いつもはサンダウンが寝転がっているソファに、マッドが珍しくだらしなく寝そべっていた。ソ
 ファの肘掛けに背中を預けて、長い両脚をソファの上に引き上げ、時折折欠伸をしながら、何かの
 小説だろうか、本をぱらぱらと捲っている。
  テーブルを挟んだ向かい側にある椅子には、ソファから追い出されたサンダウンが所在なさげに
 座っていた。葉巻を咥えて背凭れに身体を預け、物言いたげな目でマッドを見るが、マッドはサン
 ダウンには、普段の百分の一ほどの興味も示さない。

 「具合が悪いんだよ。」

  ソファに寝そべっていたマッドに、据え膳かと思って圧し掛かったら、その台詞と共に蹴り落と
 された。不機嫌そうな声は確かにいつもの覇気がなく、息を吐く様子もしんどそうだ。それ以降、
 サンダウンになど眼もくれず、ずっと本を読んでいる。
  普段から喧しく自分に構ってくる男がこうも大人しいと、サンダウンとしては調子が狂う。基本
 的にマッドが喋り続ける二人の空間は、マッドが黙っているとひたすらに沈黙が続くだけだ。
  その代わり、サンダウンがマッドにへばりつこうとすると、いつも以上の辛辣さでマッドが払い
 のけるのだが。
  せっかく久しぶりに会ったと言うのに、マッドが素っ気ないというのはサンダウンとしては面白
 くない。いつものように、突っ掛かってくるマッドを抱き留める事も、マッドに甘える事も出来な
 いのなら、何の為に此処にいるのか分からない。
  ならば具合が悪いのだというマッドの看病でもすれば良いのかもしれないが――サンダウンも一
 瞬それは思いついた――残念ながらマッドは自分で毛布やら水やらオレンジやら用意して、ある程
 度の心地良い空間を一人で作り上げてしまっている。マッドにしてみれば、これでサンダウンがい
 なければ最高といったところである。
  その、ある程度現状に満足しているマッドが、唯一のお邪魔虫に不機嫌な眼を向けても仕方がな
 い事である。

 「キッド。」
 「………なんだ?」
 「葉巻。」

  ようやくマッドがサンダウンを呼んだので、サンダウンは少しだけ心持が上昇したのだが、マッ
 ドは不機嫌さを隠しもせずに、サンダウンが咥えている葉巻を睨みつける。

 「消せ。気分が悪い。」
 「何………?」
 「葉巻の匂いが、今は駄目なんだよ。」

  気持ちが悪いから消せ、と言うマッドは、なるほど今日一日葉巻を吸っていない。
  どうやら本当に気分が悪いのだと思い、サンダウンは葉巻を片付けたが、しかしそうなると無趣
 味人で、楽しみと言えば酒と葉巻とマッドくらいしかないおっさんは、完全に手持無沙汰となって
 しまう。
  所在なさげにマッドを見ても、サンダウンをそこまで追いつめた当の本人は、テーブルの上に切
 り分けて準備されたオレンジを、のんびりと口に運んでいる。
  それを見ていて、サンダウンは自分も空腹である事を思い出した。
  だが、今のマッドに食事を頼む事は、きっと獅子の尻尾を踏む以上に危険だ。どんな眼差しで見
 られるか分からない。
  怒り狂ったりそんな眼なら、まだ良い。呆れたような顔で言い返されるのもまだマシだ。が、諦
 めきったような眼で見られたら、サンダウンは生きていけない自信がある。何せマッド以外の存在が
 自分には残されていないと思っている男である。マッドにまで見放されたら、生命たる意味がない。
  図太い男の中で、それだけが唯一の弱みだった。
  言葉通り、サンダウンはマッドがいなければ生きていけない。だから、何の反応もしてくれない
 マッドに不安にもなるし、具合が悪いと言っているその事実に、徐々に怯えが膨らんでくる。
  その怯えを打ち払う為に、サンダウンはマッドに近付くと、彼が横たわるソファの側に跪いた。

 「マッド。」
 「なんだよ。」
 「何か、食べたい物は、あるか?」
 「何だそりゃ?あんたが作ってくれるってのか?」
 「私に、作れる物なら。」
 「………気持ち悪いな、何企んでやがるんだ?」

  これまでな家事の一つも手伝わなかった事に対する自覚はあったが、此処まで言われるとサンダ
 ウンも少し傷つく。
  が、マッドはそんなサンダウンは放置して、読みかけの本を閉じると、軽く息を吐いた。

 「あんまり、食欲がねぇんだよ。果物とかなら食べられるんだけどな。オレンジとか、酸味の強い
  奴とか。」
 「………そうか。」

  ひたり、とマッドの頬に手を当てれば、そこはいつも通りの体温で、特に異常は見られない。そ
 れを安堵するべき事なのかどうなのか、サンダウンが判断付けかねていると、ぽたり、と軽い音が
 響いた。
  二人して同時に音がしたほうを見ると、テーブルの上に小さな透明の滴が落ちている。
  確かに先程までなかったそれの出所に首を傾げていると、再びぽたりと滴の上に滴が重なるよう
 に落ちてきた。

 「あ…………。」

  天井を見上げて、マッドが苦々しげな声を上げる。
  サンダウンも見上げてみると、天井には大きくはないものの、染みが広がっていたのだ。そこか
 ら滴が滴り降りている。

 「雨漏りか………。」

  そう言えば、昨夜からずっと雨が続いていた。乾燥地帯の荒野には珍しい長期の雨に、小屋の天
 井が雨漏りを起こしたらしい。
  この部屋から退散しようかと思っていると、マッドがそんな安易な思いつきを打ち消すように、
 硬い声で名を呼んだ。

 「キッド。」

  そして、大工道具が置いてある場所を指し示して、こう告げた。

 「直してこい。」
 「…………。」

  雨はまだ降っている。しかも土砂降りではないものの、雨音から考えても小雨ではない。そんな
 中、屋根に上って修理しろと言うマッドが、一瞬、鬼に見えた。
  そっぽを向いて拒絶の姿勢を見せていると、マッドが焦れたように続けて言う。

 「手遅れになったら困るだろうが。」
 「…………雨漏りに手遅れもないもないだろう。」
 「アホか、被害が拡大したらどうする。」

  寝室まで雨漏りなんて俺は嫌だぜ、とマッドは言い募る。

 「俺がやりゃあ良いのかもしれねぇが、生憎俺は具合が悪い。だからてめぇに頼んでるんだろ。」
 「……………。」
 「なあ、キッド。」

  サンダウンが沈黙してると、マッドの焦れが苛立ちに変わってきた。それを危険な兆候だと思い
 つつも、根が無精な男は動かない。
  そっぽを向いた耳に、軽い舌打ちが聞こえてきた。

 「おい、キッド。」

  低い声と共に腕が伸びてきて、ぐいとサンダウンを引っ張る。思わず顔をそちらに向けると、マ
 ッドの顔が口付け出来るほど近くに寄っていた。いや、実際にマッドが口付けた。
  マッドからの口付けは唇が触れ合う程度のもので、サンダウンが更に深くしようとすると、する
 りと逃げられる。

 「俺はな、具合が悪いんだよ。」
 「………それは知っている。」
 「米を炊く匂いとかが駄目で、食欲もねぇんだ。」
 「……………。」
 「食えるもんっつったらオレンジとか、そういう酸味のあるもんくらいしかねぇんだよ。そんな俺
  に、雨漏りのする小屋にいろってか?」

  やけに具体的な説明に、サンダウンは頭の中に幾つかの引っ掛かりが生まれる。
  具合の悪いマッドが、駄目なものと大丈夫なもの。
  米を炊く匂いと、酸味のあるもの。
  それらが、なんだか引っ掛かる。

 「………………。」

  たっぷり数十秒経った後、サンダウンはようやくその答えを導き出す。そして慌てて大工道具を
 持って、雨漏りを止めに行った。

  その後ろ姿を見送って、マッドは小さく呟く。

 「大丈夫か、あのおっさん。」

  確かに具合も悪くて、酸味のある物のほうが食べやすい。これは事実だ。けれども米を炊く匂い
 が駄目なんて嘘だし――というか昨日オムライスを作ったばっかりなんですけど――そもそも、マ
 ッドは男だ。
  まあ、そういう勘違いをさせるような事を敢えて告げたのはマッドだけれども。

 「………アホだ。」

  マッドの思惑通りの勘違いをした男が、屋根を修理を始める音が、頭上から聞こえてきた。