闇に浮かんだマッドの白い顔は、常よりもいっそう白いようだった。
  その顔の中で大きく見開かれた黒い瞳は、深く深く、様々な物思いが坩堝のように渦巻いている。
 あまりにも大量の感情の渦に、逆にそこから彼の思っている事を掬い上げる事は困難に思えた。
  上気したかのように赤い唇からは、それとは対照的に冷えた空気に白い息を吐くと共に、小さな
 囁きが零れる。その囁きが違える事なくサンダウンの名を呼んだ事に、最近ほとんど名前を呼んで
 貰っていない事を思い出した。




 18.Signal





  マッドがサンダウンを見て色を失くしたのは一瞬の事。
  素早く皮肉げな笑みを浮かべた仮面を着けるのは、流石だと言っていい。臨機応変なマッドの仮
 面は、これまで大勢の人間を真実を絡めつつ騙してきたのだろう。かくいうサンダウンも、マッド
 のその真実だけで作り上げられた、しかし確信を丁寧に剥ぎ取った仮面に結局手をつける事が出来
 なかった。
  しかし薄く動揺を見せたそのひび割れに気付かぬほど、サンダウンは鈍くはない。

  いや、実を言えばマッドの綻びにはかなり前から気が付いていた。
  それは、再び自分が目覚めた時から始まっていたのだ。
  荒野で出会ったなら、鉛の弾が吐き出される事は避けようがないのが自分達の定めだ。けれども
 その定理を一人で培っていたマッドが身を翻した。ひらり、とはぐらかすような言葉を並べ、サン
 ダウンに背を向ける。

  それが無数の細かい傷だと気付いたのはいつだったか。己の矜持を支える為にサンダウンを追う
 男が、それを翻したのは、間違いなくマッドにとっては致命傷だったはず。
  そこに手を掛け、突き崩す事など、見破ってしまえばあまりにも容易い。
  だが、忘れてはならないのは、その傷をつけたのは紛れもなくサンダウンだという事だ。そもそ
 もマッドに傷をつける事が出来るのは、きっとこの荒野ではサンダウンくらいしかいない。
  青白くさえ見えるマッドの顔に、サンダウンは苦い気分になる。マッドの仮面を此処まで壊して
 しまった事に優越感を覚える以上に、彼に何もかもを背負わせてしまった事に後悔の念が先立つ。

 「何しに来たんだ。大体てめぇは俺がいるのに何だって平然と入って来るんだよ。」

  唸るように言うマッドに、沈黙で応えると、彼の形の良い唇からは舌打ちが零れる。浮かべてい
 た笑みよりも、その音の方が、きっとマッドの本心には近い。
  黙り込んだままのサンダウンに、もう一度マッドは舌打ちをし、別の部屋に行こうとでも言うの
 かサンダウンに背を向けた。その素っ気ない態度に、喉の奥で何かが絡まったような気分になる。
  確かに賞金首と賞金稼ぎである以上慣れ合う事はないが、しかしここまで素気無い態度をされる
 事はなかった。なんだかんだで人の好いマッドは、ぶつぶつと文句を言いながらもサンダウンが自
 分の空間に入る事を許していたはずだった。

  それが、自分のいない間に、失われてしまったなど。

  マッドと同じように舌打ちしたい気分を押え込み、するりと闇の中に消えていこうとするマッド
 の腕を取った。薄いシャツに覆われた腕は、それでも吸いつくようなすべらかさを想像させる形を
 している。
  ぎくりと、過剰なまでに反応したマッドは、慌ててサンダウンの手を振り払おうと腕を捻った。

 「っ、なんだよ!一体!気持ち悪い事すんじゃねぇ!」

  力任せに腕を振るマッドを、サンダウンも同じく力任せに全体重を掛けて押え込む。マッドの肩
 にもう一方の手を乗せ、そこに体重を掛けてしまえば、身長でサンダウンに劣るマッドは、容易く
 とまではいかないがサンダウンの支配下に置かれる。
  サンダウンに押さえ込まれる形となったマッドは、悔しそうにサンダウンを睨み上げ――眼を逸
 らした。まるで今の現状が耐え難い屈辱だと言わんばかりに。しかしサンダウンはそれを無視し、
 マッドのすっきりとした顎に手を掛け、こちらに顔を向けさせる。

 「………マッド。」

  酷く震えている黒い瞳を覗き込めば、やはりマッドは視線を逸らそうとでも言うように首を無理
 やり捻る。羽根をもがれた鳥が必死に逃げ出そうとするかのようなその仕草に、やはり、と思う。

 「…………マッド、私の所為か、それは。」

  もう一度名前を呼んで、そして問うた。すると、マッドは何を言っているんだと視線で訴えかけ
 る。それは同時に、酷い怯えを孕んでいた。それを見て取って、サンダウンは微かな逡巡を覚えた
 が、しかし喉元にある言葉を再び閉じ込めたところで、現状が打開されるようにも思えなかった。
  何より、マッドの望み通りになったはずなのに、結局彼がこうして苦鳴を零しているのは何故な
 のか。

 「お前の望むようにしてやっているのに、何故。」

  何?と呟いたマッドは、うろたえたようにサンダウンを見た。白く凍えたような顔を見て、小さ
 く脈打ったのは、微かな期待と甘えだ。マッドの頬を包み込んで低い声でゆっくりと囁く。

 「忘れろ、と望んだのはお前だろう?」

  一気に見開かれた眼は、転瞬、何もかもを振り払って身を翻した。なだらかな背中が忙しなく逃
 げ場を求める様に、しかしサンダウンも腕を素早く動かしてその腰を捕える。

 「は、なせっ!」
 「元通りに戻りたいと願ったのはお前で、だから忘れたふりをしたのに、何故。」

  耳のすぐ後ろで、息を吹きかけるように囁けば、ひ、と引き攣れたような声が上がる。じわりと
 広がるマッドの身体の温もりに眼を細め、その項に顔を埋める。直に触れればそこは吸い付くよう
 で、そして赤くなるほど熱を持っていた。

 「お、まえ……覚えて………!」

  がくがくと震えるようなマッドの声に、ああ、と頷けば、マッドから呻くような声が零れる。

 「全て、覚えている。」 

  それは、夢を見ているようだったのだ。
  まるで意識の中に、もう一つ薄い膜に包まれた意識があるように、サンダウンは己の成していく
 事を見ていた。それは他人がしている事を傍で見ているような感覚でもあったが、けれども同時に、
 それを成している自分の意識ははっきりと分かるのだ。
  サンダウンの意識を押しやって表面に噴き出すそれは、一番無防備でそれ故に偽りのない意識だ
 った。経験から来る慎重さを怯惰だと嘲り、燃え尽くされる事を恐れもせずに西部に響く星を抱き
 込んだそれは、サンダウンの一番底辺にある、所謂根本的な部分だ。

  つまり、そう、サンダウンはずっとマッドが欲しかった。爆ぜるような熱を持つ、天高くを飛ん
 で、気紛れのようにサンダウンの前に降り立つ彼が、欲しかったのだ。マッドを好色な眼で見る男
 達は縊り殺してやりたかったし、マッドに追いかけられている別の賞金首達は全員縛り首にしてや
 りたかった。

  常に無表情で覆い隠していたそれは、サンダウンの意識が最下層に追いやられた時に、一気に芽
 吹いた。
  肩を引き寄せて抱き締めて口付けて貫いて自分のものだと囁いて。
  それらは紛れもなくサンダウンの本心だ。

  けれど、それならば、マッドの本心は?
  サンダウンがあの時のことを忘れても、それでも苦しむマッドの本心は、何処にある?

  いよいよ蒼褪めて、恐慌状態の一歩手前で佇んでいるマッドは、息をするのもやっとという状態
 でサンダウンを見つめている。その黒い髪に指を差し込み、壊れ物でも扱うようにそっと、けれど
 も鉄の網のように強固にマッドを引き寄せた。

 「………嫌だったか?」

  抱かれた事は。
  問えば、マッドは顔を一気に紅潮させた。

 「あ、当り前だろうが!あれはお前が無理やり、だから仕方なくっ!」
 「私は嫌ではなかった。」
 「な………!」
 「マッド…………。」

  魚が空気を求めるように口を開閉させているマッドの眦に指を滑らせた。夜、何度も此処に涙を
 溜めさせた。最初は無理やりだったそれは、けれども決してマッドの意志を砕いた上での行為では
 なかったはず。
  いつでもマッドには、サンダウンから逃げる機会があったのだから。
  けれども逃げずにサンダウンに抱かれて、サンダウンの記憶が戻る事を怯え、戻った後はサンダ
 ウンがそれを覚えていない事に苦しんで。
  期待するなと言うほうが無理だ。

  そんなにも想われていた事に気付かなかった自分は、やはり愚かだとは思うが、それだけマッド
 の隠し方が上手かったのだろう。隠し方が上手かったのはサンダウンも同じなわけで、だからこそ
 マッドはサンダウンの想いに気付かず、これほどまでに怯えてしまったわけだが。
  しかし、今ふるふると震えるマッドは、怯えで震えているわけではない。その赤い耳元で囁けば、
 やはりふるりと震える。

 「もう一度訊く………嫌だったか?」

  そして、嫌か?

  今のサンダウンに、こうして触れられている事は。

  マッドの視線があちこちを漂う。紅を差したかのように赤い頬に、戸惑いと困惑はあるものの、
 先程まで見受けられた苦鳴はない。言葉を探すように震える唇に、親指で触れると、マッドは観念
 したように眼を閉じた。
  なんて、分かりやすい。もしもこれさえも仮面だというのなら、しかしそれがない事は、仮面の
 亀裂を見極めたサンダウンには分かっている。
  サンダウンは夢の中で囁いた言葉を、現実味を帯びた自分の声でもう一度落とした。

 「…………キスしても?」
 「てめぇの好きにしたらいい………。」

  返ってきた言葉も夢の中の返答と同じ。ただし、続いて呟かれた衣擦れのような言葉が違ってい
 た。

 「…………嫌じゃなかったし、嫌じゃない。」

  その台詞に覆い被さるように、そっと口付ける。
  何も差し込まず、遠くで見ているわけでもなく、ようやく直に触れたそこは、蕩けるように熱か
 った。