ある日を境にマッドに逢う回数は以前よりも増えたが、しかしそれに伴って二人だけになる時間
 は少なくなったような気がする。
  マッドはサンダウンと逢う時、出来る限り誰かがいる場所にいるし、二人きりになれたとしても
 それは近くで人の気配がする場所だったりで、サンダウンはマッドと会話らしい会話ができず、ま
 して触れてその熱を感じる事など尚更出来ない。 
  確かにマッドにはもっと逢いに来てくれと強請るような台詞を吐いたが、けれどもこれでは意味
 がない、と思う。
  サンダウンがマッドに望むのは、もっと近しい事だ。その傍らで、鼓動を聞くだけでも良い。け
 れどマッドはそれに対して警戒音ばかりを発して、許してくれない。
  サンダウンの知らないサンダウンが、困るだけだからと言って。
  その、マッドがサンダウンに警戒音を告げ始めた『ある日』というのが、サンダウンが、マッド
 の未来の傍にいるのは自分でなくては駄目なのか、とマッドに駄々を捏ねた日だ。





 12.Ring





  『未来のサンダウン』は、マッドに嫌われてはいない。
  アニーに聞けば『嫌いなわけないじゃないの』と言われるし、他の住人達も口を揃えてえ自分達
 がこの町を救った時の事を口にする。それを聞く限り、確かに賞金首と賞金稼ぎという張り詰めた
 関係を持っていても、決して険悪なものではなかったようだ。それに険悪ならば、一番最初の段階
 でサンダウンを荒野に放り出しておけば良いだけの話だ。

  けれどマッドは『今のサンダウン』には触れられる事を拒む。まるでそれが人間が犯した最大の
 罪であるかのように。

  『今と未来』。その二つを分けて考える事はマッドは無理だと言う。
  それならば、別に触れるくらいいいじゃないかと思う。賞金首と賞金稼ぎだからといって、それ
 くらい、記憶が戻った時にせいぜいからかって、少しばかり気まずい思いをしてそれで終わりだ。
 『未来のサンダウン』と険悪な中でないのなら、尚更。それを何を過剰に考えているのか。
  それとも。
  はたと思いつくのは、男に襲われた時の事。マッドはサンダウンに対してもそういう恐れがある
 と見做しているのだろうか、と。しかしそれならば、二人の関係は決して良好であるとは言い難い
 だろう。それこそ、マッドがサンダウンを見捨てなかった事実に反する。

  ならば、あと残るのは。
 『未来』で困るからと言って『今』のサンダウンに、触れられる事さえ過剰に拒むマッド。
  それは、マッドとサンダウンの間にあるものに、実は温度差があるからではないのか。少なくと
 もマッドは自分の思いと、サンダウンの思いに差があると感じしているのではないだろうか。

  果たしてどちらの思いが深く、重いのか。
  そんな事、マッドの様子から見れば、分かる。
  触れられる事にさえ怯えを見せて、未来を守ろうとするマッド。それはサンダウンを守る為に必
 死になっているからだ。まるで、愛しい者に一つの傷もつけたくないと言わんばかりの様子。
  不思議と、嫌悪はなかった。
  寧ろ、鏡の中の自分を見やった瞬間に感じた、腹の底に広がる冷たいものは、自らに向けたもの。

  あの、燃え盛る炎のような男にこれほどまで思われておきながら、逃げる事しかしないのか。こ
 れからの、自分は。その居心地の良さに甘えて。
  自分の記憶一つが戻る事を求め、そしてそれだけの事であれほどまでに心を砕いているのに、な
 のに記憶が戻った自分はそれを食い潰すだけの男でしかないと言うのなら。

  記憶など、戻らなければ良い。

  脳裏にひらめいた事に愕然としつつ、この思いつきほど最良の事はないように思えた。自分にと
 っても、何よりもマッドにとっても。マッドは悲しむかもしれないが、それでも。

  彼が、欲しい。

  愕然としたままに、更に自分でも信じられない事を思う。そう、サンダウンは、マッドが欲しい。
 マッドの心を砕いている、この先にある自分の姿に嫉妬するほど――ああそうかこれは嫉妬か。
  一旦思い至って自覚してしまえば、それは留まるところを知らない。
  彼が欲しい彼が欲しい彼が欲しい。
  その線が、色が、声が、熱の一滴さえも全て欲しい。
  脳裏の遥か奥底で、あれは男だと冷静な声が聞こえたが、それがどうしたと、あっさりと反論出
 来た。きっと今までの自分なら想像もしなかっただろう。女のいない戦場では、男同士で欲を吐き
 出し合う事がままあるのは知っている。だが、そこに自分を当て嵌める事は出来ないと思っていた。
 それが、嫌悪に属するのか恐怖に属するのか分からないが、とにかく、自分には考えもつかない世
 界だと思っていた。
  けれど、マッドについては別だ。
  彼に想われ、彼を想う事には、些かの嫌悪もない。
  そしてふと不安になる。これはもしかして、マッドを襲った男達と同じなのではないだろうか、
 と。思ってみて慌てて打ち消す。そんなわけがあるか、と。サンダウンはあの男達のように、マッ
 ドを何か珍しい宝石のように思っているわけではない。彼を人形のように扱いたいのではなく、た
 だ嘆く様を見たくないだけだ。自分の――しかも理不尽な事にこれから先にあるという自分の――
 所為で。
  もしも、その手が自分に向かって差し伸べられたなら。
  その声で、何も思い出さなくても良いと言ったなら。

 「キッド!」

  急き切ったような声で、待ち望んでいた声がした。灯り一つ灯さずに佇んでいた廃墟の一画で、
 サンダウンは身じろぎする。
  少しずつサンダウンと距離を取り始めたマッドを不愉快に思い、どれだけ請うても二人だけで話
 す時間を取ってくれない彼に苛立って、サクセズ・タウンから出奔してやったのは丸一日前の事。
  また来る、と言った彼が5日置きくらいの決まったローテーションでやって来る事を知っていて、
 そしてその前日に行方をくらました。マッドが捜しに来る事を期待して。
  その時彼が捜すのは、一体どちらだろうか。今此処にいるサンダウンだろうか。それともマッド
 が本来追い求めているサンダウンだろうか。

  そしてマッドは、サンダウンが望むようにやって来た。
  足音も声高く、それで彼の心配と怒りを表して、マッドは廃屋の隅に座っているサンダウンのも
 とへと歩み寄る。

 「何をしてやがるんだ、てめぇはこんな所で!暇だからってこんなふうに無防備にいて良い人間じ
  ゃねぇって事が分からねぇのか!町がどんだけ大騒ぎになってると思ってんだ!」

  町に着くなりあいつら全員に泣きつかれたんだぞ!
  吐き捨てるように言う彼の白い頬は、闇の中でも紅潮している事が分かった。それは、彼の心が
 どれだけ乱れているのかを示している。

 「マッド。」

  荒れ狂っているマッドの白い手を掴み、その足元に跪くようにして肩で息する彼の顔を見上げる。

 「俺の記憶が戻って、出て行ったとは思わなかったのか?」
 「てめぇがあいつらに何も言わずに出ていくかよ。大騒ぎになる事が眼に見えてるだろうが。」

  彼は、今、此処にいるサンダウンを捜しに来たのだ。けれどそれが喜ぶべき事なのかどうなのか、
 サンダウンには分からない。何故ならば、捜しにきた理由の根底にあるのは、結局、マッドが求め
 て止まないサンダウンが誰かに奪われる事を怯えての事だ。

 「マッド。」

  ちり、と心臓の奥が火傷したように痛んだ。ゆっくりと立ち上がると、サンダウンの背はマッド
 を越えて、その黒髪を見下ろす事になる。

 「俺の事は、考えてくれないのか。」

  此処にいるのは俺なのに。
  瞳に暗い色を浮かべてそう囁けば、紅潮していたマッドの頬がすっと色を失くした。その一言で、
 サンダウンが求めるところを悟ったらしい。
  帰るぞ、と硬い声で告げて身を翻そうとした身体を、翻ったジャケットの裾ごと抱き竦めると、
 白い喉の奥から、ひっと引き攣れたような微かな声が聞こえた。

 「マッド、嫌か、俺に触れられるのは。」
 「嫌とかそういう問題じゃねぇ!放せ!」
 「ならば、あの男に、触れられるのは?」
 「な………!」

  『あの男』が誰を指すのか一瞬で理解したマッドの身体が、はっきりと強張った。その身体に覆
 い被さるように抱きついて、眼の前に飛びこんできた白い項に思わず口付けた。

 「っ、止めろ!」

  びくりと腕の中の身体が跳ねて、逃げようともがく。それを更に強く抱き竦める事で押え込み、
 耳元で聞きとれるかどうかの早口で囁いた。

 「俺は良いと言っている。後はお前次第だ。お前が決めるだけだ。俺の事は関係なく、お前自身が
  嫌だと言うのなら、止める。」

  けれど此処まで来てしまったら、どれだけマッドが記憶が戻った後の事を言っても、無駄だ。サ
 ンダウンはもう決めてしまったし、それが掻き消されない以外、記憶が戻った後も残り続ける。そ
 れは既にマッドの手から離れて、マッドの責任ではない。

 「マッド、これは俺の所為だ。俺の責任をお前のものにするのは止めろ。だから、頼むから。」

  指先で身体の線をなぞると、びくりと身体が震える。けれど逃げようと身を捩るのが止まったの
 は、いきなり叩き込まれた台詞に混乱している所為か。

 「…………マッド。」

  囁くたびに震える身体から、少しずつ腕の力を緩めていく。けれども逃げない身体をもう一度、
 今度は正面から引き寄せる。黒い瞳が、何か最後の抵抗の様に光を瞬かせたが、それでサンダウン
 を止める事が出来ない事はマッドが良く知っているはずだった。
 
  震える黒い髪に手を差し込み、緩く撫でながら形の良い鼻梁の下にある唇に、触れる程度に口付
 けた。
  その瞬間に、腹の底で薄く、まだ知らぬ自分自身を嘲笑う。
  この男は、お前のものではないのだ、と。