その日、マッドは朝早く起きて、久しぶりに厩の掃除でもしようかと考えた。そこまで小汚くは
 なっていないものの、それでも古びた藁が眼につくし、飼葉桶にもディオの食べかすが、こびりつ
 いている。基本的に乾いている気候だから、カビがすぐに生える事はないだろうが、久しぶりに小
 窓も何もかも全部開け放ち、天日干しするのも良いかもしれない。
  そう思って、マッドはエプロンを装着して愛馬がいる厩の扉を開いた。
  開いた瞬間に漂ってくるのは、乾草の匂いと微かな土の匂いだ。その薄暗い中に、すっと一筋光
 が差し込んで、中で大人しくしていたディオが眩しそうに眼を背ける。黒い毛並みが、光を浴びて
 濡れたように光った。
  微かに鼻を慣らし、尾を揺らしながらのそのそと厩の中を動き回るディオの様子を見て、マッド
 は愛馬の様子がいつもと少し違う事に気付く。
  何がと言われれば具体的に説明する事は出来ないのだが、なんだか妙にそわそわしている。もと
 もと気性が荒いだけに、苛立って地面を掻いたりする事は多いのだが、今の様子は苛立っていると
 言うよりも、落ち着きがない。
  ディオの様子にマッドは眉を顰め、何かあったのかと厩の中をぐるりと見回す。
  茶色の闇に包まれたそこにあるのは、古びた藁と、二つの飼葉桶。一方には並々と飼葉が盛られ
 ており、それはいつもの光景だ。だが、もう一つの飼葉桶の中に、マッドは見慣れぬものを見つけ
 た。

  とある賞金首が、いつの間にか持ち運んだその飼葉桶は、今はその賞金首はいないので空の状態
 である。少なくとも、昨夜は空だった。それが今、何か白い布に包まれた物体でいっぱいになって
 いる。
  嫌な予感を背中でひしひしと感じながらも、マッドはその包みを解いていく。はらり、と布を一
 枚捲ったところで、マッドはそれを元に戻した。物凄く、この場に相応しくない、見てはならない
 ものを見てしまったからだ。
  少し身を離し、心を落ち着けてから、マッドは再度白い包みを解きにかかる。今度は先程よりも
 慎重に、布を一枚捲った。
  が、当然の如くそこにあるものが変化するわけもなく。

  丸いピンク色の頬。丸い額。丸い鼻。丸く弧を描く黒い睫毛。そして黒い髪。それらが白い布に
 包まれて、そしてやはり丸みを帯びた瞼は閉ざされて、ピンクの唇は少し尖らせたような形で閉じ
 て、鼻からは寝息が零れている。
  何処もかしこも丸っこい物体を見て、マッドは低い声で、己の愛馬を呼んだ。

 「……………ディオ。」

  ヒン、と小さな嘶きが返ってきた。

 「てめぇ、人間だった頃に、女孕ませたのか?」

  奇妙な遍歴を持つ己が愛馬にそう問えば、ディオは必死に首をぶんぶんと振る。が、それでマッ
 ドが納得するはずがない。気性の荒いディオは、マッド以外の人間が近付く事を極端に嫌う。こっ
 そり厩に忍び込もうとする人間がいれば、蹴り飛ばしている事だろう。
  が、にも拘らず、この丸い物体は厩に置き去りにされているのだ。つまり、ディオに蹴り飛ばさ
 れずに置いていく事が出来たのだ。そんな人間、数えるほどしかいない。

 「正直に言え。何処の女に手ぇ出したんだ、馬の癖に。」

  詰め寄る主人に、ディオはヒンヒンと嘶いて己の無罪を主張する。
  ディオにしてみれば、マッドの言葉は全く身に覚えがない事だった。何せディオは人間だった頃
 も、馬の嗜好が抜けずに苦労したのだ。クレイジー・バンチなんて気取って町から略奪を繰り返し
 ていても、酒はあまり好きではなかったし、菜食主義者でハムもソーセージも食べなかった。むし
 ろ、金よりも人参を大量に奪っていたくらいだ。そして女も、残念ながら2本足よりも4本足、でき
 れば白馬が好みのディオは、人間の女に手を出した事は一度もない。従って、人間だった頃のディ
 オは童貞だ―――残念ながら。
  それに、マッドはディオの事を勘違いしている。確かにディオは乱暴者だが、無抵抗の人間――
 特に女子供を蹴り飛ばすほど、非情な性格をしているわけではない。というか、一度それをした時
 に、ディオを馬刺しにする勢いで怒り狂ったのは、他ならぬマッドである。その為、ディオはマッ
 ドが思うほど誰彼構わず蹴飛ばす事はしない。
  だから、真夜中こっそり入り込んできた名も知らぬ女を見ても、何もしなかったのである。こそ
 こそと飼葉桶に入れられた物体如何によっては、何をするか分からなかったが、その白い布の隙間
 から覗く小さな手を見て、眼を丸くした。

 「てめぇの子供じゃなかったら、誰の子供だってんだ。」

  そう、飼葉桶に入れられているのは、生まれてやっと一年経つかどうかの赤ん坊だった。何処も
 かしこもまんまるな赤ん坊は、黒い髪を白い布に埋めて、すやすやと眠っている。
  それを横目で見ながら、ディオとしてはその黒髪から主人の子供である事を疑ったのだが、と思
 った。マッドが抱いた娼婦の顔は全て覚えており、昨夜厩を訪れた女はそのどれとも違っていたけ
 れど、ディオがマッドの愛馬になる前に抱いた女だという可能性もあるわけだ。
  が、マッドは自分の子供だとは露ほども思っていないらしい。
  理由は至って簡単である。

 「俺の子供だったら、何だってこそこそ隠れて子供置き去りにする必要があるんだ。俺は自分のガ
  キを認知しねぇような甲斐性なしじゃねぇぞ。」

  家計簿までつけている西部一の賞金稼ぎは、そうのたまった。
  それを聞いて、ディオは、時々不安にあるくらいお人好しの主人の言葉に頷くしかない。ディオ
 としては――将来はマッドの子供を背中に乗せて余生を過ごす事を夢見ているディオとしては、マ
 ッドの子供である事を少しだけ期待したのだが。

 「まあ、てめぇのガキかどうかはともかくとして、どうするかね、これ。」

  白い布に包まれた赤ん坊を、飼葉桶の中から抱え上げ、マッドは首を傾げる。親が、食うに困っ
 てか、それか邪魔になったのかして、置き去りにしていったのは明白なのだが、しかしマッドに託
 されても困る。マッドは生まれてこの方子供を育てた事はないし、それ以前に賞金稼ぎである以上、
 育てるのは無理だ。

 「保安官に渡すのが妥当だろうなぁ。」

  その時に、マッドの子供だと疑われる可能性大であるが。
  むーん、と唸って抱え上げた赤ん坊を見ていると、その視線に気付いたのか、赤ん坊がしっかり
 と閉じていたはずの瞼をぱかりと開いた。そこから覗く黒い瞳と、マッドの黒い瞳が合わさる。
  その瞬間に、赤ん坊の眼が潤み、直後大地も揺るがさんばかりの泣き声が響き渡る。大粒の涙と
 ともにマッド目掛けて振り下ろされたそれらに、西部一の賞金稼ぎは避ける事も出来ずに――慌て
 た。

 「おい、ディオ!なんとかしろ!」

  と、どう考えても無茶な事を言うくらいに。
  大草原に響き渡る泣き声は、しかしマッド以外に聞き届ける人間がいない。つまり、マッドにも
 助けを求める事が出来る人間がいないという事だ。
  慌てふためく西部一の賞金稼ぎと、元クレイジー・バンチの暴れ馬は、大音量の泣き声に、鼓膜
 をくらくらさせる。乾いた風の音も聞こえない中、マッドは背後に忍び寄る気配に気づかなかった。
  乾いた土と風を割って、馬蹄が鋭くマッドのいる小屋に近付いて来る。それは、紛れもなくマッ
 ドが慌てふためいている厩の前を一直線に目掛けて、突っ走ってきた。
  が、マッドはそれでも気付かない。
  本来ならば、既に気付いている頃なのに。  
  そして、馬蹄が途切れて、ざくざくと砂を踏みしめる音が聞こえてから、ようやくマッドもディ
 オも、その気配に気が付いた。

  擦り切れたポンチョに身を包んだ、砂色の髪と、空色の眼をした、まるで荒野そのもののような
 姿。
  その姿を見れば賞金稼ぎとのしてのマッドは狂喜し、銃を引き抜いて撃ちかかる。
  が、今はマッドもディオも、その姿を見ても嫌な予感しかしない。マッドは嫌な予感に押される
 ようにして思わず、泣き喚いている赤ん坊を抱き締めて、後退りした。

  そのマッドの様子が、男には何と見えたのか。
  男は後退りするマッドを逃がさないように足早に近付くと、そろそろ本気で逃げをうとうとして
 いる肩を掴み、拘束する。
  そして、マッドが腕に抱えているもの――マッドと同じ髪の色と眼をした赤ん坊を見て、眼を細
 めた。それを見たマッドは、もはや嫌な予感、というか鬱陶しい予感しか、しない。銃を持った時
 は、この荒野に息づく何よりも孤高である男が、それ以外の時は面倒臭いおっさんでしかない事を、
 長年追いかけているマッドは知っている。
  そして、マッドの予感は的中した。
  男はマッドに目線を合わせると、こう告げたのだ。

 「……………責任は、とる。」

  西部一の賞金首にして、マッドの知る限り一番の甲斐性なしの男の台詞を、赤ん坊の泣き声と共
 に耳にしたマッドは、とりあえず、ひとまず、何はさておき、眼の前の男目掛けて平手を振りかぶ
 った。

  赤ん坊の泣き声の中、突き抜けるように小気味よい弾けるような音が響いた。