硬い石畳の上に押し倒された。
 
 

 声を上げさせまいと口を塞ぐのは、生臭い臭いを染みつかせたごつい手だ。もう一方の手が、薄く羽織ったコートを肩か
 
 ら引き裂くように脱がせにかかっている。見上げた先にあるのは、ぎらついて血走った濁った男の眼と、半開きで醜く笑
 
 った口の端から垂れ下がった涎だった。その後ろでは、見惚れるほど美しい大輪の月が輝いている。 
 
  

 ベルトに掛かった汚らしい手に、眉を顰める。引き千切られそうなベルトの軋みと、自分の中に燻った憤りと、そして月
 
 の光が、今、この瞬間だと叫んでいた。
 
 

 細い指には似合わない厳めしい物体が、鮮やかな速さで引き抜かれ、その細腰のすぐ脇で立て続けに鉛色の死神を
 
 吐き出した。






 Nolite judicare, et non judicabimini 









 初めて殺した男は、どうしようもなく不快な人間だった。
 
 

 南北戦争からようやく復興し始めた街を歪んだ笑みで闊歩し、家族を亡くした女子供を蹂躙する事を楽しみにしているよ
 
 うな人間だった。
 
 

 徐々に黒焦げた壁や道が消えていき、穏やかな空気が時折流れるとはいえ、まだまだ戦争の影が残る街並みは、とても
 
 ではないが治安が良いとは言い切れなかった。数年経っても町の片隅に残された陰のような場所には、戦争によって分断さ
 
 れ、更に取り残された子供達が蹲っている。そんな子供達は次々と獣じみた男の餌食となった。
 
 
 
 保護してくれる者もいない。徹底的に蹂躙つくされた後は、死体さえ、残らない。もしかしたら、一種の食人鬼だったの
 
 かもしれない。
 
 

 撃ち殺した後、マッドは――その当時は別の名を名乗っていたが――ぼんやりとそう思った。







 
 マッドは、男が蹂躙した子供達のように、戦争によって街の片隅に追いやられたわけではない。家族は戦争によって
 
 分断されたが、それでも保護者である母親のもとで、一定の暮らしをする事はできた。母親はマッドが、戦争で歪められ
 
 た精神を持つようになった者達に襲われる事を殊更恐れていた。マッドも、繰り返される注意を全て信じたわけではない
 
 が、それでもある程度の危機感は持っていた。それ故、幼い頃から銃を持ち歩く事に些かの躊躇いもなかった。中等教育
 
 に入る頃には、すでに10メートル以上離れた場所にある的を射る事ができるほどだった。



 母親は忍びよる残忍な足音に怯えながら、マッドを学校へと送り出していた。そしてそれは杞憂では終わらなかった。夕
 
 刻、ふらふらと家の周りを歩いていたマッドは、あっさりと茂みの中に引き摺りこまれた。そこで見たのは、正気であり
 
 ながらも狂ったような、爛々と輝く男の眼だった。



 いつも狙う獲物とは毛色の違ったマッドに、男は不気味なほど興奮しているようだった。道端で物乞いせざるを得ない子
 
 供たちとは違う。没落しながらも、それでもすらりとした身形の身体は、さぞかし欲をそそったのだろう。乱暴に足を押
 
 し開く腕は、待ち切れなさを隠そうともしない。しかし、それが男にとって最後の誤りだった。



 一瞬で怒りで己を満たしたマッドは、残念ながら本当に男が今まで蹂躙してきた子供とは何もかもが違っていたのだ。

 

 月の美しい夜だった。



 その、瞬間を、マッドは見逃しはしなかった。轟いた銃声は、違える事なく獣以下に成り下がった男の腹を、胸を、額を
 
 貫いている。噴き上がった夥しい血に、男は一言も声を上げなかった。

 





 

 別に、と思う。
 
 

 別に男が、子供を蹂躙して喜んでいる人間である事など知らなかった。ただ、己の身体を、よりにもよって己の身体を弄
 
 ぼうとしたから、撃ち殺したのだ。銃を撃つ理由は、懲罰でも、正義の鉄鎚でもない。ただ、ひたすらに、気に食わなか
 
 ったのだ。



 それは、賞金稼ぎになってからも変わらない。基本的には金を稼ぐ事が目的で銃を撃っているのだし、そこには些かの正
 
 義感も含まれていない。と言うよりも、そんなものを振りかざしている自分など、想像するだけで不気味だ。
 
 
 
 まれに奇妙に思うほど正義感を振り回している同業者を見かけるが、マッドはそんなものを手にしたいとは思わない。正
 
 義の天秤を掲げられるような感情で、賞金首を撃ち取っているのではない。せいぜい、気に入らないから生かさずに撃ち
 
 殺したくらいの感情しか、働かない。

 

 大体、賞金稼ぎはどうしたって賞金稼ぎだ。殺した相手がどれだけ悪名を垂れ流していようと、賞金稼ぎだって殺した相
 
 手とそう大差はない存在だ。賞金首と賞金稼ぎの違いなど、せいぜい、誰彼構わず撃ち殺したか、とりあえず一般人を撃
 
 ち殺さなかったかの差しかない。正義感ぶってみたところで、銀の星を胸に付けているわけではない。
 
 

 そんな人間に、誰かを裁く権利なんぞあるものか。








「…………………。」

 

 それだけの事を一息に言った賞金稼ぎに、賞金首は沈黙で返した。小さな紫煙が揺らめくだけの二人の空間に、先に口を
 
 開いたのは賞金稼ぎのほう。



「だから俺は別にてめぇが過去に何をしでかしたのかなんか知ったこっちゃねぇんだよ。」



 数える事も出来ない対峙の果てに賞金首が口にした、私を裁きたいのか?という問い。おそらく、何故執拗に追うのか、
 
 それほどまでに自分が憎いのか、と言いたいのだろうが、マッドは残念ながら男の罪状など知らない。それ故に、対する
 
 答えが、それだった。



 マッドにしてみれば、サンダウンが過去に誰を殺して、蹂躙して、盗んだのかなど、どうだって良い。眼の前に佇む男の
 
 してきた事を、糾弾するつもりなど微塵もない。そもそも自分とは全く関係のない事だ。ならば、怒りさえ覚える必要も
 
 ない。マッドは、恐ろしいくらい冷然とした意志だけ持って、この男を追っている。



「俺は俺の意志と意地で、てめぇを追ってるんだ。法律も正義も関係ねぇよ。」



 裁いて欲しいと言うのならば、今すぐにでも銀の星を胸に灯した者の場所へ赴くべきだ。銃しか持たず、何の裁定も下せ
 
 ないマッドのもとではなく。そこに行けば、正義の天秤がその命を量りに掛けてくれるだろう。

 
 
 ―――俺は、あんたの為の、裁きの女神には、なれねぇよ。

 

 大体、マッド自身、裁かれる側の人間だ。その裁定は、おそらく、死んだ後に訪れるのだろうが。そして断罪の刃を持っ
 
 ている天使の顔は、これまで自分が殺してきた男達の顔ではないだろう。きっと、あの、何処にも行く事の出来ない母親
 
 の顔をしている。



 もしも地獄があるのなら、と思う。

 自分は嘆きの川に沈められるだろう、と。

 

 その時、この男が傍にいればいい。


 
 同じ罪を犯していたのなら。

 
 
 







 裁かなければ、裁かれない