濃藍色の夜の帳が完全に空を覆い隠し、光る砂粒のような星が散りばめられた時になって、よう
 やくマッドはディオの歩みを止めさせた。

  じくじくと膿んだように今にも広がりそうな怒りは、未だに腹の底で燻っていたが、賞金稼ぎと
 して冷静な自分がこれ以上の歩みは明日の移動に差し支えると言っていたし、何よりも今の今まで
 庇護の対象となっているサンダウンを放置していた事にはっきりと焦燥を覚えた。
  内心冷や汗をかきながら、慌てて背後を振り返ると、そこには少しばかりうろたえた表情をした
 サンダウンが、闇に紛れそうになりながらも馬に跨っていた。




 7.Guilty





  そっと火を起こすと、仄かなオレンジ色が本当に僅かばかりの周囲に広がった。小さく爆ぜるそ
 れが、それ以上大きくなって人目に付きやすくならないように気を配りながら、マッドは毛布に包
 まって手の中に酒瓶を収めたまま蹲る。

  先程の怒りは、まだ冷めやらない。
  しかし、男達に卑下た粘るような視線で見られる事にはもう慣れたはずだ。この西部に足を踏み
 入れた時から、この身体がそういった眼で見られる事は重々承知していたし、思い知ってもいた。
  特異なものが好奇と残酷な眼で見られるように、西部の色の乏しいマッドは、女の絶対数が少な
 い荒野では性を孕んだ視線で見られてきた。実際、まだ駆け出しの賞金稼ぎだった頃に路地裏に引
 きずり込まれた事も何度かある。
  そして、それはマッドが『西部一の賞金稼ぎ』の名を冠するようになった今でも変わらない。先
 程のように金をちらつかせて色目を使われる事など今更だ。

  けれど。

  マッドは視線を動かして、マッドが差し出した酒瓶からちびちびと酒を呑んでいる男を、ちらり
 と見やる。
  無論、サンダウンもマッドに懸けられたあらぬ噂の内容を知っている。そしてその噂に根も葉も
 ない事も知っている。
  だが、眼の前の、この、サンダウンは何も知らないのだ。マッドに架せられた疑いを初めて見て、
 それで何と思っただろうか。この身体の属性が、あの男達が声高に叫んだ属性と同じだとみなすだ
 ろうか。そしてそのままの記憶で、このまま元には戻らないかもしれない。その視線が、永遠に凍
 てついたままで。
  それが、マッドには何よりも怖い。

  だが、それよりも、まず、言わなくてはならない事がある。
  マッドは縋るように手の中の酒瓶を握り締めて、その中で揺れ動く液体の表面を見つめながら、
 火の中で薪が爆ぜる音と同じくらいの声で呟いた。

 「悪かったよ。」

  呟いた台詞に、サンダウンが身じろぎする空気が伝わってきた。青い視線がマッドに向けられた
 のを感じ、マッドも視線を上げてサンダウンを見る。そこに広がっていたのは、冴え凍るような光
 でも、うろたえたような光でもなく、ひたすらに不思議そうな眼差しだった。

 「…………何がだ?」
 「あんたを狙う奴から守るつもりが、俺を狙う奴に襲われちまったからな。」

  これまで、マッドはサンダウン自身が狙われる危険性についてばかり話して、不審そうなサンダ
 ウンをどうにか言いくるめてきた。しかし実際は、マッド自身が持つ危険因子に火が点いたのだ。

 「忘れてたわけじゃねぇんだ。注意もしてた。けど、あそこまで諦めが悪いのは初めてだったんだ。
  間違っても、あんたを危険な目に合わせたかったわけじゃねぇ。あんたにとっちゃ、勝手に自分
  の危険因子を並べ立てた癖に、てめぇのは置き去りかよって思うだろうけど。」 

  けれど、言えなかったのは、

 「だから、悪かった。」

  今はまだ凪いでいる視線が、じわじわと歪んで変貌する様を見たくないからだ。
  その時を先延ばしにしようとするかのように、マッドの口は勝手に動き、ぽろぽろと言葉を零し
 ていく。

 「なあ、キッド。あと少しで、あんたが安全だと思える町に着く。それまでの辛抱なんだ。そこに
  着いたら、あんたは俺と顔を合わせなくて済む。だから。」

  声は震えていないだろうか。上擦っていないだろうか。
  とにかく何か話していないと、サンダウンの眼が、歪みそうだ。
  だが、マッドの望みに反してサンダウンの双眸には、鋭い光が明滅し始めている。それが、ぞく
 りとするほど膨らんだ瞬間、

 「マッド。」

  名前を呼ばれた。
  もしかしなくても、サンダウンが今の状態になってから、初めて呼んだ名前。その音にびくりと
 すると、低い声が耳朶を打った。

 「………俺を、見縊るな。」

  微かな怒気を孕んで放たれた言葉の意味を考えるよりも、そこに込められた怒りに、怯惰し身体
 が竦んだ。その様子に、サンダウンははっとしたように眼を見開き、その後苦々しげに言った。

 「先程の事で、お前について何か思ったわけではなくて…………。」

  ぶつぶつと零される声に、マッドが眼を瞬かせていると、サンダウンはマッドを睨むような表情
 を浮かべた。

 「お前は、まさか自分だけが、泥の河を見てきたとでも思っているのか。」

  酷く迂遠な言葉の意味をマッドはしばらくの間追いかけ、そして、ああと思い付いて首を横に振
 った。そして、己のおまりの浅はかさに気付いて小さく笑った。

 「いいや。」

  そう答えると、サンダウンは咎めるように、それならその笑みも止めろと言う。きっと、この笑
 みでさえ、自意識過剰の賜物だと言いたいのだろう。

 「ああ、あんたは、南北戦争の真っ只中にいたんだもんな。」

  あの地獄のような世界では、マッドに架せられている疑いなど日常茶飯事で、実際に横行してい
 たのだろう。別に、マッドのそれだけが、特別なわけではない。だから、サンダウンの心境の変化
 する様に怯える必要など何処にもなかったのだ。それに気付かなかった自分は、愚かにも程がある。
  眼元を覆って、笑みを消さずにマッドは言った。その声にあるのは、途方もない安堵だった。

 「そうだな、悪かったよ。」

 「いや………。」

  マッドのその謝罪が、先程までのように危険な目に合わせた事に対してではなく、サンダウンを
 見縊った事に対するものだと正しく受け取った男は、低くそう答えると、またちびちびと酒を呑み
 始めた。
  その様子を眺めながら、大きく安堵の息を吐いたマッドは、それでもまだ心が完全には晴れない
 理由を喉の奥だけで転がした。


  記憶が戻る兆しは、まだ、何処にも、見えない。