邪兆



  がたり、と風が小屋を揺らした。
  その音に触発されたように、男は青ざめた顔のままふらりと立ち上がり、御免、とだけ呟いて、
 すぅっと扉を開き、その隙間から抜け出るように立ち去って行った。
  影のように立ち去った男の姿が、もう何処からも目で追いかけられない事を感じて、あれも人間
 ではないのかもしれないな、と思った。
  窓から外の様子を窺っても、やはり誰の姿も見えなかった。
  にも、関わらず、

 「すまぬが、しばし休ませては貰えないじゃろうか。」

  唐突に、背後でしわがれた声がして、思わず飛び上がりそうになった。
  ぎょっとして窓から目を離して振り返ると、いつの間にかランプの前に真っ白な髭を長く垂らし
 た老人が、ちょこんと座っている。
  しわしわとした顔をこちらに向けて、疲れたような老人は、しかしこちらが何かを言う前に完全
 に此処に居座るつもりであるようだった。
  白い髭をランプの明かりで染めた老人は、しばし、先頃の二人のようにその上に手を翳し、暖を
 取っていたようだったが、やがてぽつりと呟いた。

 「お前さん。儂がそんなに怖いかね?」

    のろりと顔を上げてこちらを向いた老人の眼には、何とも言い難い光が灯っている。鋭いとも、
 力強いとも言えない。強いて言うなら、屈服させる事を目的としているような些か不愉快な眼差し
 だ。
  まあ仕方あるまい、と老人は不愉快な視線を逸らしてぼそりと呟いた。

 「この辺りには人ならざる者が無数に蠢いておるからな。お前さんのように、ただの眼しか持たぬ、
  人とそうでない者の区別のつかぬ輩には、こうやって目の前に現れる影は恐ろしかろう。」 
 「あんたは、人間だと?」
 「当たり前じゃ。」

    老人は、あっさりと告げた。

 「儂はこの辺りに蔓延る影の原因を突き止めにきた。……いや、確かめに来た、と言うべきか。」

  くっと一度視線を下げて、再び上げた老人の眼には、やはり何かを屈服させようとする不愉快な 
 光が宿っていた。
  それが、ある種の覚悟である事を悟ったのは、老人が更に言葉を続け始めた時だった。尤も、覚
 悟の光であったからと言っても、不愉快な視線である事に変わりはないのだが。

 「お前さん、この辺りで、奇妙な岩、いや石、或いは石像を見なかったかね?大きさは特に指定は
  しない。身の丈を越えるほど大きい物から手のひらに乗るくらい小さいものまであるからのう。」
 「見ていない。」 

  石像など、何処にも。もしもそれが岩や石ならば、奇妙というあまりにも感覚的な判断基準では
 仮に見ていたとしても、分からないだろう。
  だが、老人は首を横に振って、必ず分かる、と言った。

    「それはまるで、生きる事に反するような物じゃからな。見ただけで、人の命を削り落としていく。
  人の命を砕きたくなる。そんな、気配を放っておる。」

  一見すると普通の岩なのだ。土に塗れ、苔がこびり付き、数百年を無言で佇立してきた、普通の
 岩だった。
  けれども、それに人の手が加わった事で、有り得ない呪いが掛かった。

 「とある小さな国に、そうして佇立する岩があった。昔にその国の人々を憎んだ者が、指を削るよ
  うにしてその岩を削り、一つの石像を造った。石像はとにかく国中に呪いを撒き散らしたのじゃ。
  特に、男児にな。王家に生まれる男児は、悉くが生まれる前に死んでしまうほどじゃった。」

     何人もの僧侶が呪いを解く為に呼ばれ、しかし誰一人として呪いを解く事は出来ずに去って行っ
 た。数十年の間、大勢の僧侶が挫折して、呪いはそのままに留め置かれたのだ。たった一つの岩の
 像如きに。

 「中には、我こそは、と意気込んでその国に乗り込む僧侶もおった。だが、皆一様に、呪いに屈服
  して、酷い時には呪いに飲み込まれて正気を失ってしまう奴もおった。儂の古い友人も、その中
  の一人じゃった。」

  そう呟いて、老人はランプの上に翳していた掌を裏返し、まじまじと皺だらけの己の手を見つめ
 る。手の中には何もないはずであるのに、まるでそこに、十字架があるかのように、何かを請うよ
 うに凝視しているのだ。

 「儂の友人は、偉大な僧侶だった。子供の頃から神童と湛えられ、神学校でも首席じゃった。聖句
  のあらゆる文字から神の一言を感じ取り、それを我らにも分かる言葉で話す奴じゃった。」

     そして、悪魔祓いとしても一級であった。
  血を吸う女、夜な夜な徘徊する子供、この世ならざる声で喚く老婆。人の道から外れた人々に憑
 りついた悪魔共を、友人はいとも容易く、聖書と十字架と己の言葉のみで葬り去って来たのである。

 「彼は、そう、此処と同じような場所に一人訪れ、そして無事に帰ってきおった。故に、儂も誰も
  彼の実力を疑う者はおらんかった。」

  故に、誰にも解けなかった恨み深い呪いの解呪を、友人に求められたのも当然であったし、彼が
 それを一、二もなく引き受けたのも、また誰もが頷ける事であった。
  もしかしたらそれは誰も知らぬ者が聞けば、友人のその後の末路を知れば、彼は慢心したのだと
 言うだろう。
  だが、老人の友人にはそんな慢心の兆しは何処にもなく、若い聖職者ならば誰でも持っている正
 義と理念と、信じられぬほどに研ぎ澄まされた信仰心によって、呪いを解きたいと考えたのだ。

 「同行を求められた時、儂は何も考えずに頷いたものよ。」

  それほどに、友人を信用していたのだ。
  解呪の依頼が来て二日と経たぬうちに、老人とその友人は支度を整え、呪われた王国へと向かっ
 た。鬱蒼と木々の生い茂る、森と山に囲まれた国だった。

 「見ているだけで、陰鬱になりそうな国じゃった。」

  人々は妙に排他的で、神の庭である教会も、何処かうらぶれていた。しかし彼らは文句を言わず、
 暗い教会を宿とし、そこで解呪の準備を着々と進めたのだ。 
  そのうちに、ふと、どちらが言い始めたのか、呪いの元をまずは探しに行こうという事になった。
  呪いの元が分からねば、いくら解呪を施しても、また呪いは吹き出てくる。だから、二人は連れ
 立って鬱蒼とした森を掻き分けた。呪いの源泉は、大体は聞いて分かっている。山の頂上にあると
 いう、奇怪な石像だ。

 「だが、儂らはその岩に辿り着く事さえできんかったのだ。」

    森の中で、二人は奇妙な女達に出会ったのだ。   別に、奇形であったわけではない。ただただ眼が虚ろで、彼女達には神の御業が何処にも見えて
 いないようであったのだ。この世を造り給うた神を、信じていない眼であった。

 「儂らは彼女達を異教徒だと思った。そして、呪いの源泉となる石像は、異教徒のものであろう、
  と。異教徒の所為であるならば話は早い。彼女達を改宗させ、石像を壊してしまえば良いだけだ。」

  友人は早速、動き始めた。
  彼はまず、石像を壊すよりも彼女達に神の御業を説く事から始めたのだ。それは聖職者の経験上
 正しい方法であった。いきなり信仰しているものを破壊してしまうと、呪いというものは逆に解け
 ず、ますます強く凝り固まってしまう可能性が高い。
  故に、友人は石像は放っておいて、女達の信仰心を揺るがす事から考えたのだ。

 「田舎の、学もない女だ。言い方は悪いが、丸め込む事は容易い。儂らはそう考えた。」

  しかし、事はそうは容易く動かなかった。
  聖句を口ずさむ友人が、虚ろなる眼をした女に話しかければ、その時だけ女は意気揚々と眼を輝
 かせ、友人の僧衣に縋り付くように、聖句に対する疑問をぶつけるのだ。

 『聞け、罪深きエヴァの娘よ。』

  ――罪深い?私達の何が罪深いのか?

 『お前達はアダムの身体より生み出された存在なのだ。そして蛇に惑わされた女の娘。』

  ――蛇に惑わされねば、貴方がそうやって聖句を口ずさむ事も出来なかったでしょう。

 『これは我ら人々の罪の証だ。それを良しとするそなたらは神の御業を忘れている。

  ――貴方こそ、女の御業を忘れている。

  女達は高らかに笑った。
  自分達の腹をさすりながら、白いローブを纏った彼女達は、歩くたびに白い足を見せつけた。女
 達はローブの下は何も着ていなかった。僧侶に対する禁忌を体現した姿だった。

  ――男としての喜びを知らない、哀れな若い人。貴方は一体誰にその身を捧げているのかしら。
    そしてその人は、貴方に悦びを与えてくれるのかしら。

  女達は、そろりと僧侶ににじり寄った。その手は、ゆったりと何かをさすっている。

 「見れば、それは石でできた像じゃった。だが、その時の儂らにはその石像になど構ってはおられ
  んかった。明らかに肉体の快楽に溺れ、姦淫を成しておる女達に、悪魔を見ておったのじゃから
  な。」

    彼女達は、完全にアスモデウスに憑りつかれている。
  高名な悪魔の名を告げて、友人はそう呟いた。

 『なんと哀れな。彼女達はこのままでは火炙りだ。なんとしてでも悪魔を払わねば。』

  そう呟いて十字架を握る友人の手は震えていた。
  だが、それは老人も同じ事であった。
  怒りにではない。恐怖にでもない。いや、恐怖と言えば恐怖であった。彼らは、初めて母親以外
 の妙齢の女の肌を見たのだから。それに心が動かされぬほど、彼らは年老いてはいなかった。女達
 が言ったように、彼らはまだ若かったのだ。
  だから、若き日の老人は、あれ以上女達の傍に近づく事は恐ろしく、代わりに山頂にあるという
 岩を探しに行くことにしたのだ。友人は、果敢にも再び女達に会い見えると言っていた。

 「大丈夫だろう、と思っておった。何せ彼は、儂などよりもずっと神の声に近い場所におったのだ
  からな。」

  しかし、女達は友人に屈しなかった。それどころか、神学校で首席であった彼を翻弄するかのよ
 うに、聖句の矛盾を突くのだ。
  女は男よりも悪魔に近いと言う。だが、ならば何故男は女の腹から生まれるのか。男が男を産め
 ば良いのではないのか。
  救世主の血を尊いと言いながら、何故女が毎月流す血を穢れていると言い張るのか。
  女は蛇に騙された。しかしそんな女の言いなりになった男は、所詮やはり女の言いなりになるべ
 きではないのか。

  この山の呪いが、王家から男を奪い、女しか産めぬようにしたのが、その答えではないのか。

     これらの問いかけに対して、友人の聖句は答えを出せず、そして神もまた沈黙したままだった。
 いや、そもそもこの国に入った時点で、頭上にあらせられる神は、既に我らを見限っていたのでは
 ないか。

 「友人は、這う這うの体で逃げ帰ってきた。」

  ただ、辛うじて、その手に女が持って撫で擦っていた石像を奪い取っていた。彼女達は、これを
 自分達の答えだと言っていたのだ。

 「それを見て、怖気づいて山を登っていた儂は、あっと気が付いた。友人が奪ってきた石像は、山
  頂で見た石像に似ていたおった。」

  途端に、友人の顔色はみるみるうちに変わった。
  その石像こそが、女達を誑かしているのだと、叫んで。

 「だが、そんな証拠は何処にもありはせん。そして、そんな友人を嘲笑うかのように、女達の石像
  は、儂らが滞在している村のあちこちで見かけるようになったんじゃ。」

  村人達は無頓着だった。
  口にこそ出さなかったが、神への信仰心はそう大きくもないようだった。一見すると信心深いよ
 うにも見えたが、それは誰かをあげつらう時にのみ発揮された。
  少し頭の足りない輩や、醜い者など、神に心無い贈り物を与えられた人間を村八分にする口実に
 神の名を使っているのだ。

 「悪魔払いに躍起になっている儂らは、村人のそんな心に気づかなんだ。だが、女達の石像が、あ
  ちこちの家に置かれるたびに、そんな物を平気で傍に置く村人の性根に気が付いた。」

  だが、友人はそんな事には気づかなかった。
  彼は、とにかく女達の呪いを解く事に必死だったのだ。
  そんな彼に僥倖が訪れた。一人の女が、彼を頼るようになったのだ。
  女達の中でも最も若く、最も美しい女が、友人を頼り神の家にやって来たのだ。

 「儂は、友人の努力が報われたのだと思った。だが同時に、何故か酷く口惜しい気もした。」

  若い男が二人。そこに、若く美しい女が一人やって来た。男のうち一人を頼って。
  嫌な予感がしたのだ。
  老人は呟く。
  小さな石像を未だに手に抱く女にも、それを受け入れて自分が救ってやるのだと言い放つ友人に
 も、何よりもこの二人に対して嫌悪を抱く己にも。
  そうとも。

 「何とも果敢ない嫉妬じゃ。」

  しかし、それが一つの引き金を引いた。