サンダウンは、隅の方が少し汚れた木縁の鏡の中を覗き込んで、凍りついた。
  安っぽいホテルの内装を正しく左右逆転に映し出した世界の真ん中に、砂色と空色の二色が存在
 を主張している。
  砂色の髪と空色の眼は、確かに自分が持つ属性で間違いがない。
  けれども、顔に刻み込まれた皺は。そして髪と同じ色の髭は。

  己の面影をしっかりと残しながらも確実に時を経た鏡の中の姿に、サンダウンは咄嗟に背後を振
 り返り、事の次第を問い質そうとした。しかし、問い質そうとした相手は脱力したように、部屋の
 内装と同じくらい安っぽいベッドに突っ伏している。そんな気を抜いている場合じゃないだろうと、
 自分を襲う不可解な出来事について八つ当たりじみた感情で睨みつけた。

 「一体何が。」

  きっと睨みつけると、男は黒い頭をぴくりとも動かさず、くぐもった声で答えた。

 「知るか。」




 2.Wanderland





  先程まで根掘り葉掘りサンダウンについて色んな事を聞いていた男は、その時の身振り手振りを
 伴った真剣さは何処へやら、今は完全にやる気をなくしたようにベッドに張り付いている。
  まるでお手上げだと言わんばかりの――というか俺は知らんと言わんばかりの態度は完全な現実
  逃避だ。寧ろサンダウンのほうが現実逃避したいくらいなのに。
  窓の外に広がるのは乾いた風と大地ばかりで、己が見知った匂いは何処にもない。無論、知った
 顔など何処にもない。それどころか自分自身でさえ、知らぬうちに十数年以上の月日を経たかのよ
 うな表情をしていると言うのに。

  サンダウンは先程まで、裕福な家々が立ち並ぶ、けれどもあちこちで火が燻り続ける南部の街並
 みにいたはずなのに。南部軍がぞろぞろと大砲を持ち出しているのを手を拱いて見るしかなく、そ
 してあれよあれよと言う間に、北部軍の味方数人がすっ飛んだ。
  そこからの記憶はない。
  もしや自分もあの砲撃に巻き込まれたのだろうか。だとすれば、此処は、所謂天上の世界という
 場所だろうか。眼の前でベッドに突っ伏す男は天使には見えないが――悪魔にも見えない。どう見
 ても、人間だ。
  こうしていても仕方ないので、サンダウンは軽く舌打ちするや、ベッドの上でべったりと伸びて
 いる男に歩み寄った。

 「此処は、何処だ。」
 「西部だよ。」

  間髪入れずに答えがあった。西部、と繰り返し呟くと、寝そべっていた身体がごろんと仰向けに
 なった。露わになった白い顔と黒い眼が、自分がこれまで見たどの男よりも秀麗である事に、ぎょ
 っとする。思わず後退りしそうになったサンダウンに、けれどもそれよりも早く男は身を起こし、
 ベッドの上に膝立ちになるや歌うように言った。

 「ああそうさ。憧れの大西部。未開の地にして黄金郷。人々の欲がぶつかる場所にして夢が叶う場
  所。しかし同時に荒野広がる不毛の大地。そして人がいるからこそ血が流れる場所。此処は、正
  に、ありとあらゆる業が詰まった世界だ。」

  まるで神託でも告げるように、夢現の声でそう謳いあげた男は、しかしあっと言う間にそれを酷
 く粗野な口調に戻してしまう。

 「つっても、今のてめぇにゃ分からねぇだろうな。」

  諦めの色を浮かべてサンダウンから眼を逸らし、彼は再びシーツに沈み込む。黒い髪の散ったシ
 ーツを眺めながら、サンダウンは思った事を口にした。

 「…………お前、南部の人間か?」
 「…………………。」

  煩わしげに黒い瞳が気だるく動いてサンダウンを見る。掴んだだけで折れてしまいそうな白い指
 が、南部の中でも最も奥まった場所にいる貴族を思わせた。だが、吐き捨てられた台詞はサンダウ
 ンの問いには全く答えになっていなかった。

 「此処は西部だ。南部でもねぇし、北部でもねぇ。」
 「…………戦争は、」
 「関係ねぇよ、もう。少なくとも、俺には。」
 「お前に関係なくても俺にはある。」

  此処が天上の世界でないというのなら、地獄でもないと言うのなら、戻らねば。
  しかし、次の瞬間、ベッドに投げ出されていた白い指が閃いた。サンダウンの腕に絡みついたそ
 れは、その細さからは想像もつかないような強さでサンダウンを引き止める。そして、けだるげだ
 った黒い瞳にも鋭い光が差し込んでいる。それは人を支配する事に慣れた視線だ。

 「あんたにも、もう関係ねぇ事なんだよ。だって此処は。」

  思わず視線を逸らしてしまいそうになるくらい強いものがたわめられた黒い瞳に、ぞっとしてい
 ると、すぐにそれは薄れて何か嘲るような皮肉なものにすり替わってしまった。

 「今のお前に言っても仕方ねぇか。」

  冷ややかな笑みを孕んだ声に、サンダウンは少しむっとする。
  先程からのサンダウンに対する何かを諦めきったような態度といい、かと思えば何かを出し惜し
 みをするような素振りといい、この男は何がしたいのだ。
  大体、サンダウンの事は年齢から今現時点での職業、出身地、その上好きな食べ物と恋人の有無
 まで聞いた癖に、自分の事については一言も喋っていない。この宿に来るまでの道中、この男は延
 々と喋っていたくせに、吐き出す言葉はサンダウンについての身の上調査じみたものばかりだった。
 一体、何様のつもりだ。
  ほんの少し機嫌を悪くしたサンダウンは、自分でも分かるくらい険のある声で問うた。

 「それで、お前は、誰なんだ。」

  自分はこの男に大体のところは喋ったのに、この男は何一つ喋らないなど不公平だ。そう思って
 聞いただけだったのに。
  皮肉な笑みを湛えるばかりだった男の白い顔に、その一瞬、確かに何かが過った。今にも泣き出
 しそうな怒り出しそうな。憤懣、悲嘆、そしてやはり最後に残ったのは諦観だった。
  けれどもそれは、見間違いかと思うくらい短い時間の出来事。

 「俺は賞金稼ぎのマッド・ドッグ様だ。」

  薄い笑みを浮かべてそう告げた時には、男の顔からはどんな悲劇の色も消え失せている。寧ろ、
 厚顔不遜な声と台詞を吐く。その台詞のいずれにも反応できず、サンダウンあ首を竦めて、そうか、
 とだけ返した。
  しかし、それだけで話を終わらせるわけにもいかない。何せ今の時点で、この男しかサンダウン
 に何らかの情報を与えてくれる人間はいないのだ。それにどうやらサンダウンの事も知っているよ
 うだし、少なくとも敵意はないようだから、ひとまず自分の状況だけでもちゃんと知っておきたい。

 「それで、お前は俺の何に当たるんだ。」

  自分をあんな荒野のど真ん中に放置せずに、街までつれてきてくれたと言う事は。色んな言葉が
 脳裏を過ぎるが、返ってきた言葉は。

 「恋人。」

  頭が理解する事を拒否した。
  確かに戦争の間に女がいない所為で男に走る兵士は大勢いたがでも。

  自分でも分かるくらい眼を大きく見開いて、眼の前の男を見やると、彼は嫣然と微笑んだ後。
  ぷくくくく。 
  口元を耐えられないと言わんばかりに歪ませて、笑いを噛み殺している。遂にはひぃひぃと喘ぐ
 ような声を上げ始めた男に、からかわれたのだと気付く。

 「ああ、そうか、てめぇもガキの頃はそれなりの反応をしてたんだな。」

  黒い眼に愉快そうな光を灯した男をむっとして見ていると、男はもう一度、身を起こした。

 「まあ、冗談は置いておくとして。でもこれから俺が言う事を信じるかどうかは、お前が判断する
  んだぜ?」

  どうせ信じられない事ばかりだろうが、と今更になって、ようやく前置きじみた事を口にした。

 「いいか。サンダウン・キッド。それがこの西部でのお前の名前だ。この世界はお前のいた時代よ
  りももっと後の時代――お前が前線で戦っていた南北戦争は、とうの昔に終わってる。大陸横断
  鉄道は完成し、そしてゴールド・ラッシュの波も収まった。此処は、金の残り香を求めて彷徨う
  無法者と、犯罪者、そしてそれらを糧に生きる賞金稼ぎが生きる世界だ。そして、」

  男の白い指が、優雅にその胸に、まるで一礼をする直前の仕草の様に翳される。

 「この俺が、西部の頂点にいる賞金稼ぎマッド・ドッグ様で。」

  そして翻った白い手は、サンダウンに向けられる。幕を切って落とす、鎌の様に。

 「あんたが、五千ドルの賞金を懸けられた賞金首サンダウン・キッドだ。」