原因は、傍から見ればとても些細な事だった。
  けれども賞金稼ぎマッド・ドッグにしてみれば、日常茶飯事の事とはいえ到底受け入れられない
 現実だ。
  そう言われたなら、きっと荒野に抱かれた西部に生きる者なら、何の事だか大体の想像はつくだ
 ろう。まして、かの有名なマッド・ドッグが、荒野を縦横無尽に駆け巡り、望めば金も女も――マ
 ッドは別に欲しくはないだろうが男も――自在に手に入る男が、ままならない事と言えば一つしか
 ない。
  呆れと溜め息と僅かばかりの苦笑いを巻き起こすその『大体の想像』通りの事は、太陽が白く照
 り付ける青空のまぶしい午後、起こるべくして起こったのだ。
  いつも通りに。




 1.Lost





 「いい加減にしろよ、てめぇ!」

  乱暴な口調の癖に端正な声という神業的なミックス業を繰り出した男は、やはりいつも通りの言
 葉を怒鳴り上げた。
  だんだんと、砂埃が撒き上がってズボンの裾を汚すのも構わずに地団太を踏む姿は、完全に子供
 の癇癪である。しかも普段ならばその秀麗な曲線を描いているはずの頬は、ぷっくりと膨れて満月
 の様で、見事なまでの脹れっ面だった。
  その姿には、もはや西部一の賞金稼ぎの名を冠する気障な男の様相はない。そして困った事に、
 彼が今現在対峙しているのは、せめて恋人だとか親友だとか家族だとか所謂ごく近しい者だったら
 良かったのだが、残念ながらむしろ対極に位置する存在だった。
  マッドが賞金稼ぎの名の前に『西部一』を冠すると言うのならば、今眼の前にいる男は、同じ
 『西部一』を冠するがしかし対極である賞金首だ。

  賞金首サンダウン・キッド。五千ドルという法外な賞金をその首に懸けられ、そして一流のガン
 マンであり、そしてマッドが執拗に追いかけている賞金稼ぎである。
  晴れの日も雨の日も曇りの日も追いかけ、女に逢う回数よりも互いに銃を向け合っている回数の
 方が多い時点で、確かにそれは近しい存在だと言えるのかもしれない。それに見る者が見れば――
 きっと普通の賞金首ならば――呆気にとられるようなマッドの脹れっ面を見ても、サンダウンがぴ
 くりとも反応しないあたり慣れた感がある。
  宥めるでもなく、沈黙で以てマッドの喧騒をやり過ごす男は、たった今マッドの銃を弾き飛ばし
 たばかりの己の銃を、何事もなかったかのようにホルスターに戻しているところだった。
  砂色の髭と髪でもさもさしているわりには、やたらと涼しげな顔をしているサンダウンの様子に、
 マッドは更に逆上する。毎度の事とはいえ――それとも毎度の事だから――マッドはこうして軽く
 あしらわれる度に、癇癪を破裂させるのだ。

 「毎回毎回、俺を適当に弄びやがって!てめぇ俺の事なんか何とも思ってねぇのかよ!」

  と、些か何か間違った方向に捉える事が出来る言葉を吐き捨てるほどに。
  しかしそれは、マッドの癇癪に慣れ切ったサンダウンには全くの効果はない。そもそもマッドが
 決闘を申し込んでは銃を打ち払う度に『なんで殺さねぇんだ!』と吠えられているので、サンダウ
 ンはいつもの事だと思ってあっさりとマッドに背を向けた。どうせ、次に逢う時にはけろりとして
 いるのだから。
  けれどもサンダウンの予想は僅かばかり違っていた。
  本当に僅かばかりではあったが、それがこれからの悲劇を引き起こした。
  飄々とした後ろ姿を見せるサンダウンに、マッドはぎりぎりと歯ぎしりする。その喉の奥からは、
 今だ堪え切れない唸り声が零れ落ちている。
  その唸り声が、実はマッドの癇癪玉の中でも一番巨大なものが破裂する前の警戒音であるとは、
 流石のサンダウンも知らなかった。知っていれば、何らかの対処の仕方もあったのだろうが、知ら
 なかったものはどうしようもない。

 「ふざけやがって。俺は殺す価値もねぇってか。」

  低いからこそ余計に怒りを孕んだ声と共に、ゆらりとマッドの気配も先程以上に跳ね上がる。そ
 れと同時に大きく振り被られた手には、弾き飛ばされたバントラインが黒光りしている。

 「くそっだったら二度と俺の前に姿みせんなどっか行っちまえ馬鹿!」

  一息にそれだけの言葉を吐き出し、マッドは凄まじい勢いでバントラインを投げた。立ち去ろう
 とするサンダウンの後頭部目掛けて。バントラインが見事な放物線を描く。

  すぱこーん。

  コミカルな音が、荒野に響いた。
  くるくると回転しつつ、且つ鋭い速度で放たれたバントラインは、見事に狙い通りにサンダウン
 の後頭部に直撃したのである。あまりにもストレートに決まって、その剛速球を投げた当のマッド
 自身も、ぽかんとしてその様子を見ていた。
  そしてその前で、サンダウンがゆっくりと崩れ落ちた。




 「おい、キッド、キッド!おい、眼ぇ覚ませよ!キッド!」

  図らずとも、念願のサンダウン・キッドを、撃ち抜いたのではなく打ち抜いたマッドは、しかし
 現状にうろたえていた。
  後頭部にバントラインが直撃したサンダウンは、その衝撃で意識を飛ばして眼を覚まさない。
  だったらその間に撃ち取ればいいんじゃないかとも思うのだが、全く意図していなかった状況に、
 賞金稼ぎマッド・ドッグはおろおろとする。
  外傷はどう考えても後頭部のコブ以外にはないし、けれども一向に眼を覚まさないサンダウンに、
 もしかして脳がやられてしまったのかと笑えない想像に顔を蒼褪めさせる。柄にもなくうろたえ、
 しかしどうする事も出来ず、倒れた身体を抱きかかえて途方に暮れた。
  動かない男の頭を膝に乗せ、その胸元で手を組んで、きょろきょろとあちこちを見回しても、眼
 に映るのは背丈の低い草ばかり。救いを求めて空を見上げれば、眩しい青が広がるだけだ。腕に抱
 いた男の眼と同じ色をした空からは、何一つとして降って来ない。
  広い荒野が、この時ほど不安を煽るものだと思った事はない。
  
  捨てられた子犬のように途方に暮れていると、不意に腕の中の身体が身じろぎした。その微かな
 動きにはっとして、慌ててそ膝に乗せた顔を覗き込む。
  ゆっくりと、焦らされるようにゆっくりと開かれる眼。
  空色の眼に自分の顔が映った事に心底安堵し、そしてらしくもなくうろたえてしまった自分が馬
 鹿らしく、それを忘れる為にも目覚めたばかりの男を罵ろうと口を開いた瞬間、それよりも早く飛
 び込んできた男の声に、歪に口を開いたまま凍りついた。

 「お前は…………?」

  はっきりと疑問符が最後についている声に、マッドは一瞬声を失った。その一瞬の間に男は身を
 起こし、のろのろと辺りを見回した。そしてぼんやりとしていた眼に、ゆっくりと驚愕が刻まれ始
 める。その変容を目の当たりにして、マッドは逃げ出したいくらい恐ろしい予感に震えた。
  けれどもマッドの怯惰など、男は待ってくれない。

 「……………此処は、何処だ。」

  呆然、という言葉が正しく相応しい声音に、マッドが思ったのは放浪生活の末に遂にボケたのか
 という、自分の所業を棚に上げた上、現実を逃避した言葉だった。

  しかし、普段とは全く異なり妙に頼りなさげな気配を放つ男を見て、此処に放置しておくわけに
 はいかなさそうだという理性が、このまま見なかった事にしようと言う利己に、マッドの中で僅か
 ながらに勝った。

 「おい、おっさん。とにかく街に行こうぜ。ここじゃ何にもできねぇ。」

  とりあえずそう声をかけたのは、実は半分以上は自分自身に言い聞かせるため言葉でもある。現
 実逃避寸前の自分を宥めるのは、暴れ馬を手懐けるよりも難しい事が分かった。
  とにかく、眼の前の状況をどうにかする為には何もない荒野ではなく街に行ったほうがいい、と
 いう常識的な考えを打ち出す事でマッドは、この状況に対応しようとしていた。
  だが、そんなマッドの心の内を知らない男は、荒涼たる大地から眼を逸らすとマッドをまじまじ
 と見て、こう言い放った。

 「お前のほうが俺よりも年上に見えるんだが。」

  だからおっさんと呼ばれるのは心外だ。

  その瞬間、辛くも現実を受け止めていたマッドの理性は、あっと言う間に吹き飛んだ。

 「てめぇ!街に着いたら真っ先に鏡見せてやんよ!」

  何が悲しくて髭面のおっさんに年上と見られねばならないのか。
  マッドは乾いた砂を思いっきり蹴飛ばした。
  その様子を見ていた男は、首を傾げて尋ねる。

 「お前………一体幾つだ?」
 「ああ!?」

  男に年齢なんぞ聞かれても嬉しくない。しかも髭面の。というか少なくとも眼の前のおっさんよ
 りは若いはずだ。
  が、その眼の前のおっさんは、ぬけぬけと言い放った。

 「俺は19だ。」

  今度こそ、視界が暗くなった。