突然倒れて目覚めないサンダウンに、マッドは本気で焦った。
  腕の中にある身体は重く、硬く閉じた瞼が開く気配はない。金の睫毛がひくりとも動かない様に
 うろたえ、途方に暮れながら、マッドは確かこんな事は前にもあったなと思う。
  それは、サンダウンが記憶を失った時の事。
  何にも頼るものがなく、ただ荒野のど真ん中でその身体を抱き締めて怯えていた。今は、それと
 同じ状況で、同じようにサンダウンは眼を覚まさない。

 「キッド、キッド………!」

  間違いなく己の言葉で傷つけた彼に、マッドはただしがみついて、その眼が醒めるのを祈った。




 17.Warp





  ふるり、と光の線を集めたような睫毛が震えた時、サンダウンがその眼を閉ざしてから丸一日が
 経っていた。
  頬に落ちた微かな影の動きにはっとして、マッドが顔を覗きこめば、それはゆるゆると瞼が開こ
 うとしている瞬間だった。薄っすらと開いた隙間に、確かに青い色がぼやけてはいたが浮かんでい
 た。

 「キッド?」

  眩しそうに眼を薄く開いては閉じてを繰り返すサンダウンに、マッドはそっとした声音で囁いた。
 すると、僅かに見える青い双眸がのろのろと動き、そこにマッドを映し込んだ。

 「………………マッド?」

  かさついた声は、微かな疑問を呈してマッドを見やる。しかしそこには些かの戸惑いも揺らぎも
 ない。それは今だ眩しそうな瞳も同じ。
  それを見た瞬間、それが本来のサンダウンであるとマッドには分かった。
  幼い色は何処にもなく、少年の頑是なさもない。ひたすらに寡黙で落ち着いた、荒野そのものの
 ような気配が立ち昇っている。
  それは、マッドが求めて止まない、賞金首サンダウン・キッドだった。
  むくりと身を起こし、辺りを見回して己の状況を確認したサンダウンは、しかし結局自分が何処
 にいるのか分からなかったのか、此処は何処だ、とマッドに訊いた。それはサンダウンの記憶が戻
 った証拠であると共に、とある予感が湧き上がる切欠だった。
  そしてその予感は、次のサンダウンの台詞で確定となった。
  何も覚えていない、とサンダウンは言ったのだ。

 「何も?」

  マッドが繰り返し言うと、サンダウンは首肯した。そこだけぽっかりと穴が開いたように、記憶
 がなかった時の記憶そのものがないのだ、と。

 「本当かよ………。」

  あれほどまで様々な事があって、こちらの事を散々掻き乱しておいて、当の本人は何も覚えてい
 ないとは。どんな頭をしているんだ、とマッドは天を仰いだ。
  しかし、マッドにとってはそれは願ってもない。
  サンダウンが、マッドを掻き抱いて愛を囁いていた事など、自分達が賞金首と賞金稼ぎである以
 上、必要のない――寧ろ煩わしい事でしかないのだから、その記憶がサンダウンにないのなら、そ
 れは望むところだ。何よりも、マッドが望んだ。

  記憶よ戻れ。
  されど全て忘れろ。

  その通りになったのだ。ならば、諸手を上げて歓迎すべき事だ。

 「は、他人に散々迷惑かけておいて、その記憶がねぇたあ良い根性してやがるぜ。」

  マッドはいつもの通りに口元に皮肉げな笑みを浮かべて、ぎしりと音を立ててベッドに腰掛けた。
 昨日までは二人分の重みを受け止めていたベッドは、その時よりも遥かにマシな音を立てた。
  そんなマッドの様子を、サンダウンは相変わらずの無表情で眺めている。たった一日前まではあ
 った表情が、見当たらない。

 「で、この数日間あんたの面倒を見てやった俺に何か言う事があるんじゃねぇのか。」
 「…………迷惑をかけた。」
 「ああ全くその通りだぜ。」

  マッドはそう吐き捨てると、サンダウンに背を向けるようにベッドに横たわった。その様子を見
 てもサンダウンは動かない。そんなサンダウンにマッドは軽く舌打ちして、振り返りもせずに言っ
 た。
 
 「てめぇの世話で疲れてんだよ、俺は。今日はてめぇの相手なんかしてやらねぇぜ。」

  とっとと出ていけ。
  言い捨てられた言葉とマッドの振り返らないマッドの背中に対して、サンダウンが何かを口にし
 そうな気配があった。しかし、微かな衣擦れの後、サンダウンはこう告げただけだった。

 「世話になった………礼は言っておく。」

  低く行き渡った声を置き去りに、サンダウンは硬い足音を立ててマッドから遠ざかって行く。遠
 くなる足音の最後に、軋んで開かれる扉の音が響いた。その薄い扉を隔てた向こう側で、馬蹄が地
 面を打ち鳴らす音が小さくなっていくのを聞きながら、マッドは眼を閉じた。

  それ以降、サンダウンとマッドが逢う回数は、記憶が失われる以前と比べてめっきりと減った。
 仮に出会ったとしても、マッドは理由をつけて決闘を行おうとしない。
  傍目から見れば、奇妙な光景に見えただろう。マッドがサンダウンを追い掛けようとしない事な
 ど、恐らく天変地異の前触れにも思えたかもしれない。
  けれども当のマッド自身は、その理由が良く分かっていた。いや、もしかしたら本当には理解―
  ―と言うよりも認めていないのかもしれないが、少なくとも表層的な理由だけは見つけていた。
  
  塒にある簡易的なシャワーを浴びながら、マッドは己の身体を見下ろして唇を噛み締める。
  西部の中でも白い部類に入るマッドの肌は、女ならずとも男でも賞賛に類する言葉を吐く。その
 肌は、幼いサンダウンのお気に入りでもあったのだ。
  彼はマッドを抱き締めるたびに、濃く薄く痕を散らしていって、その様を楽しそうに見下ろして
 いた。
  その痕が。
  マッドは、胸から腹、腿へと残る赤い痕を視線で辿る。薄れたとは言っても、サンダウンが歯跡
 まで付くほど強く残した痕は、まだ消えない。それを見るだけで、肌を這う手や舌、掴まれた腕の
 感覚まで思い出せるのに。
  そんな状態で、サンダウンに逢って、その声を聞けば。

  ―――マッド。

 「っ、うるせぇ!」

  耳の奥深くで翻った声に、マッドは思わず怒鳴った。
  何かの拍子にふと思い出すのは、熱っぽく自分を求める声だ。あれほどまでに激しく、しかも本
 当ならば自分が追い求めているはずの存在から、求められた所為だろうか。四六時中聞かされた声
 は、どうやらマッドの中に深く刻み込まれていたらしい。毎日抱き締められていた身体は、一人で
 寝る事に怯えを浮かべている。サンダウンに抱かれていたその熱の移りがない事に、肌は寂しさを
 覚えている。

  忘れてしまえ。
  サンダウンにはそれを願った。それはマッドの望むところ。サンダウンはマッドを見ても、凍り
 つかずに以前と同じように無感情に接してくる。なのに、それを物寂しいと思っている自分は何な
 のだろうか。
  身体は抱き締められる事を望んで、サンダウンの姿を見ただけで炎を灯したかのように熱い。
  決闘なんて、出来るはずもない。

  そんな自分に愕然としながらも、この痕が消えたなら、と藁にも縋るような思いで呟いている。
 この痕が消えたなら、多分、いつもの自分に戻れるだろう、と。それは何の根拠もない、寧ろ起こ
 り得そうにない事だ。けれども、そうでも思わなければ。

  自分は一体何を望んでいたのか、分からなくなる。

  サンダウンの記憶が戻るのを求めていた。
  けれども腕に抱かれるのが心地良いとも思っていた。
  それをサンダウンに知られた以上、何もかも忘れてしまえと願った。

  結局結局、マッドの望みは全ててんでばらばらな方向を向いていて、どれか一つしか望めないの
 だ。サンダウンの腕に抱かれたままその記憶が戻って、それでもサンダウンが何も思わないなど、
 そんな事は願ってみようにも、どんな願いをすれば良いのかも分からない。

  行きつく果てのない思考を抱えたまま、ぼんやりと身体を拭いて、一向に消えない痕を服で覆い
 隠す。窓の外を眺めやれば、外は雨だった。酷い土砂降りだと思っていると、すぐ傍で良く知った
 気配が立ち昇った。
  それに、思わずぎょっとした。一体いつの間に、だとか、なんで気付かなかったんだ、とか色ん
 な事が走馬灯のように駆け巡っている間にも、その気配は近づいてくる。
  雨の日特有の薄暗さの中、ぬっと立っていたのは荒野そのものが人を成したかのような男。そし
 てマッドが今一番逢いたくない相手。

 「キッド………。」