夜も更けた頃、マッドは一人椅子に座って、机に紙を広げている。右手には羽ペンを持ち、紙の
 横にはインク瓶が置いてある。
  白紙を前に、コツコツと左手で机の木目を叩き、羽ペンを持つ右手を口元にやっているその姿は、
 どう見ても何と文章を書くべきか悩んでいる。
  何を書こうとしているのかと言うと、マッドには日記を書く習慣などはないので、それは違う。
 もしも簡単に答えを知ろうと思うのならば、マッドが向き合っている白紙の紙の上に、真っ白な封
 筒があるから、今から誰かに手紙を書こうとしているのだと知れるだろう。
  だが、マッドが誰に手紙を書こうとしているのか、とんと思い当たる節がない。
  マッドの交友範囲は広い。
  賞金稼ぎ仲間もいれば、顔なじみの娼婦もいる。それ以外にも行きつけの酒場のマスターや、店
 の主人など、思い出せばきりがない。
  しかし、そのいずれもが、マッドがわざわざ手紙を書く相手としては、些か役不足感が否めない。
  そういった、所謂荒野で生きる知り合いには、もしも用事があるのならマッドは自分で会いに行
 くだろう。そういった手間を面倒だと思う男ではない。また、そうやって伝手を広げるのも、荒野
 で生きるには重要な事だった。
  そうした事を鑑みると、マッドが手紙を書こうとしている相手は、荒野にいる誰か、ではないだ
 ろうと想像がつく。
  マッドが、用事があっても逢いに行こうとしない、または逢いに行けない相手など、この荒野に
 は一人としていまい。ならば、マッドが逢いに行く手間をかけられぬほど遠くにいる相手と考える
 のが妥当だった。
  ただ、一方でそこまで遠く離れた相手に思いを馳せるマッドというのも、考え難い。基本的には、
 遠くに置いたものの、やっぱり思いを馳せるくらいならば、マッドの事だから最初から手元に置く
 のが自然だ。
  では、手元に置かず、しかし手紙を書かねばならぬほど思いを傾けるという、絶妙な位置にいる
 相手というのは一体誰なのか。生憎と誰一人として思い当たらない。
  むしろ、いっそ懸賞か何かのかかった葉書を応募しようとしていると考えた方が無難かもしれな
 い。が、それならば文章を考える必要もないし、それにわざわざ一人きりで薄暗い小屋に籠らずと
 も良い。
  誰一人として宛先が思い当たらぬであろう手紙を前に、マッドは小首を傾げて、考える態を崩さ
 なかった。
  マッドとしては、誰かにあれこれと詮索されたくないから、こうして一人で小屋に籠っていると
 いうのがある。
  賞金稼ぎマッド・ドッグと言えば、荒野で誰一人として知らない者はないと言われるほどの有名
 人であり、名実ともに賞金稼ぎの頂点に君臨している存在である。
  だが、その生い立ちを知る者は、この荒野に置いてはおそらく一人として存在しないだろう。い
 や、もしかしたらいるのかもしれないが、口に出せばマッドの逆鱗に触れて消されるだろうから既
 に存在していないか、或いはマッドを恐れて口にしないかのどちらかだろう。いずれにせよ、マッ
 ドの過去を語る者は、いない。
  マッドの本名すら、語る者はいないのだ。
  マッドも、荒野に来た時点でその名前は、今から手紙を書く場所に置いてきたと思っている。
  もしくは、完全に置き去りにする為に手紙を書こうとしているのか。
 マッドは、自分の中で昔の事が完全に消化しきれていない事を知っている。マッドの型は――白
い肌と繊細な指先は――どう考えても荒野に馴染まないという事も、過去が消化不良を起こしてい
る原因の一つだ。どこぞの貴族ではないかと呟かれる度に、胃の腑が焼け付くような錯覚を覚えた
 事もある。あの場所はもう自分には関係のない場所だと、当り散らしたくなるのだ。
  だが、他人からの目線や自分の形だけが、マッドが過去の亡霊を未だ見る原因ではない。
  きっと、マッドが中途半端に別れも言わずに置き去りにした所為で、マッド自身の中に切れない
 糸があるのだ。
  もう一度、きちんと別れを言っていれば。
  だから、マッドがこれから書こうとしているのは、別れの手紙だった。
  毎年、一年が全て昇華され尽くした最後の日、唯一やり残した事として、マッドが一人睨み付け
 る。荒野にやって来たその日から、マッドはいつも一つだけやり残した事があるのだ。真夜中まで
 ずっと手紙を前に考え込み、そして気が付いたら一年が終わってしまっているのだ。手紙は白紙の
 ままで。
  おそらく、マッドはこれからもこうやって、白紙のままの手紙を睨み続けなくてはならないのだ
 ろう。何一つとして言葉紡ぐ事も出来ず、誰かに届く事もないままに。そうやって、何枚もの白紙
 の手紙だけが、散らかされていくのだ。
  そうして、過去の亡霊は消える事がない。

  かたり、と。

  背後で物音がした。
  マッドは振り返らない。振り返って咎めようにも、手紙は白紙のままだから、読まれて困る事も
 ない。
  肩越しに、ぬっと伸びてきた首は、マッドと同じように無言で白紙の手紙を見下ろした。

 「………手紙、か?」

  小さく低い問いかけに、マッドは頷く事もしなかった。マッドの沈黙から、肯定も否定も捉えら
 れなかったのか、男は少し考える素振りを見せる。
  しあばらくして、もう一度男が口を開く。

 「………暇なのか?」
 「てめぇ、この俺様の何を見て暇だとかぬかすんだ、ああ?」

  考えた末にようよう引っ張り出してきたらしい男の台詞が、暇なのか。マッドは少々気を悪くし
 たが、男のほうはマッドから返答があったので安堵したようだ。無言で頭上から見下ろしてくる男
 を、そのまま仰ぐように見上げれば、夜なのに青い眼が微かな光を捉えて煌めいていた。

 「………だが、ずっと書いていないだろう。」

  手紙とマッドを交互に見比べ、男は呟く。

 「だから、暇なのかと。」
 「何がどうだからなんだよ。繋がってねぇだろうが。俺が考え事してるんだって思わねぇのか。」
 「………考え事をするくらい暇なのか。」
 「はっ倒すぞ、てめぇ。」

  どうも噛み合わない会話に、マッドは羽ペンを置いて男に向き直る。さて、どう言い負かしてや
 ろうかと、生まれてこの方口喧嘩では負けた事がないマッドが、その猛威を振るおうとしていると、
 男が青い眼を細めた。

 「………手紙は、もう、良いのか?」
 「てめぇが邪魔をするからだろうが。」

  言って、マッドは一瞬絶句した。
  いつもならばこのまま年を明かして、結局やり残した事があると白紙の手紙を見下ろして、夜明
 けと共に微かな後悔を抱くはずだった。だが、その前にサンダウンの邪魔に出会って、マッドは年
 明けの前に手紙を諦めた。
  男は――サンダウンは、何も知らないのだろうが。

 「そうだ、てめぇのせいだ。」

  マッドは、低く呟く。今年は、マッド自身の所為ではなくサンダウンの所為で、手紙を書く事が
 出来なかった。あっさりと誰かの所為に出来た事で、過去の亡霊はマッドには近づいてこない。

 「………お前が私を放っておくからだ。」

  晩御飯も作ってくれていない、と言うサンダウンに、マッドは喉の奥で罵詈雑言を準備する。準
 備してサンダウンに本格的に向き直りながらも、手だけは器用に白紙の紙と、インク瓶、そして羽
 ペンを片付けている――何かの拍子に、サンダウンにそれらをぶつけたくなって、壊しかねないか
 らだ。

 「晩飯くらい、てめぇで準備しやがれよ。」

  ゆっくりと椅子を引いて立ち上がれば、サンダウンも少し身を引いて、マッドとの距離を開ける。
 といっても手を伸ばせばすぐに手が届く距離だが。

 「………お前だって、腹が減っているはず。」
 「何てめぇは俺を引き合いにして、俺に飯を作らせようとしてやがるんだ、ああ?」

  マッドは完全に立ち上がり、椅子はきちんと机に収納される。これで、全ての準備は整った。後
 はサンダウン目掛けて罵詈雑言を吐き捨てれば良い。この場で銃を取り出さなかっただけ、有り難
 いと思え。
  すっと息を吐き込んで、怒鳴り散らそうとした一瞬、マッドは、今年はこうやってサンダウンと
 罵り合いけなし合いながら、日付変更線を越えるのか、と思った。