「っ…………!」

   御主人の綺麗な形をした唇から、痛みを堪えるような吐息が零れた。腕を押えて蹲るその背中
  は苦痛を訴えつつも美しく伸びて、なんだかとても官能的だ。その背には零れんばかりの星空が
  降り注ぎ、その輝きを受けたバントラインが、鋭く光っていた。

  「う…………っ!」

   御主人の艶めいた黒髪をかさついた無骨な手が掴み、まるで苦悶の表情を浮かべる御主人を堪
  能しようとでも言うかのように無理やり顔を上げさせる。それでもその眼から、生来の気の強さ
  を浮かべる御主人は流石だと思う。
   口の端に皮肉な笑みを浮かべ、御主人は吐き捨てるように言った。

  「は、なんだよ、今になってやっと殺す気になったってか?」

   御主人が苦い息を吐きかけるのは、砂色の髪と蒼穹の眼をしたサンダウン・キッド。御主人の
  黒い髪を甚振るように鷲掴んだサンダウンは、御主人の微かに苦痛を帯びた声に対してびくとも
  しなかった。

  「そうだな……………お前の命は今、私の手の内にある。弱い者は強い者に従わねばならない。」

   そうだろう?
   いっそ、底冷えするようなサンダウンの声は、同時に酷く無慈悲でもあったが、しかしそれは
  この荒野では当然の、純然たる事実だった。

  「だから、お前は今夜、私の言いなりにならなければならない…………。」




 Life of Horse 7





   皆さん、メリー・クリスマス。
   O.ディオです。
   ええと、急に変なシリアスっぽい展開で始まってごめんなさい。いや、本当に実を言えばシリ
  アスなのかもしれないけれど。
   今宵、星降る聖夜、御主人は事もあろうことか、サンダウン・キッドに決闘を申し込みました。

     おおう、あんた、本当なら此処は酒場で賞金稼ぎ仲間連中と馬鹿騒ぎするべきじゃないのか!
   それか、美女を侍らせて熱い夜を過ごすか!
   それをなんだって、こんなむさ苦しい髭のおっさんに決闘を申し込むなんて、とち狂った事を
  仕出かしてくれたのか!あんたがこの特別な夜に現れた所為で、サンダウンは見事なまでに勘違
  いをしてくれていやがるわけで。
   でなければ、いくらなんでもサンダウン・キッドと雖も、御主人に荒縄掛けてその身を攫って
  行ったりしないだろう。
   決闘に負けた御主人の身体に、『え、それ何のプレイ?』と言いたくなるくらい喜び勇んで縄
  を掛け、自分の馬に乗せて連れ去っていったおっさんは、きっと頭が膿んでいるに違いない。そ
  れにろくな抵抗もしなかった御主人も御主人だとは思うが。

   しかし、荒縄をうたれてぐったりとした御主人の身体は、笑いごとではない。どう考えても貞
  操の危機に瀕している。が、助けようにもサンダウンは追いかける俺を尻目に、さっさと見つけ
  た小屋の中に閉じ籠ってしまった。
   締め出された俺は、小屋の周りでうろうろするしかない。うろうろして御主人の貞操が奪われ
  るのを黙って見てないといけない!

   ぬああああっ!
   なんでこんな時に俺は人間じゃねぇんだ!

   雄たけび、もとい、嘶きを発する俺を見かねて、サンダウンの馬が厩に誘ってくれなければ、
  俺は夜が明けるまで延々と悪魔の囁きにも似た嘶きを続けるところだった。

  『落ち着いたか?』

   無人の小屋に隣接する厩――というか家畜小屋で、サンダウンの馬は俺にそう聞いた。その言
  葉に、しかし俺は頷けない。だって、今こうしている間にも、御主人はサンダウンの餌食になっ
  ているかもしれないのだ。落ち着いてなどいられるわけがない。
   俺は厩の中で脚を苛立たしげに踏み鳴らす。ああ、もしも人間だったなら、今すぐにあの鍵の
  かかった小屋の扉を開けて、サンダウンのおっさんをガトリングで蜂の巣にしてやるのに。
   ぷるぷると怒りで身を震わせる俺の背に、コケ―ッと叫びつつ鶏が乗りかかる。

  『あんさん、落ち着きいや。そないに気ぃ張っとっても、なんの解決にもならんで。』

   コケコケと、訛りの強い鶏は俺にそう言った。
   無人である小屋は、どうやらかつては裕福な牧場主のものだったらしいが、ゴールド・ラッシ
  ュの過ぎ去った時の不況に煽られた時に、その牧場主が手放したらしい。そしてその時、無数の
  家畜達が置き去りにされたのだ。
   メエメエと煩い山羊と羊に、時折叫び声を上げる鶏共。ブモーっと息を吐く牛。
   そんな置き去りにされた家畜の中の一羽である雄鶏が、今、俺に口をきいている。  

  『此処は一つ、状況を確認してみようやないか。どういう状況なんか分からんかったら、何をし
   たらええんかも分からんやろ?』

   人様の背中に図々しくも鎮座する――俺の背に乗って良いのは御主人だけだ――鶏は、忙しな
  く首を振ると、梁の上に身軽に飛び乗った茶虎の猫に声を掛けた。

  『どうや、姐さん?中の様子は分かるか?』

   どうやら梁の上からは、隙間から隣にある小屋の中の様子が覗けるらしい。鼠駆逐用にと荒野
  に連れてこられた雌猫は、鶏の声に婀娜っぽい声を上げる。

  『あら、あの黒髪の坊やは可愛いわね………顔を赤くしちゃって………。』

   おいおい坊やって、俺の御主人は立派な成人男性だぞ。可愛いという言葉は褒め言葉として認
  めてやるけど、坊やってのはいただけねぇな………って、ちょっと待て。
   顔を赤くしてって、それ、一体どういう状況?!
   一瞬で通り過ぎ去っためくるめく妄想は、救い難いものばかりで、俺は悶絶しそうになった。
  いや、実際に身悶えた。
   あのおっさん、俺の御主人に赤面させるなんて、何してくれてやがるんだ!

  『あんなに顔を真っ赤にして、頑張って生クリーム泡立ててるわ………。』
  『……………。』

   そう言えば、とサンダウンの馬が呟く。

  『私の主人は前の町で苺と生クリームを買い込んでいたな…………。』
  『なん、じゃ、そりゃあ!』
  『ちなみに、ヒゲはソファーでゴロゴロしているわ。』
  『あのおっさん!また一人で楽しようとしやがって!』

   俺は今度は別の意味で脚を踏み鳴らした。
   くそ、あのおっさん、またしても御主人を働かせてやがるのか!自分が御主人よりもちょっと
  強いからっていい気になりやがって!
   ダンダン!と蹄を打ち鳴らす俺を横眼で見やりながら、茶虎の猫は小さく首を傾げる。

  『貞操の危機だのなんだの言ってたけれど、結局あの二人はなんなの?』
  『んだんだ。あの二人は一体、何者だべさ。』
  『んだんだ。』
  『んだんだ。』
  『番だ。』
  『ちげぇよ!』

   メエメエと煩いヒツジ共の合唱と雌猫の問いに、しれっとして答えたサンダウンの馬に、俺は
  絶叫に近い声で否定を打ち上げる。
   だが、栗色の馬はそれに対して、まるで人間が肩を竦めるような様子の溜息を吐いた。

  『そう言っているのはお前だけだ…………。』
  『あら?どういう事かしら?あの二人が番になる事に反対しているのは、この黒毛のお馬さんだ
   けって事?』
  『どういう事だべさー?』 

   興味深々と言った態で眼を輝かせる猫に、俺は舌打ちした。何処の世界でも女というのはこう
  いう話に興味を示す。まして動物だから即物的な事に一切の抵抗がない。つまるところ、人間が
  持つ偏見が一切ない。
   偏見がないのは良い事かもしれないが、それは同時に留まるところを知らないわけで。しかも
  ヒツジ共が煩い。

  『ねえ、あの二人の関係って、結局のところなんなのかしら?』
  『なんだべさ。』
  『だべさだべさ。』
  『とりあえず、交尾までは終わっている。』
  『やめろおおおおあああ!』

   恥も外聞もなくさらりと言ってのけるのは、サンダウンの馬だ。最近思うのだが、この馬はサ
  ンダウンに似てきたんじゃないだろうか。デリカシーのないところとか。
   しかもこの馬、事実だろう、と開き直っている。

  『いいか、交尾っつってもあれだ!ただの処理だ、処理!別に特定の相手ってわけじゃねぇ!』
  『あら。それって普通なんじゃないかしら?』
  『……………。』

   そうだった。
   猫はその季節限りの相手を探すんだった。群れてるネコ科の動物ならともかく、単独行動が主
  なこいつらは、相手をとっかえ引っ返しているんだった。
   しかも追い打ちを掛けるようにサンダウンの馬が言う。

  『私の主人は、あの黒髪の男一筋だ。』
  『情熱的なのね。だったらもう、生涯通しての番と言っていいと思うわ。』
  『だろう?』
  『だろう、じゃねぇ!』

   この馬、放っておいたら変な方向に話を進めていこうとしやがる!
   俺は奴の膝を軽く蹴って、御主人の名誉を守る為に発言する。

  『いいか、俺の御主人はなぁ、あのおっさんに襲われてるんだよ!無理やりなんだよ、これは!
   間違っても俺の御主人にはあのヒゲと番になる意思はねぇぞ!』
  『あら?それならなんで逃げ出さないのかしら?』
  『あのヒゲのほうが御主人よりも強いからだよ、くそ!』
  『強い男に惹かれるのは本能だと思うけど?』
  『アホか!人間の場合強いだけで生きていけるか!ある程度の生活力ってもんが必要なんだよ!
   あのおっさんはそれがゼロだろうが!』

   ヒゲはただのヒモだ!
   そう絶叫する俺に、雄鶏が困ったように首を横に振る。

  『でもなあ、あんさん。獅子も普段男は何もせぇへん言いまっしゃろ?』
  『あのおっさんの何処が獅子だ!』
  『ヒゲのあたりとか。それに無理やりとか言うてますけど、こうも言いますやろ?ほら、嫌よ嫌
   よも好きのうちって。』

   五臓六腑引っこ抜いて、ロースト・チキンにすっぞ、この鶏。俺は食えないけれども、御主人
  ならおいしくいただけるはずだ。
   ふつふつと家畜小屋全ての鶏を、ローストしてやる計画を練っていると、雌猫が長い尻尾を閃
  かせて獲物に狙いを定める時のような真剣な目つきになった。

  『どないしたんや、姐さん。』
  『………ヒゲが坊やの手を取って、そこに口付けてるわ。』

   その言葉を聞いた瞬間、家畜共は囃し立てるような声を上げ、俺は怒りで頭が真っ白になる。
   ってかこの家畜共、なんでこんなに下話好きなんだ。

  『それで、それで?!』
  『どうなった、どうなった?!』
  『ヒゲが坊やの腰を引き寄せて、逃げ出さないようにした上で、首筋に顔を埋めてるわ。ああ、
   坊やが何か叫んでる。えーと、お前の言われた通りケーキ作ってやってるのに何すんだ。あ、
   ヒゲが押し倒した。』

   その光景がリアルに想像できた俺は、自分が幾度となくそういう光景を目にしてきたかを悟っ
  た。が、今はそんな悟りを開いている場合ではなく、なんとかして御主人を助け出さなくては!
   俺は息巻いて家畜達の声のする小屋から出て行こうとする。が、それを止めたのはサンダウン
  の馬だった。よりによって俺の尻尾を咥えて引き止めた馬は、くいくいと更に引っ張っている。
   てめぇ、尻尾ってのは動物にとっては敏感な部分だってことくらい知ってるだろうが!いやそ
  れ以前にてめぇの主人の犯罪行為を止めてやろうっていう俺の心遣いを無にするつもりか。
   すると奴は腹立たしいくらい冷静な声で言った。

  『お前は私の主人に勝てると思っているのか。』
  『勝てねぇと分かっててもいかなきゃなんねぇ時ってのがあるだろうが!』
  『…………止めておけ。』

   奴は俺の尻尾をようやく放すと、いつも俺を宥める時にする、首筋をコリコリと食んで毛繕い
  を始めた。年季の入った奴の毛繕いは確かに気持ち良いのだが、しかしそれに惑わされている暇
  はないわけで。
   何よりも、奴の言葉に便乗して『そうだそうだ』と喚いている家畜共の声が、俺の怒りに拍車
  を掛ける。本当に、丸焼きにしてやりたい。
   ふるふると怒りにうち震える俺の様子に気づいたのか、栗毛は尻尾をひと振りして、家畜共を
  一喝した。

  『お前達も、他人の交尾を見て喜ぶのは止せ。』
  『だから交尾言うな!』
  『あ………。』

   俺が怒鳴るのと、雌猫がひらりと梁の上から飛び降りるのは同時だった。すたん、と身軽に飛
  び降りた彼女は、肩を竦めると、ばれちゃったと言った。

  『ヒゲに睨まれたわ。もう覗き見は無理ね。』
  『えー!』
  『えー!じゃねぇ!』

   ぶうぶうと騒ぐ家畜共を、俺は嘶いて黙らせる。しん、と静まり返る家畜小屋。その中で俺は
  吠え続ける。

  『てめぇら、そんなに他人の不幸が楽しいか!他人事だと思って好き勝手騒ぎやがって!本当だ
   ったら御主人は別の誰かと幸せな夜を過ごすはずだったのに!俺だって人参を食べさせて貰う
   はずだったのに!なのに、あのおっさんが!サンダウンが!』

   目元が潤んできた。これは本当に悔し涙だ。人参が食べられなかった事い対してではない。御
  主人を守れなかった自分に対して、だ。本当になんで俺は今人間じゃないんだろう。

  『お前は最近、よく泣くな。』
  『うるせえやい。』

   栗毛の言葉に、俺は鼻を啜りながら答える。言っとくが俺は昔から――人間だった時も含め―
  ―涙もろかったんだ。

  『分かったから、泣くな。』

   サンダウンの馬が俺の目元の毛繕いを始める。その間も俺はうるうるとしている。そんな俺を
  せっせと毛繕いする栗毛と、俺を見上げて、茶虎の雌猫は首を傾げた。

  『ところで、あんた達こそ、どういう関係?番に見えるのはアタシの思い違いかしら?』

   しばくぞ。