気配を隠しもせずにサンダウンの前に現れたか
 らだ。


 だから、忘れていた醜い感情を出して、奪う事を決めた。


 ――――ああ、そうだ。


 この夜ほどこの男が背負うに相応しい世界はないじゃないか。

 もしかしたら、サンダウンの中には、最初から予感はあったのかもしれない。   


 紫の花の中に沈むマッドは、なお熱を放っている。
 それをもっと感じようと身を近づけたサンダウンは、ふと顔を上げた。



 月が。



 夜の女王のような冴え冴えとした銀の満月が、冷ややかにサンダウンを見下ろしている。
 この季節の舞台から、マッドを奪った事を咎めるかのような月光だ。
 しかし、サンダウンはそれを無言で跳ねのけた。



 ――――もう、遅い。



 春の宴に火種を放り込んだ時点で、勝敗は決してる。
 その勝敗を決めたのは、他ならぬマッドだ。
 だから、甘く蕩ける春の夜がどれだけマッドを自分達の側の人間だと叫んでも、それは無意味な主張だ。
 マッドがサンダウンの気配に気づき、この丘に現れた瞬間、マッドはこの夜からは飛び立っていってしま
 ったのだから。


 それに。


 サンダウンは、引き下げた手を再度伸ばし、春の夜の匂いを付けたままのマッドの熱を抱え込む。
 こうでもせねば直に熱を触れる事は出来ない相手。
 ならば、今、こうしていられる事は、他の誰でもないマッドからの戦利品だ。
 月がとやかくいう問題ではない。
 どうせ、この男が目覚めれば、この世界の誰よりも自分に文句を喚くのだ。

 その遣り取りに思いを馳せながら、サンダウンは冴え冴えとした月光のもと、マッドが目覚めるのを待った。










Our destined place overflowed with moonlight