マッドは、ソファに腰かけて本を読んでいた。怪奇じみた文脈で語られる何処か淫猥な事件を記録
したその本は、有意義な時間を過ごしているとは思わなかったが、それなりの暇つぶしにはなった。
 自由業と言っても差し支えのない職についているマッドは、気を抜けば自堕落な生活に陥りそうで
あったが、そこは何処か几帳面なところのある性格故か、むしろワーカーホリックと言っても差し支
えがないくらいには仕事をして、稼いでいる。それに一回の仕事で得られる報酬が大きいので、一回
仕事をしたらしばらく休む、なんてことをしてもなんら問題ないのだ。
 なので、マッドは本日はゆったりと暇を持て余すような休日と定めて、まったりと過ごしている。
 少なくともマッドはそのつもりである。
 だが、マッドがそのつもりであろうとなかろうと、何故か目の前のソファに陣取っている茶色い物
体は、ここぞとばかりに存在を主張していた。
 普段はマッドを一瞥して過ぎ去っていく青い眼が、ぴくりともしない勢いで、マッドを見つめてい
る。それはもう、穴が開きそうなくらいに。 
 仕事モードのマッドなら、こんなふうに見つめられたなら嬉々として銃を抜き放って、決闘に雪崩
れ込むだろう。それも厭わないだろう。
 しかし、本日のマッドは休業中である。仕事など、五千ドル支払われたってするつもりはない。些
かワーカーホリック気味なところはあるが、いざとなれば切り替えの良さがマッドにはある。
 なので、どういうわけだか我が物顔でソファに転がる賞金首の相手など、全くするつもりもなかっ
た。
 そもそも、このおっさんがマッドの休日に、こうして存在を主張してくる事は今に始まった事では
ないので、マッドは心底無視する事にしている。




 Maple Syrup





 サンダウンが目の前でうぞうぞしている。テーブルを挟んだ対面にあるソファにうつ伏せに転がっ
て、うぞうぞと動きながら、青い眼でこちらを窺っている。その様子は五千ドルの賞金稼ぎというよ
りも、毛深い未知の生命体]である。
 もしもマッドが賞金稼ぎは賞金稼ぎでも、対象が人間ではなく未確認生命体であったなら、なんら
かのアクションを起こしたかもしれないが、マッドは犯罪者以外を己の獲物としたことはないし、こ
れからもするつもりはない。ただ、生憎な事に目の前の未確認生命体――未確認でもなんでもないが
――は、賞金のかかった犯罪者であり、マッドの捕獲対象でもあるのだが。
 が、そんな未確認生命体]、ではなく賞金首サンダウン・キッドが、何故よりにもよって賞金稼ぎ
マッド・ドッグの前にいるのか。
 冷静になれば当然の疑問なのだが、サンダウンとは長い付き合いな上――本当に不必要に長い付き
合いである――これまでも勝手に我が物顔でマッドの塒に入り込んで餌を漁っていた事もあったので、
もはや眼の前で寝転がっているくらいではマッドは動じない。本当に、悲しい事だが。
 しかし、いくら慣れたとはいえ、眼の前で転がった挙句、うぞうぞとこちらを見つめてくるのは非
常に鬱陶しい。こればかりは、慣れない。いや慣れないと言うよりも、こんなものには慣れるべきで
はない。というか、慣れた時点で終わりだ。何が終わるのかは知らないが、賞金稼ぎマッド・ドッグ
の中で、確実に何かが終わる。
 なので、本を読むマッドの顔に突き刺さる青い視線を、毎度毎度無視してしまおうと思い続けてい
るのだが、しかし結局耐えかねてサンダウンを睨み付けるのはお約束だった。本気でうざいのだ。仕
方がない。
 だが腹が立つのは、とうとう我慢できずに視線をサンダウンに向けた瞬間に、サンダウンの無表情
が微かに揺れる事である。してやったりというか、計画通りというか、とにかく、そんな事を言わん
ばかりの、腹が立つ無表情なのである。
 もしや、冗談抜きでこのうざさは計画されたものなのか。
 だとしたら、今この場で銃を抜け、決闘だ。あまりにも決闘の理由がアホらしすぎて、毎回腹の中
で留めるのだが、腹が立つ事この上ない。
 そんな鬱陶しい概ね茶色いおっさんは、マッドがこちらを見た瞬間に、やっぱり確かにぴくりと無
表情の中に腹の立つうざい気配を込めた。おお、うざい。しかも、むくりと起き上がった。そのまま
ソファに張り付いていれば良いのに。ソファが勿体ないような気もするが、このうざいおっさんを動
かさずにいられるのなら、安いような気もする。
 が、サンダウンはむくりと起き上がっている。残念だ。
 しかも、やっぱりこっちを見ている。挙句、なんらかの期待を込めている。期待に添えるような事
は、マッドは死んでもしたくない。というか自分は休業中だ。何故賞金首の期待に応えてやらねばな
らんのか。
 だが、概ね茶色いおっさんは、概ねマッドの事など考えない。

「………ご飯。」
「おいてめぇ、こっちを睨んでたと思ってたら第一声がそれか。ちょっとてめぇのこれからの処遇に
 ついて話し合おうじゃねぇか。」
「………ご飯。」

 開口一番、飯をたかる台詞を吐いたサンダウンは、マッドの言葉を丸ごと無視して、飯をたかり続
ける。放っておけば、いや放っておこうが何をしようが、間違いなくこのままだとマッドが飯を作る
羽目になる。
 マッドが、サンダウンに。
 賞金稼ぎが、賞金首に。
 飯を作って、奢る。
 今更の話ではあるが、冷静に考えればやっぱりこう思わずにはいられない。
 なんだそれ、と。

「てめぇ、冗談抜きで自分のことをよく考えろよ。俺に飯をたかって奢らせてそれでこれからどうす
 るつもりだよ。いつまでも俺が一緒にいると思うなよ。てめぇ一人で飯の準備ぐらいできねぇでど
 うする。」

 言いながら思った。
 俺は、母親か何かか。
 どう考えても目の前の賞金首は、自分よりも遥かに年上なのに。どうしようもない事態に眩暈がす
るが、それでも言わずにはいられない。言わずにはいられない自分が悲しい。
 が。

「ご飯。」

 サンダウンは、それ以外に言葉を知らないかのように、ご飯、と繰り返す。こいつ、冗談抜きで頭
がおかしいんじゃないだろうか。だが、ご飯、の言葉が徐々に力強くなっている。こうなったら梃子
でも動くまい。
 だが、マッドとて休日にサンダウンの飯の準備などしたくない。いや、休日はおろか、いつだって
したくないんだが。

「あのな、俺は毎回毎回てめぇに飯を作ってやってる。いっつもだ。奢るのも俺だ。たまにはてめぇ
 が飯の準備をしたって良いんじゃねぇのか。それとも何か。てめぇはこの俺を、飯を作る道具とし
 か思ってねぇのか。」

 まるで主婦の言い分のようだ。言いながら、マッドはげっそりしてきた。
 だが、そこでようやく、ご飯、としか言わなかったサンダウンが口を噤んだ。お、と思い、もしや
何か心の琴線にでも引っかかったか、とか思ったが、次にこの男の心の琴線が非常に微妙なものであ
る事を思い出した。
 サンダウンは、大体においてマッドに関しては、斜め上の方向に心の琴線を働かせるのだ。

「………お前のことは恋人だと思っている。間違っても飯を作る道具だとは思っていない。」

 やけにきりっとした顔で、予想通り明後日の方向に走り出したくなるような台詞を吐いた。それよ
り、ご飯、以外で吐き出した言葉がそれか。しかもやけに真顔だ。

「分かった、とりあえず、決闘だ。」
「だから、お前の為に食事を作る事もやぶさかではない。」

 マッドの言葉は、いつも通り無視されている。
 無視したおっさんは、宣言通り、もぞもぞと動いて何やら食料の準備を始めた。色々と腑に落ちな
い部分もあるが、マッドがなんとしてでもやるまいと思っていたサンダウンの為の料理というのは、
回避されたようである。


 で。


 数分後、サンダウンがマッドの眼の前に広げてみせた物を見て、マッドは黙り込む。
 クラッカーと、チーズと、そして何故かメープルシロップと。無言でサンダウンを見れば、サンダ
ウンはクラッカーにチーズを乗せている。そして、そこにメープルシロップが垂らされる。

「………チーズとメープルシロップは、意外と良く合う。」
「………おう。」

 ああ、どうでも良い知識をありがとう。
 だがその前に、てめぇが食いたかったのは飯じゃねぇのか。これのどこが飯だ。どう考えても茶請
けか肴だ。それか、おやつだ。
 もしやこのおっさんのご飯とは、こういうものを示すのだろうか。
 マッドはそう考えて、次に思い当たった事実に身震いした。
 このおっさんの生命活動の維持は、もしや、このマッド・ドッグの食事如何にかかっているのでは
なかろうか、と。