名前を呼んで、無防備に曝されている白い項に顔を寄せると、形の良い肩が面白いくらいに跳ね
 上がったかと思うと、まるで項を守るかのようにマッドはサンダウンを振り返った。赤く染まった
 頬を可愛いな、と見つつ、まさか男をそんなふうに見る日がくるとは思わなかったと嘆息した。
  可愛らしい反応をしてみせた賞金稼ぎは、黒い瞳に力を込めてサンダウンをにらみ上げ、吐き捨
 てるように、止めろ、と言った。
  その台詞に、なんでこうも往生際が悪いんだと思う。マッドも抵抗らしい抵抗をほとんど見せな
 かったあの夜、二人は行きつくところまで行ってしまったのに、今更制止の言葉をかけても、意味
 がない。




 14.Sanctuary





  サンダウンも、あそこまで性急に事を進めるつもりはなかったが、しかしあんなにも熱い身体を
 抱き締めてしまった以上、後戻りしろと言うのが無理な話だ。そして何より、サンダウンの中に、
 ある一つの恐怖があった。
  それは、いつ、記憶が戻るのか分からない、という事だ。
  今のところ記憶が戻る気配はないし、サンダウンにもその気がない。マッドにあれほどまで心を
 傾けられておきながら、今までに一度もその心に応じなかった男になど、戻りたくもない。

  いつもどうされていた?と問うた瞬間に、傷ついたような色を浮かべたマッドの表情が忘れられ
 ない。あの時ほど、自分の言葉が間違いだったのだと思った事はなかったし、同時に言いようのな
 い優越感を覚えもした。
  マッドが初めて受け入れたのは自分なのだと、手を出さなかったこれからの自分を嘲笑う。
  しかし同時に胃の中に冷たく広がるのは、いつ記憶が戻るか分からないという恐怖だ。記憶が戻
 った時、自分が一体どうなるのか分からない。

  マッドの言うように、この事を後悔してしまうのだろうか。そしてマッドを苦しめるのだろうか。
 それとも、この記憶そのものが、本来の記憶に押しやられるようにして消え去ってしまうのだろう
 か。マッドを欲しがる自分の片鱗さえ残らずに、消えてしまうのだろうか。
  そのどちらも、サンダウンにとっては恐怖だ。手に入れたものを、自分の手で振り払ってしまう
 なんて。

  恐怖は時として、冷静な判断を狂わせる。真っ赤な顔で逃げるマッドを、可愛いと思う余裕もな
 くなり、抱き寄せた。サクセズ・タウンの宿の壁に追い詰めてその肩を引き寄せた時に放たれた制
 止は、何よりも鋭かった。
  あの夜以降、何度かマッドを引き寄せたが、サクセズ・タウンの中でだけは、マッドは頑として
 サンダウンを受け入れようとはしなかった。サンダウンも、誰かにこの関係を知られたくないのだ
 というマッドの思いを汲んで、掠める口付け程度で逃がしていたのだが、思いついた恐怖に取りつ
 かれた頭では、そこまで思い遣る事が出来なかった。
  嫌がる身体を押し倒して、無理やり口付けた。くぐもったマッドの声が、艶めかしい。片手で肩
 を抱いたまま腰をもう片方の手の指で食んで、舌で濡れた唇を舐めて。
  声を押し殺したまま実行されたその行為が終わった後、見下ろしたマッドの顔は蒼白だった。

  次の日、マッドは仕事をしてくると言って出て行ったきり、戻って来ない。
  勿論、サンダウンが悪いのだ。嫌がっていたマッドを無理やり抱き締めたサンダウンが、どう考
 えても悪い。あのまま縛り首にされてもおかしくなかった。
  それをせずに出て行って戻って来ないマッドに、サンダウンは乾きにも似た焦燥を感じる。怒り
 狂っているのならいい。だが、傷ついて何処かで苦しんでいるのなら。天にも昇る勢いだった優越
 感も立ち所に消え去ってしまうというものだ。
  それと同時に、腹の底から心臓の裏側まで、何か底知れぬ冷たさが這い上がってきて、サンダウ
 ンを呑みこもうとしている。得体の知れぬそれが、何なのか、サンダウンには分からない。知らな
 い自分が持っている何かしらの感情なのか、それとも記憶そのものなのか。だとしたら、いつ、サ
 ンダウンがサンダウンではなくなるか分からない。
  そしてその時、サンダウンはマッドに掠り傷一つ負わせずにいられるだろうか。

  恐怖は切望にすり替わる。
  もはや衝動的の極致で、サンダウンは誰もいない宿の扉から、海面を求める鳥のように這い出る。
 マッドの熱が薄れかけたこの町では、上手く呼吸が出来ない。荒野の何処かにいるあの男の傍にい
 ないと、この世界から弾かれたような気になる。
  マッド、とうわ言のようにその名前だけを繰り返して、その熱と気配だけで世界の輪郭をなぞっ
 ていく。他の何かで、物事を見極めろと言われても出来そうにない。昼も夜も分からない。

 「キッド!」

  だから、急に届いた声は閃光のようだった。
  真っ青な空を背負った、突き抜けて黒い影が覆い被さるように肩を掴んで、焦点さえ定まってい
 ないサンダウンを引き戻そうと、揺さぶっている。

 「キッド、おい、しっかりしろ!俺が分かるか!?おい!」
 「マッド………?」

  ふわりと薫る葉巻の匂いが、彼が好むものだと知ったのは、いつだったか。最初の道程で既にそ
 れが好みなのだと知っていた。そこに混ざる彼自身の柔らかい匂いがずっと好きだった。
  名を呼んだ瞬間に、あからさまに安堵した彼に、ああまた心配をかけたのかと思うが、それが酷
 く嬉しかった。その嬉しさに後押しされるように抱きつくと、マッドが喉の奥で息を詰めた。それ
 に構わず抱き寄せ、乾いた砂の上に押し倒す。そうすると、味気ない荒野の茶色の大地の中で、そ
 こだけが鮮やかに変貌するから不思議だ。

 「止めろ、キッド!」

  安堵の色を掻き消して、サンダウンを引き離そうとするマッドは、もしかしたらあの無理やりの
 情事を思い出しているのかもしれない。現に、制止の声は鋭かった。

 「キッド、いい加減に!」

  しろ、と続けようとしたらしい口は、不意に歪な形で止まったかと思うと、のろのろと何かを諦
 めたかのようにサンダウンから眼を逸らす。

 「てめぇは、なんて顔してやがるんだ…………。」

  顔を背けたまま苦しげに吐き捨てたマッドの顎を掴んで、こちらを向かせると黒い瞳が瞬きもせ
 ずにこちらを見つめた。そこに映っているのは、情けない顔をした自分の顔だった。

 「キッド、何があった。」

  黙って顔を肩口に埋めたサンダウンに、マッドは先程までの鋭さを消して、穏やかでさえある事
 で問い掛ける。幼子をあやすような声は、サンダウンの望むものではなかったが、それでも腕の中
 の身体は温かい。
  その身体に縋りついて、言ってしまおうか、と逡巡する。自分が、或いは自分の思いが消え去る
 のが怖いのだ、と。それによってお前が苦しむというのならば、恐怖はより強い。
  躊躇いの末に、それは遂に口にされなかった。口にしたなら、それはそれでマッドを困らせる。

  代わりに、これはこれでマッドを困らせるだろう事を口にする。肩口から顔を上げ、黒い瞳を覗
 き込んで、形の良い下唇に親指をあてがい、

 「……………キスしても?」

  そう、伺った。
  マッドが眼をぱちぱちと瞬かせる。そして何を今更、と呟く。

 「今まで好き勝手にしてきただろうがよ。」
 「……………返事が、聞きたくなった。」

  マッドに許されているのだと、確証が欲しくなったのだ。犯した罪に許しを請うのは、当然の行
 為だ。サンダウンは、マッドに、此処に存在していても良いのだと、許されたい。
  その意図にマッドは気付いたのだろうか。微かに戸惑いの表情を浮かべた後、好きにしろよ、と
 言った。

 「てめぇの好きにしたらいい。」
 「……………許してくれるか?
 「……………ああ。」

  僅かな逡巡の後に、マッドは頷いた。ガキのやってる事だし、と言い訳のような言葉は聞こえな
 かった振りをして、サンダウンは煉獄の炎のような身体を抱き寄せる。肩を引き寄せ、頬に手をか
 けて、瞳を閉じるように促した。マッドは躊躇いがちに、それでも許した手前、大人しく眼を閉じ
 る。

  そこだけ別の生き物のように微かに震えている唇に覆い被さると、ひくん、と身体が震えた。
  その熱に全身が溶けるような心地がすると同時に、脳裏の裏側で誰かが激しく扉を叩いているよ
 うな感覚に襲われる。まるで誰かが、此処から出せと暴れているようだ。けれどもそれを叶えてや
 るわけにはいかない。

  今更、そう今更。今まで黙って見過ごしてきたお前に、彼をやるわけにはいかない。

  今、この瞬間に、全てが止まれば良い。そうすれば、きっと自分は永遠にこのまま、この思いを
 抱えていく事ができる。
  けれども、それは間違っていると誰かが叫んでいる。
  喚く誰かを無理やり押し込め、真っ青な空をマッドの肩越しに睨みつけた。