馬の手綱を放って寄こした男は、慣れた手つきで荷物を括りつけると、自分の黒い馬を馬棒柵の
 外へと出した。それに倣ってサンダウンも同じように、自分に妙に懐いている馬を厩の外へと出す。
  しかし脚が一歩踏み出る直前で、マッドがそれを引き止めた。彼は黒い瞳に些かの情の欠片も見
 当たらない光を灯し、外の様子を窺っている。まるで獲物の匂いを探るようなそれは、不意に解け
 るやマッドはさっさと厩の外へ出てしまう。

  厩の安っぽい木の扉を開いた先にあった乾いた砂地で出来た大通りは、大勢の人間で賑わってい
 た。それを一瞥すると、マッドはサンダウンを見て素っ気なく言った。

 「街の外に出るまで、馬には乗るんじゃねぇぞ。目立つからな。」

  人ごみを上手に掻きわけて泳ぐマッドは、そう言ったっきり、サンダウンを振り返ろうともしな

 い。



 4.Risky





  肩一つ誰にもぶつけずに人の隙間隙間を潜り抜けるマッドを追うのは、酷く困難だった。サンダ
 ウンはこんな人ごみを見た事はないし、あったとしてもそれは戦場の兵士達だけで、彼らは掻きわ
 けるものではなく撃ち倒すものだった。ただ人を避けるだけというのは、以外と難しいのだ。
  マッドの立ち姿が凡庸なものであったなら、きっともう見失ってしまっていただろう。
  印象的なマッドの黒い髪が、無数の人影の間を見え隠れするたびに、サンダウンはどうしてこん
 なに必死になってこの男を追わねばならないのだろうと思う。

  サンダウンを追うべき賞金首だと言う賞金稼ぎ。
  他の賞金稼ぎに奪われない為だけにサンダウンをこうして引き連れる男の動機は、不純以外の何
 物でもない。マッドがサンダウンに齎す庇護は、どう考えても硝子よりも脆く、今マッドが向かう
 先にサンダウンを陥れる為の罠が張り巡らされているとも知れないのだ。
  今、此処ではぐれてしまっても何の問題もない。
  人ごみが生み出す陰が次々と重なり合う中、平凡な色合いであるはずの黒髪は、しかし何よりも
 鮮やかに目立っている。それでも、一瞬眼を逸らせば、きっと、すぐに見失う。
  知らず知らずのうちに手綱を握る手に力が籠る。
  逃げ出すならば、今、なのかもしれない。今なら、あの男の手の届く範囲から逃げられる。この
 人ごみの中なら、マッドもサンダウンを見つけ出すのは困難を極めるだろう。派手に叫んだとして
 も、この場を離れて馬に乗って駆ければ、その手が届かない所へ逃げ出せる。
  大きな人の波が押し寄せてきた。マッドの肩が押し流される。

  その瞬間。

  一度として振り返らなかったマッドが振り返った。同時にサンダウンはマッドに背を向けた。そ
 の間に膨れ上がった人の波が雪崩れ込む。むっとするような体臭と体温とざわめきと。その中に、
 マッドの声は一言も聞こえなかった。




  どれくらい歩いただろうか。先程の人ごみはどこへ立ち去ったのやら、辺りは閑散とした路地で
 人がいるのかどうかも分からないような家が立ち並ぶばかりだった。人目で、そこが危険を孕んだ
 場所である事が分かる。
  この場所から早く立ち去るべきだと本能が、喚いている。しかし同時に、またあの人ごみの中に
 戻るのも躊躇する。何よりも、マッドと鉢合わせする可能性があるのだ。それこそ危険極まりない。
  ならば一番良いのは、この路地を出来る限り早く通り抜けて、マッドの言う通りこの町から離れ
 る事だ。そう思ってサンダウンは眉を寄せた。要するに、マッドが最初に提案した『街から出る』
 という事が、正しい選択だったのだ。では、マッドはそこまで読んでサンダウンを街の外で待っ
 ているのではないだろうか。
  ぐるぐると回転してしかし同じ場所ばかりを巡る思考回路に、サンダウンは足を竦ませて動けな
 い。
  何処に行っても、まるで染みついたかように、危険が待ち受けている。その事実に呆然とした。

  立ち止まって動けずにいるサンダウンは、不意に、薄暗い路地裏から、唐突に人の気配が這いだ
 してきた事に気付く。はっとして腰に帯びた銃に手を伸ばしていると、今まで物音一つしなかった
 暗がりから、にゅっと爪先が現れた。次いで膝が、腰が、そして胸から顔にかけてが。
  全貌を露わしたそれは、やたらと痩せた男だった。ぶかぶかの汚れた衣服を身に纏い、枯れ木の
 ような指をサンダウンに向かって伸ばしている。その口の端からは、止めどなく涎が流れ、開き切
 った瞳孔が、その男がどう考えても正常な状態にない事を示している。
  咄嗟に後退って銃を引き抜いた時、背後から鋭い声が、警鐘の如く響いた。

 「馬鹿、止せ!」

  その声が誰の物なのかに気付いてびくりと震えている間に、サンダウンの肩を何かが物凄い勢い
 で通り過ぎていく。じゃらじゃらと音を立てて砂の上にばら撒かれたのは、幾許かの小銭だった。
 それに男が気を取られて屈んで拾い集めようとした時、サンダウンの腕に白い指が食い込む。

 「さっさと行くぞ、アホ!」

  振り返ると、果たしてそこには苦々しげな顔をしたマッドがいた。マッドはサンダウンの腕を引
 くと、そのまま引き摺るようにして埃っぽい臭いのする路地から遠ざかっていく。その間、マッド
 の悪態――というか説教は止まらない。

 「ったく、勝手にどっか行ったと思ったら、よりにもよってこんな所に紛れ込んでやがって。何か、
  てめぇそれは嫌がらせのつもりか。」
 「あれは………?」
 「ああそうだろうな。てめぇは知らねぇだろうな。俺は聞いたよな、てめぇ西部での暮らし方分か
  ってんのかって。それでてめぇは、ものの見事に知らなかったわけだ。あれを見ても何だかわか
  らねぇんだからな。」

  ちらりと背後を見やって誰も追い縋る者がない事を確認すると、マッドは立ち止まる。

 「あれは阿片中毒者さ。西部には多いんだ。もともと犯罪者が流れ込む土地でもあったしな。或い
  は現実を受け止められない南部貴族達が、薬に溺れるんだよ。で、あんたがうろついてた路地は、
  そいつらの巣窟ってわけだ。」
 「誰も止めないのか?」
 「止める?どうやって?阿片は別にモルヒネほど酷い中毒を起こすわけじゃねぇし、コカインみた
  いに依存症も酷くねぇ。だが、性質の悪い連中が使えば、さっきの男みたいに薬欲しさに他人を
  襲うような人間になっちまうんだ。それに、」

  マッドはサンダウンの顎をがしっと掴むと、おどろおどろしい声で言った。

 「てめぇが俺から離れずについてきてりゃ、問題なかったんじゃねぇのか、ああ?しかも銃を抜い
  てるなんざどういう了見だ、騒ぎになるって事が分からねぇのか。そんで騒ぎが起こればてめぇ
  が誰かなんぞすぐに分かって縛り首だぞ。」

  それが分かったなら、とマッドの白い指がようやくサンダウンの顎から離れる。

 「俺から離れるんじゃねぇよ。」