頭の内側、心臓の底、胃袋の裏側、骨の髄の一つ一つまでが、まるで自分の物ではないかのよう
 に、激しく喚き立てている。ぞくぞくと悪寒のように這い上がるそれらは、少しずつ表面に現れ、
 徐々に広がりを見せ始めた。
  サンダウンをどうにかして呑み込み、塗り潰そうとするかのようなそれに、喉の奥から何度も苦
 いものが突き上げた。
  脳味噌を揺さぶるようなその感覚は、サンダウンをこの場所――乾いた風が支配するこの大地か
 ら、低い緑しか存在しない不毛の荒野から、愛しい愛しい荒ぶる魂が存在する此処から、引き離そ
 うとしているのだ。
  何を今更、と吐き捨てる。己が内から再び噴き上げようとする記憶の気配に、サンダウンは侮蔑
 の言葉を呟いた。今まで何もしなかった挙句、今になって現れて、彼を苦しめるつもりか、と。




 16.Magnolia





  記憶など戻らなければ良い。
  そう告げたサンダウンに、マッドは明確に答えを返さなかった。腕に抱きこんだ身体は、俯いた
 まま、沈黙で以てそれを回答とした。肯定の意を示さなかったそれに、サンダウンは落胆こそした
 ものの、けれどもさほど傷つかなかったのは、サンダウンも何処かでその答えを予想していたから
 だ。
  ずっと、サンダウンの記憶が戻る事を求めていたマッド。サンダウンの知らないサンダウンばか
 りを心配し、追い求めてきた彼が、そう容易く諦めるとも思えなかった。
  しかし、サンダウンの記憶が戻って欲しくもないはずだ。必死で抵抗していたのが嘘のように、
 今では大人しくサンダウンに抱かれ、貫かれ、その身に愛を囁かれてしまった以上、マッドも元に
 は戻れない事が分かっているはずだ。ただ、抱き締められていた時とは違う。笑い事では済まされ
 ない。
  サンダウンがマッドを抱けば抱くほど、マッドの逃げ場はなくなるはずだ。同時に、サンダウン
 を――今のサンダウンを受け入れる面も増えて行くはずだ。それに従って、マッドがサンダウンの
 記憶が戻る事を求めなくなるのではないかと、思っていた。
  もしも、マッドが一言でも、記憶など戻らなければ良いと呟けば。
  この身の内で喚き立てている、かつての――『未来の』――サンダウンも、押し黙るのではない
 だろうか。求められているのは己ではないと理解して。
  しかしマッドは頷かなかった。今日の今日まで一言も口にせず、肯定の沈黙も返さず、ただ黙っ
 ているだけだった。

 「マッド。」と掠れた声で囁やけば、その頬から項にかけてを真っ赤に染めて、眼を伏せたまま口
 付けを受け入れてサンダウンに抱かれるのに、まだ何処かで、サンダウンの記憶の残滓を求めてい
 る。
  その肩口に顔を埋めながら、どうしてと呟いた。
  此処は、サンダウンがまだ知らないマッドの塒の一つだ。広い荒野の中、マッドが自分を一人置
 いて何処かに行くたびに、サンダウンはいつ自分が乗っ取られるとの知れない、激しい恐怖に襲わ
 れる。だから、今やサンダウンはサクセズ・タウンで一人大人しくしている事など出来ない。それ
 故、どれだけマッドが言って聞かせても、サンダウンはマッドを追って荒野へと抜け出してしまう。
  しかし、マッドの傍にいたからといって、その感覚が薄れるかと言えばそれは違う。
  マッドがサンダウンの眼の中に、何らかの残り香を捜すたびに、まるで自分は此処にいるのだと
 伝えようとするかのように、サンダウンの意識を割り入って骨の奥から何かが裂けて出てこようと
 している。それを堪える為にマッドにしがみ付いて、もう一度、どうしてと呟いた。

 「俺の記憶が戻れば、お前は傷つくんだろう?なのに、どうして。」

  薄暗い小さな部屋の中は、二人きりの体温しかなく、呟き声だというのに酷く響いた。

 「マッド…………。」

  答えはないとは知りつつ、白い背に何度も口付けを落とす。身じろぎする身体は艶めかしくて見
 ているだけで、もう一度絡みつきたくなる。黒髪に指を差し込んで、絡め取っていると、マッドが
 薄く眼を開いてそこにサンダウンを映し込んだ。
  マッドの黒い眼が自分を映した事に喜んでいると、マッドは小さな嘆息と共に囁いた。

 「………キッド、お前、いくつだっけ?」
 「十九だ。」
 「だよな。俺よりガキだろ、お前。」

  その言い分にむっとしていると、マッドは気だるげな口の端に笑みを浮かべ、何かを諦めたかの
 ような声で呟いた。

 「すぐに、飽きるぜ、こんな事。」

  一瞬、何を言われたのか分からなかった。変わらずに微笑むマッドを見下ろし、ようやく、それ
 が『マッドに飽きる』という意味だと悟ると、ふつふつと怒りが込み上げてくる。

 「飽きたりしない…………。」
 「飽きるさ。俺なら、飽きる。」
 「俺はお前じゃない。」
 「なら、俺が飽きるんだ。」

  唸るように言えば、ひらりと躱される。しかしその躱し方も、サンダウンの怒りを煽るばかりだ。 
  ふざけるなと吐き捨てれば、ふざけてねぇよと返された。

 「てめぇは俺に愛してるだの何だの囁くけどよ、それはいつか飽きが来るもんなんだよ。人間の心
  だ。そういうもんさ。まして好き嫌いなんて、一番利己的で無責任なもんだろうが。何にも負う
  ところがねぇ。一番回転の速い風見鶏さ。」
 「それは、お前がこの男を追う事も同じだろう。」
 「違うね。」

  マッドはシーツの海から身を起こし、サンダウンを見据えた。

 「俺がお前を追うのは確かに俺の勝手だが、それと同時に俺は賞金稼ぎとしての矜持も懸けている。
  てめぇを諦めるなんて言った日には、俺は西部一の賞金稼ぎの座から追い落とされるだろうよ。
  好き嫌いを止めるのとは全然違う。」

  自分の属性に関わるのだと告げるマッドに、サンダウンは歯噛みして食い下がる。

 「ならば、俺も矜持を懸ければいいだけだろう。」
 「は、後付けのそれに、一体どんだけの効果があるってんだよ。暴走列車に慌てて荒縄投げ打った
  ところで、何にもなりゃしねぇ。」
 「それなら、お前のように途中から加速しても同じことだろう。」

  サンダウンの言葉に、マッドが怪訝な表情を浮かべた。その眼前でサンダウンは言い放つ。

 「お前こそ、この男の記憶一つの事で苦しむほど、この男を想っているだろう。」
 「な…………。」

  息を呑んだマッドを、再びシーツに引き摺り倒し、腕を抑え込む。
  マッドがいつからサンダウンを想うようになったのか、最初からなのか、それとも先程言ったよ
 うに途中から加速――変化したのか、それは知らない。
  だが、記憶が戻る事を望む事、抱かれた時に抵抗したものの銃で撃ち抜けば良いだけのところを
 結局はそうしなかった事、そして成されたそれに記憶が戻った後の事を考えて震える事から、導き
 出せるのは一つだ。
  賞金首と賞金稼ぎだと言うのなら、銃の撃ち合いで解決できるそれらに対し、まるで打つ手がな
 いかのように怯える彼は、どれほどサンダウンの事を想っているのか。

 「お前に想われても気付かないような、気付いていても黙っている男だぞ。」
 「何言って………。」

  うろたえる眼を見せたマッドは、逃げようとするがサンダウンの身体とシーツの間では、逃げる
 場所など何処にもない。

 「マッド、俺なら、お前に応えてやれる。」
 「うるさい!」

  囁けば、マッドは嫌がるように身を捩る。その身体を抱き締めて首筋に唇を這わせると、いとも
 容易く身体は仰け反り、蕩ける素振りを見せる。

 「この男を想うように、俺を想う事は、できないか。」
 「止めろ………っ!」

  聞きたくないのだ、とサンダウンの言葉を否定するように叫ぶマッドに、サンダウンは尚も執拗
 に愛撫を繰り返しては囁く。

 「お前の想いはいつか飽いて終わるのか?お前はないと言うが、それならば、俺も同じだ。」
 「もう、止せ!」

  マッドは叫んで、どうにか振り解いた手でサンダウンを押しのけようと手を払う。頼りなく宙を
 掻いた腕を再び掴めば、マッドの声は更に引き攣ったようなものになる。

 「止めろ、なんでお前は………っ!俺が聞きたくねぇと思う事ばかり……!」
 「マッド………。」

  宥めるように手を伸ばす。
  しかしそれを振り払い、マッドは今にも零れ落ちそうなくらい震えた瞳でサンダウンを見上げる
 と、小さく呟いた。

 「忘れろ………。」
 「マッド………?」

  吸い込まれそうな瞳と共に囁かれた台詞に、サンダウンが疑問を呈すると、マッドは今度こそ自
 分の望みを告げてきた。

 「記憶が戻っても、この事は全部忘れろ………!」

  悲鳴のような声に、もう一度と伸ばした手がぴくりと止まった。胸を突かれたようにマッドを見
 れば、その様子からそれがマッドの本心だと知れる。
  全てを忘れる事。それは、サンダウンが最も恐れていた事だ。己の存在が消えて、マッドを想っ
 た事全てが失われてしまう。
  しかし、マッドはそうであれと願っている。心の底から。

  どくん、と。
  想像を絶する勢いで、何かが溢れ出そうとしている。身体の奥から激しく引っ掻くように湧き上
 がるそれに、サンダウンは耐え切れずにその場に崩れ落ちた。

 「キッド………?!」

  突然のサンダウンの変貌に、マッドも以上を感じたらしく身を起こす。その身体に必死で縋りつ
 いた。
  マッドは、サンダウンの記憶が戻ってもと言った。それはつまり、サンダウンの記憶が戻らない
 事をマッドは考えていないのだ。考えていたとしても、比率的には小さいのだろう。そして彼はサ
 ンダウンが消える事を望んでいる。
 
  離れたくない。
  けれどもマッドが求めるままに、サンダウンの意識は後方へと押しやられ、代わりにあの男が戻
 ってこようとしている。
  忘れたくなくて、何一つとして忘れたくなくて、その身体を手繰り寄せた。もしも消えてしまう
 のなら、最後のその一瞬までその熱を感じていたい。
  腕に抱き締めた身体から熱が伝わる。サンダウンの様子にマッドも腕を回してくれる。それが、
 余りにも心地よくて。

  マッドの声が、形は分からないけれども響きだけが聞こえたのを最後に、サンダウンの意識は途
 絶えた。