叶わぬ願いだとしても、どうか
08:笑顔で濁した真意だって知ってるさ


 






 視界が真っ赤に染まり、弾かれたように眼を覚ます。

 もしくは永遠に目覚めなければいいと思うような後悔に満ちた目覚めを迎える。

 そんな夜が、ずっと続いている。









 あの、色のない悲しい世界から戻ってきて、何カ月にもなる。

 自分が何者かさえも分からず、何を望んでいるのかさえも定かではない憐れな魔王を騙る青年が崩れ去り、
 サンダウンはこうして自分の世界に戻っている。

 あの時の記憶は少しずつ薄れていき、大まかなところは覚えているが、細部はもうおぼろげだ。

 現実かどうかも怪しいと思っているのだが、あの世界で感じた凍えは未だに全身に残り、それどころか
 じわじわと内臓まで侵食しているようだ。

 過ぎた凍えは感覚を奪っていく。

 サンダウンの指先からは、徐々に感じる熱が途絶え始めていた。


 
 あの世界に行く前はこんな事はなかった。

 人から逃れるように荒野を彷徨っていても、掌から熱が消え失せる事などなかったのに。

 まるで、サンダウンの周りにだけ、あの世界の帳が降ろされているかのようだ。

 色のない、熱を吸収しない帳は、誰にも振り払う事ができない。



 そして、その帳の中で訪れる、赤く染まった夢。

 そのたびに苦く呻いて、地面に拳を打ちつけたい感情に襲われる。

 いや、流れ出る血が大地を染めていくのに絶叫するのなら、まだ、いい。

 それ以上にサンダウンを暗澹たる気分にするのは、夢が現実でない事を思い知らされる夢だ。

 
 
 そうだ。

 熱が身体から流れ出すだけで入ってこないのは、色の失せた帳が巻き上げられないのは、あの世界に行っ
 てから始まった事ではない。

 麻痺しつつある自分の皮膚の、その原因が何かなど、とうの昔に分かっている。 

  

 原因は、最初で最後の、最大の間違い。



 サンダウンはたった一発の銃弾で、世界を決めた。

 たった一つの鼓動が消えて、世界は顔色を変えた。

 熱がない。

 色がない。

 光さえ、くすんでいる。

 夢の中では匂い立つほどにそれらを感じるのに、現実では感じる事が出来ない。

 世界が、サンダウンに背を向けているようだ。

 けれど、その世界を選んだのは、紛う事なく自分だった。

 だが、生命が何たるかを知らない最低の物質のように、サンダウンの一番醜い部分が駄々を捏ねる。

  
 
 こんな世界に、戻りたかったんじゃない、と。


 
 守りたいと願った世界が愛おしかった。

 どれだけ身を放しても、その熱が光が色が愛おしかった。

 心底、その世界に戻りたかった。 

 けれど、戻りたいと願った世界は、あの悲しい世界の延長線のような様相をしていた。



 その瞬間に気が付いたのは、世界は別にサンダウンの事など気にも掛けていないという事。

 サンダウンが一方的に守りたいだとか、愛おしいだとか思っていただけだった。

 戻った世界は、サンダウンには一滴の熱も垂らさない。

 では、ずっと感じていたあの熱は?

 思った瞬間、あまりにも大きすぎる後悔の波に息が詰まりそうになった。

 
  
 青すぎる巨大な空。

 地平全てを燃やしつくすような朝焼け。

 重力が何たるかを知らぬ軽い乾いた風。



 今のサンダウンが直に正面から見れば、きっと眼が潰れて、焦げてしまうであろうほどに鮮やかすぎるそれら。

 今まで、サンダウンが無事だったのは、それらの鮮やかさを薄めるような膜のような何かを通して見ていたからだ。
 
 そう、サンダウンはいつもその肩越しの世界を見ていた。



 夢にまで、見る。

 夥しい血を流して倒れる姿よりも、更にサンダウンを追い詰める。

 頭上高くに満天の星空を戴き、屈託なく笑っている姿に手を伸ばそうとした瞬間の目覚め。

 感じていた熱が、色が、影が、気配が、息遣いさえ確かに全身で辿る事が出来たのに、現実かと違えるく
 らいに感じるそれらが、自分がいる世界には既に存在しない事を思い知らされ、打ちのめされる。

 自分が息づく世界は、彼がいた世界など何処にも感じられないくらい、冷たい。
  
 唯一無二の命は、この世から消え去る時に、サンダウンから世界の全てを奪っていった。
 
 一滴の気配も流さない身体と、溢れんばかりの血と、微かな笑みを残して。
   
 感覚を失いつつあるサンダウンが、最後に最も熱を感じたのは、彼を撃ち落とした時だった。

 消えゆく気配は生々しく、零れ落ちる血液は何よりも熱くて。

 その感覚だけが、凍えた神経に染みついている。

 





 だだっ広い荒野で、周囲に張り巡らされた気配は、すべて自分に向けられている。

 自分の首を刈る為の気配。

 幾つもの、出来損ないの死神達が、息を殺してその機会を窺っている。

 倦まず弛まず現れる彼らは、けれどサンダウンが失ってしまった世界を再び引き摺ってくるような背では
 なく。

 何も背負わず色も影も熱も薄い彼らをどれだけ撃ち抜いて大地を朱に染めても、彼の熱が染みついた神経
 が更新される事はない。


 
 どれだけの数の血を大地に飲み込ませただろう。

 数える事にも飽くほど多くの身体を地面に落としたが、その中に、彼と同じくらいの熱を持った存在はい
 なかった。

 彼のように世界を従える姿はなく、大地に赤を返せば返すほど、サンダウンの中にあった熱は零れ落ちていく。

 

 彼によって世界の一端に返り咲いた。

 けれどそれを自らの手で摘み取った。



 彼は、こうなる事が、分かっていたのだろうか?

 最期の最期、彼は満足そうに笑った。

 恨み事など一つとして言わず、ただただ彼らしい笑みを浮かべた。

 対照的に、力のない指で一瞬宙を掻いて、何かを掴むような素振りを見せて、血の海に沈み込んだ。

 彼は、サンダウンが、少しずつ狂っていく事が分かっていたのだろうか?



 きっと、分かっていたのだろう。

 サンダウンの中にある狂気も絶望も、理解こそしていなかっただろうが、その天性の感覚で何事か嗅ぎ取
 っていたのだろう。

 しかし、それ以上に彼はサンダウンの銃弾を求めた。

 自分の背後にある世界に、勘違いした想いを送りつけるサンダウンの視線を世界ではなく自分に向ける事
 を望んだ。

 それ故に最期の瞬間、満足そうに笑ったのだ。

 サンダウンが彼に焦点を合わせたから。

 だが、同時にサンダウンを撃ち落とせなかったという悔恨もあった。

 放っておけば狂気に歪んでいくサンダウンを止める事も止め、殺す事もできない事に、一抹の後悔もあっ
 たのだろう。

 笑いながら、けれど、確かにサンダウンに向けて伸ばされ、空を掴んだ指。
 
 世界を従えた彼が、最期に示したのは、仕留められなかったという悔しさと、狂気を止める事が出来ない
 という謝罪。

 その代わりに、僅かな熱を残していった。



 分かっている。

 彼がサンダウンの内面を見抜いたように、サンダウンも彼が最期に残した表情と仕草の意味を分かっている。

 世界を突き付ける彼と一緒にいた時間は、サンダウンが再び人に眼を向けるには十分すぎる要素を孕んでいた。

 きっと、戻ろうと思えば戻れるのかもしれない。

 彼が最期に置いていった熱で、自分と世界の差は埋まるのかもしれない。

 けれど。

 それをするには血を流しすぎた。

 累々と横たわる骸は、再び人の中に飛び込むには重すぎる。

 そして何より、彼のいない世界はサンダウンには冷たすぎる。

 神経に食い込む彼の熱だけが、もはや正気を保てる唯一の糸だと言ってもいい。 



 

 
 それを、憐れと思うのなら。






 最低の物質が、駄々を捏ねる。

 生命が何たるかを忘れた愚かな肉が、奇跡を望む。

 選んだ道を潰す脚が、祈りを求める。






 ――――破綻は、目前に迫っている。







 どうか、
 
  


 
 
  
 


I know your meaning you deceived