辿り着いた町は、砂と風以外には蹂躙された気配はなかった。
  幾度か砂嵐にでも巻き込まれたのか、立ち並ぶ木造の家々の壁には砂がこびりついていたが、手
 で払えば、さらりと落ちる程度のものであったし、何処からか飛ばされてきたらしい洗濯物も、そ
 れが風以外に蹴散らされたような気配はなかった。
  広い通りを見渡せば、ちらほらと屋台が見える。おそらく、この町の治安が良かったのだという
 当時は、通りいっぱいに行商人の店や屋台が立ち並んでいたのだろうなと思うが、治安が悪くなっ
 た今は、店の数はまばらだ。もしかしたら、開いている店は更に少なかったのかもしれない。或い
 は、店の少ない、夜に時間が止まったのか。
  もしも夜に事件が起きたのだというのなら、町の中に乱れがほとんどない事も頷ける。
  それほどに、並んでいる屋台は綺麗なものだった。
  確かに、砂に塗れている部分も多々あるが、それ以外にはぴくりとも動いた形跡がない。屋台の
 上の商品を見ても、流石に食べ物は干からびているが、それ以外の物――陶器や宝石、装飾品など
 は、つやつやと煌めいている。
  ひらひらと棚引く絹のレースやハンカチも、酷く物静かに佇んでいるだけだった。
  恐らく、町人が全員消えるという事態が起きてから、何一つとして変わっていないのだ。この風
 景は。
  それに安堵するか、不気味さを覚えるかは人それぞれであるのかもしれないが、少なくともマッ
 ドは不気味さを感じた。
  この町から人が消えた事は、きっと近隣――といっても荒野の事なので、距離自体はかなり離れ
 ているだろうが――の住人にも知れ渡っているだろう。少なくとも、隣町の住人、及び隣町を訪れ
 た連中は、保安官がこの町に赴いて――更にはその後行方不明になっているのだから、何らかの形
 で小耳には挟んでいるはずだった。
  これらの小耳に挟んだ連中の内、普通の慎まやかに暮らしている一般人は、このような奇妙な事
 件の起きた場所には訪れようとはしないだろう。彼らには穏やかな自分の生活というものがある。
 まして、少女の生首が残されていたのなら、絶対に家族も近づけようとしないだろう。
  しかし、ならず者連中ならどうか。既に命を半分くらい捨てているような連中ならば。或いは恐
 れるものは何もないと思い込んでいる連中ならば。いや、それ以上に、行く宛も残されていない連
 中なら。
  きっと、一つの町から生首を残して銃員全員が消え去ったと知ったなら、根城にしようと考えて
 現れる人間が多かれ少なかれ、いる。
  そうやって、ならず者達は増え、賞金首を生まず弛まず生み出していくのだ。
  だが、目の前に広がる砂と風に微かに突き動かされた町には、それ以外の、つまり人間に触れら
 れた形跡は何処にもなかった。
  金目の物がちらちらと光る宝石商の露店など、真っ先に狙われて根こそぎ奪い取られてしまいそ
 うなものだが、何かが消え去ったという気配もない。それは、砂が均一に降り積もっている事から
 明白であった。
  それは、宝石商の露店に限った話ではない。
  絹織の店も、珍しい古書を取り扱う店も、何一つとして変わったところはないのだ。そこに、人
 がいない事を除いて。
  マッドはゆっくりと一つ一つを確認しながら、ディオの手綱を引いて通りを歩いていく。そして、
 通りの店と店の間にひっそりと開いた路地裏の道を見つけて、昼間でも薄暗い細いその道を覗き込
 んだ。
  やはり砂に塗れたその場所は、広い通りよりも更にごちゃごちゃと薄汚れているように見えた。
 ちらばった紙切れや、隅に丸まった汚らしい衣類。そしてちらほらと落ちている、古びたパイプ。
 どうやら、この奥の何処かで、阿片の売買がなされていたようであった。
  だが、それ以上の事は何一つとして分からない。此処で本当に阿片の売買があったとしても、そ
 の売人がその後訪れたような気配は何処にも残されていなかったのだ。それとも、売人、買人とも
 ども消え去ってしまったのだろうか。
  いずれにせよ、阿片が町人が消えた一件と何らかの関係があるようには思えなかった。阿片と町
 人の消失を結びつける事象が見当たらない。例えば阿片の売買で何らかのトラブルがあったのだと
 して、それで町人を始末する必要があったのだとしてもも、町人はおろか、犬猫馬まで消し去る理
 由はないだろう。
  まして、そもそも死体一つ残さずに、死の痕跡一つ残さずに、なんて事は不可能だ。
  この町には、血の一滴も残っていない。
  しかし、そうなると奇妙なのは少女の生首だった。血の一滴も残っていないのに、何故少女の生
 首なんて物だけが取り残されていたのか。取り残すには、生首は大きすぎる。
  だが、この町に来て、その答えが見つかるともマッドは思っていなかった。
  酒場の扉を開くマッドは、そもそも自分は別に今回の事件についての答えを捜しているわけでは
 ないと苦笑する。
  マッドは暇つぶしの為に、此処にやって来たのだ。暇つぶしをするには、少々危険すぎるきらい
 があるが、それは仕方がない事だ。大体、賞金稼ぎなんて仕事をしている時点で、安寧の時がある
 わけでもない。例え娼婦の膝の上で寝転んでいても、膝を借りている娼婦が実はマッドの命を狙っ
 ているという事も考えられるのだ。 
  誰に恨みを買っているかも分からない。それがマッドの商売だ。
  だからマッドは細心の注意を払っている。そして、決して自分を裏切る事のないバントラインだ
 けは手放す事はしない。
  腰に帯びた黒光りする銃を指の腹でなぞり満足し、マッドは酒場の中を見渡した。
  酒場の中は、恐らく人が消え去った時の喧噪のまま残されていた。テーブルの上に散らばったカ
 ードもそのままで、グラスも酒を注いだ時のまま放置してある。ただ、中身は完全に気化してしま
 ったようだが。
  カウンターには葉巻が並べられており、その隣には酒場が護身用にと持っている銃が投げ出され
 ていた。
  それらを見て、マッドはこの酒場でなんらかの問題が発生したようだと検討をつけた。 
  テーブルに散らばったカードは、途中で何者かに払い落とされたかのように、積もったカードの
 山の中で一筋、綺麗にカードがない部分がある。並べられたカードも、慌ててその上に手を付いた
 かのように歪んでいる部分がある。
  その隣にあるグラスは、倒れていない物もあるが、倒れている物もある。更に床の上で転がった
 のか、隅に追いやられた酒瓶。
  何よりも、カウンターの上に出しっぱなしにされている酒場のマスターの持ち物であろう銃が。
  しかし、勿論それも、酒場で日常的に行われる喧噪の一つであったのかもしれない。カードでイ
 カサマをした事がばれ、それで騒ぎになってマスターが銃を持ちだした。良くある話ではある。
  ただ一つ気になるのは。
  マッドは、酒場の入り口に戻り、酒場の中を見る。
  テーブルの椅子が、なんとなくだが、入り口のほうを向いているような気がする。
  騒ぎのあったテーブルのほうに椅子を向けているのではなく、入口の方を座っていた人間が振り
 返った。その時に自然に椅子も入口の方に僅かにずれる。
  一体、入り口のほうで――つまり酒場の外で、何があったのか。
  この町に起きた何事かは、恐らく夜に訪れた。通りからは人通りも少なくなり、夜を往く大人を
 相手にする商売人性質もそろそろ店じまいをしようかという頃合い。開いていた店の数も、疎らだ
 っただろう。きっと、互いの事に干渉できないくらいの距離感を保つほどの疎らさで、そして何よ
 りも夜の闇は物事の一番の手助けとなる。
  夜の闇に紛れて、何かは起きたのだ。
  町の人間一人一人も、家に帰るような普通の人間ならば、眠りに落ちかけている事もあるから、
 よほどの大きな音さえ聞こえなければ、気づかれない。
  ただ、大勢の人間が屯する、明かりの煌々とした酒場は別だ。
  酒場にいる人間は、きっと、気づく。
  しかし、一体、何が這いよってきた。闇に紛れて。そして闇に紛れた上で、町の人間それぞれに、
 一体何をした。
  おそらく、息の根を止めた。それは分かる。一人ずつ、狡猾に仕留めて言った事も。だが、死体
 はどうした。
  じりじりと何かに近づきかけたマッドは、しかし同時に自分に近づく足音にも気が付いた。
  さくさくと足音を消しもせずに近づく気配に、マッドは容赦なくバントラインを引き抜き、くる
 りと手の中で回転させると肩越しに一発撃ち抜いた。
  乾いた空に、銃声が響く。
  だが、粗点も合わせずに放たれた鉛玉は、空以外何一つとして撃ち抜かなかった。そもそも、マ
 ッドも何かを撃ち抜くつもりはなかった。
  微かに笑みを浮かべる。そもそも、マッドが捜していたのはこの町に起きた真相ではなくて。

 「俺のいる所にのこのこやってくるなんざ、随分と俺も惚れられたもんだなぁ。そろそろ俺の腕の
  中で眠る気になったのか?」

  ひらりとした動作で振り返れば、そこには荒野の砂と、きつい色をした青をそのまま引き摺り下
 ろしたかのような男が立っていた。