誰一人そこで生活している気配のない路地に足を踏み入れ、そこに折り重なるようにして倒れた
 かつて壁の一部であった木々を見て、サンダウンは顔を顰めた。足の踏み場もないくらいに木の板
 が折り重なる路地裏が埃っぽく思えるのは、乾いた砂の所為だけではない。
  暇つぶしに、と踏み込んだゴースト・タウンは思った以上に人が立ち去って久しく、今後、誰か
 がそこで暮らす事を拒むように崩壊の兆しを見せている。
  けれど、その中で微かに人が生活しているような匂いを残す一画を見つけ、この町の上に記され
 た地図の赤い印とその地図の持ち主を思い出し、此処にマッドがいたのだろうな、と思った。





 10.Nightbird






  マッドの口にした「腕を鈍らせるな」という言葉を真に受けたわけではないが、小さな町である
 サクセズ・タウンでサンダウンのする事などほとんどなかった。サンダウンの手に掛からねばなら
 ないような出来事もなく、ただただ単調に過ぎ去っていく毎日は確かに退屈で、マッドが言うよう
 に腕が鈍ってもおかしくない。それに、どうやら自分の馬らしい栗色の毛をした馬も、ずっと厩に
 入れていたら、太って走れなくなるというものだ。
  だから、サンダウンはこうしてサクセズ・タウンの外を馬に乗ってうろつき回るようになった。
 アニーに口を酸っぱくして遠くに行くなと言われているので、せいぜい日帰り出来る程度の場所ま
 でしか行かないつもりだが、実は最近、日が暮れるまでにサクセズ・タウンに帰れない事がままあ
 る。
  日が暮れてから町に戻り、心配したのだとアニーに延々と説教を食らう事を、仕方がないとサン
 ダウンは思う事にしている。
  何せ、いくら身体を鈍らせないようにするだけとは言え、だだっ広い荒野を目的もなくぶらつく
 のは、サクセズ・タウンでのんべんだらりと生活している日々と大差ないような気がする。
  せめてなんらかの目的地なりがあればと思っている時に、こっそりと現れてこっそりと立ち去ろ
 うとしているマッドを見つけた。
 
  何処に行こうかと地図を眺めていた彼はサンダウンを見てたじろぎ、その様子にまた秘密裏にサ
 ンダウンの様子を窺って立ち去るつもりだったのかと思い、何故かむっとしてしまった。
  大体、偶に来ると言った癖にほとんど来ない上に、来てもこそこそと隠れて一体何のつもりか。
 最初の内は、いつか大勢の賞金稼ぎを引き連れて襲い掛かってくるのではないかとも思っていたの
 だが、その気配は一向に訪れず、肩すかしを喰らったような気がした。そもそも一番最初のあのお
 節介かと思うくらいにサンダウンの周りをちょろちょろしていたのが嘘のように、今ではその姿を
 見かける事さえ稀だ。
  あんまりな代わり身にサンダウンは唖然とし、更にそこに追い打ちをかけるように、稀に捕まえ
 る事が出来たマッドはサンダウンに見つかるたびに、酷く落胆したような表情を見せ、まるでサン
 ダウンが別の誰かである事を期待しているかのような素振りを見せる。
  恋人の訪れを待ちながら誰か来るたびに溜め息を吐くそれと同じ素振りに、以前彼が男達に襲わ
 れたのをサンダウンに見られた時に酷く動揺していた事も相まって、まさか賞金首と賞金稼ぎだと
 いうのは完全な嘘で、実は自分達はそういう関係だったんじゃなかろうかと疑ったくらいだ。尤も
 それならなんで嘘を吐くんだと――よりにもよって敵同士であるという嘘を――いう突っ込みを自
 分でして、その疑いは消えたわけだが。

  しかしそれでも、サンダウンは理不尽なものを感じずにはいられない。何が理不尽かと言えば、
 サンダウンを見て落胆するマッドが待っているのは、紛れもなくサンダウン本人だということだ。
  尤もマッド以外の人間――主にサクセズ・タウンの住人も、サンダウンの記憶が戻るのを心待ち
 にしているふうだから、別にサンダウンの感じる理不尽は別にマッドにだけ感じるものではないは 
 ずだ。
  しかし、サクセズ・タウンの住人はサンダウンの記憶が戻る事を願いつつ、同時にもうちょっと
 此処にいたら?とも思っているらしく、取り立て急いて記憶を戻そうともしない。
  従って、はっきりと落胆の色を浮かべるマッドが、理不尽の元凶にも見えるのは仕方ない事であ
 る。

  その、理不尽の塊のような男は地図を持ったまま、たじろぎながらも薄い笑みを浮かべ軽口を零
 して、むっつりと押し黙ったサンダウンからひらりと逃げ出してしまった。それはいつもの事だっ
 たが、ひらりと身を躱したマッドが手にした地図を、サンダウンはほんの一瞬だが見る事に成功し
 た。別に盗み見るつもりがあったわけではない。偶々だ。

  その偶々目にする事が出来た地図には、幾つもの荒い文字が書き込まれており、そこに更に赤い
 印が付けられている。
  その赤い印の位置を覚えて、マッドが立ち去った次の日、サクセズ・タウンの保安官が持ってい
 た地図でその場所を確かめた。実際に見に行く事にしたのは、暇だったのと、ほんの僅かな興味だ。

  最初はすぐに行ける近場へと向かった。そこから徐々に遠ざかり、今では日が暮れてようやく辿
 りつけるような場所まで来た。
  マッドの持つ地図に記された赤い印のある場所は、様々な場所だった。何故寂れてしまったのか
 と思うほど巨大なゴースト・タウンもあれば、家畜のいない牧場跡であったりもした。作りかけで
 放置された町もあれば、今にも壊れそうな廃屋だった事もある。
  様々なその場所は、しかし一様に、かつて人が暮らしていた事がある場所だった。

  そしてもう一つ、そこに共通する事は、濃い薄いの差はあるものの、確かにマッドのいた形跡が
 ある事だった。
  葉巻の跡、鉛の屑、空の酒瓶。いくつかの事象がマッドを指差し、それを見つけるたびに、彼の
 残り香が強くなる。

  そして今日、太陽が沈み最後の錦が西の空に広がる時刻に見つけたのは、小さな一軒家だった。
  誰も住む者がいないその小屋は、きちんと整理整頓されており、それ故にマッドの痕跡を見つけ
 るのも容易かった。その所為か今まで見てきたどの場所よりもマッドの気配が濃い。
  騒々しくて派手を好む男の気配であるにも拘わらず、マッドの気配を感じると妙に落ち着く。
  マッドが賞金稼ぎで自分の命を狙っているとかそういう事を忘れてしまいそうなくらいだ。
  そもそもマッドの気配はサンダウンの知るどの気配よりも、荒々しくて、身体が焦げ付きそうな
 くらい熱を帯びている。
  なのに、その気配が傍にあれば落ち着くのは、彼が最初にサンダウンに手を差し伸ばしたからな
 のか、彼との道中で何度か感じた彼本来の面倒見の良さによるものなのか、それとも、サンダウン
 が忘れてしまっているマッドの記憶に由来するものなのか。
  そう思ってどれだけ記憶の波を浚ってみても、マッドの事はこの荒野に放り出されて以降の事は
 思い出せず、それとマッドのがっかりした表情も相まって、腹立たしいばかりだ。

  せめて、記憶の一つでも残っていたなら。或いはマッドが自分を見ても、その眼差しを変化させ
 る事なく笑っていたなら。

  その漂う残り香を意識だけで追いかけて、それに集中する為に灯りも灯さずに暗い部屋に蹲って
 いると、全身を貫かれるような感覚に襲われた。その奥で聞こえる馬蹄から、先程までずっと掻き
 集めていた気配が、槍のように突き上げてくる。
  残り香を吹き飛ばして、新しく吹き荒れる空気。

 「キッド?」

  開かれた扉から聞こえたマッドの声は、マッドもサンダウンの気配に気付いていたのか確信を持
 った問いを表わした。
  しかし、その声と、顔を上げて見上げたマッドの表情に、はっきりと期待が刻まれているのを見
 て取って、サンダウンの胸にじっとりと理不尽に対する怒りが広がった。そしてサンダウンの様子
 に期待が裏切られた事を悟ったマッドが、落胆の色を浮かべる事に、やはり理不尽さを感じる。

 「なんでこんなとこにいるんだよ。」

  落胆の色を一瞬で消したマッドの声は、まだ微かな硬さが残っていたが、同時に頑是ない子供を
 あやすような響きを孕んでいた。その声が、また、腹立たしい。一体誰を見ているのか分からない
 視線も、苛立ちを煽る事この上ない。

 「お前が来ないからだ。」

  腹立ち紛れに吐き捨てるようにそう言えば、マッドの眼がうろたえたように不自然に動き、しか
 しすぐに元のからかうような光を灯したかと思うと、彼は同じくからかうような口調で言った。

 「なんだ、そんなに俺に逢いたかったか?俺の腕の中でやっと眠る気になったってか?けど今のあ
  んたには、そりゃあちょっと役不足だな。」

  子供には刺激が強すぎる。
  そう告げたマッドに眼には、サンダウンの中に何かを探す仕草が含まれていた。それが、サンダ
 ウンには気に入らない。探しているのは、此処にいるサンダウンではないのだと、はっきりと告げ
 られているようで、おもしろくない。サンダウンは間違いなく此処にいるのに、自分自身を否定さ
 れている気がしてくる。

 「役不足、だと…………?」

  お前はつくづく俺を見縊りたいらしいな。
  低くそう言えば、マッドの黒い眼が大きく見開かれた。宇宙を丸ごと呑み込んだような黒い眼に
 は、しっかりとサンダウンの顔が――サンダウンも知らないサンダウンの顔が――映り込んでいた。

 「キッド?」

  首を傾げるその顔に、歯噛みを混じらせて囁く。

 「試してみるか………?」

  役不足かどうか。
  腕を掴んで捩じり上げると、その白い顔に苦痛が刻まれた。そのまま壁に押し付けてやると、身
 体が面白いくらいに震えている。それは混乱の所為かそれとも恐怖か。

 「キッド、何しやがるんだ!」

  サンダウンに向けて放たれる怒声に、手の乱暴さとは裏腹に声は静かに告げてやる。

 「だから、試してやっているだけだ。」
 「っ、いらねぇ!ってか何を考えてやがるんだ!」

  細い腕にはそれでもちゃんと筋肉が付いていて女とは比べ物にならないが、けれどサンダウンに
 比べれば枝のようだ。その腕を見て、マッドに色目を使う連中は騙されるのだろうなと思う。
  思いながら顎を掴むと、怒りよりも驚愕の色が深い視線とぶつかった。
  そこにある眼が、今度はちゃんととサンダウンを見ている事に安堵し、しかし治まらない苛立ち
 を低く言い捨てた。

 「お前達が、俺の知らない人間の事ばかりを俺に求めようとするのが、腹が立つ。」
 「…………キッド?」
 「俺は、お前達の言う『サンダウン・キッド』の事など、知らない。」

  お前も、あの町の住人も、サンダウンに求めるのはその姿ばかりだ。
  特に、お前は。

  マッドの眼が瞬いた。そして黒い睫毛が伏せられてその眼を覆うと小さく呟きが聞こえた。

 「それは、悪かったよ…………。」

  サンダウンの言わんとする事を悟ったのだろう。彼は抵抗を止めてサンダウンの腕と壁の間で大
 人しくなる。伏せられた瞳が再び上げられた時には、やはりサンダウンを見据えている。 
  それを認めてから、サンダウンも痛めるくらいに強く掴んでいた腕を放す。代わりに腕を強く引
 いて、その身体を壁から引き剥がした。

 「え?おいっ!」

  自然と抱き寄せられる形になったマッドは、うろたえたような声を上げた。それを無視して耳元
 で囁く。

 「お前はもっと俺に逢いにくるべきだ。」
 「は………?」

  きょとんとする表情が酷くあどけない。それ誘われるようにマッドの身体を完全に腕で囲いこん
 でしまうと、そこから広がる熱にくらくらした。そういえば、最後にこうして人の温もりを感じた
 のはいつだったか。戦火で感じるのは、いつも氷のような寒気か狂ったような炎ばかりだった。
  けれど、今、この腕の中に囲い込んでいる熱は、何よりも熱く、溶けてしまいそうだ。
  安堵と共に込み上げるのは、もっと甘えたいという思い。以前マッドに向けて放とうとして、あ
 まりの子供っぽさに口を噤んだ言葉が、するりと喉から零れた。

 「寂しかった………。」

  そう呟くと、マッドはその意味を測りかねているのか、ますます無防備な表情になった。
  その隙に、腕に感じるマッドの熱をもっと感じようと、更に強く抱きこもうとした時、マッドが
 身を捩った。

 「っ、止めろ!」

  きっぱりとした拒絶に思わずマッドの顔を覗き込むと、そこには困惑と、しかし明確な意志が宿
 っていた。

 「マッド?」
 「止めろ。これ以上、俺に触るんじゃねぇ。」

  その台詞に、以前、彼が男に襲われた時の事を思い出し、それで不快にさせてしまったのだろう
 かと思ったが、マッドはゆっくりと首を横に振って告げる。

 「止めとけ。どんなふうに俺に触れても、結局、困るのはてめぇだ。」

  その意味に眉を顰めていると、マッドは続け様にこう言った。

 「記憶が戻った時に後悔するのは、てめぇだろうが。」

  言葉の意味を理解した時、心臓を抉り取られたような気がした。
  結局、マッドが見ているのは、此処にはいないサンダウンなのだ、と。