何をされたって敵には回れない



 
 ちょっと、みなさん、聞いてくれますか!
 俺の人生、いや馬生始まって以来の最大の不幸!
 俺、もう、どうしたらいいか分からないんですけど!




 Life of Horse 3




  始まりは御主人の一言だった。

  ある天気の良い昼下がり、御主人がいつになくまじまじと俺の身体を見回していた。自分で言う
 のもなんだけど、俺はそんじょそこらの馬と比べても見てくれは良いほうだ。黒い毛並みも体躯も、
 それはもうどんな雌馬だって振り返るくらいだ。だから、御主人が俺の身体に見惚れるのも当然だ。
 御主人に俺がカッコ良いって事を知らしめる為なら、後ろ脚で立って二十秒間ポージングをとって
 も良いくらいだ。
  だが、そんなナルシズムに浸っていた俺を引き裂いたのは、その御主人の一言だった。

 「ディオ、てめぇ、太ったんじゃねぇか?」

  その瞬間、俺の時間は凍りついた。
  そんな俺を一瞥し、御主人は独り言のように俺の馬生最大の不幸を招く言葉を呟いた。

 「ダイエットしねぇと、駄目だな。」

  あああああ!
  止めてくれよ!
  飯ぐらいしか楽しみがない馬の飯を量を減らすなんて、あんた鬼だ、悪魔だ、魔王だ!
  大体、俺のどこが太ってるってんだよ!
  毎日あんた乗っけて荒野を駆け巡ってる俺のどこに太る暇があるってんだ!
  え、言ってみろ!

 「鞍が付けにくい気がするんだよな………。胴周りに肉がついてんじゃねぇか?」

  まるで俺の心を呼んだかのように独り言を続ける御主人。しかもご丁寧に、俺の腹を人差し指で
 ぷにぷにと突ついてくれる。俺の自己診断よりも、鞍の付けにくさのほうがメタボリックの測定指
 針としては間違いなく正しい。
  反論できない俺が、うるうると涙眼になっている事に気付かず、御主人は更に俺の心を抉るよう
 な事を言う。

 「一体どこで拾い食いしてんだ。俺は基本的に同じ量の餌しかやってねぇぞ。」

  拾い食いなんてしてねぇよ!
  そこらへんに生えてる草を食べる事はあっても、その様子をあんた黙って見てんじゃねぇか!
  あんたが許している以上、それは拾い食いって言わねぇよな!
  言ったら、いくら御主人といえども、俺、怒るぜ?

  だが、俺の怒りよりも御主人の読みのほうが上手だった。じろりと俺を睨みつけると、御主人は
 低く詰問調の声で俺に迫った。

 「お前、宿とか酒場の厩にいる時、他の馬の飼葉漁ってんじゃねぇだろうな………?」

  あんた、その読みの深さは一体何なの………?
  御主人の言っている事はあながち間違っていない。ただ、俺は別に他の馬の飼葉を見境なく漁っ
 ているわけじゃない。俺はある特定の馬の飼葉を、その馬の許可を得て頂戴しているだけだ―――
 御主人からしてみれば、同じ事なんだろうけどな。しかもその特定の馬っていうのがなぁ――――。

 「お前が太ってたらサンダウンを捕まえる事もできねぇじゃねぇか。」

  そのサンダウンさんのお馬さんに、俺は飼葉もらってまっす。

  ―――御主人にばれたら、確実に馬刺し決定だ。

  そんな戦々恐々とした俺の気持ちは無視して、御主人はダイエットの計画を立てている。人参の
 数がどうだとか走る距離はこれくらいとか、ぶつぶつ呟いている御主人の背中が、サタンの手先に
 見えた。

  わかってるって。
  悪いのは俺だよ。
  勧められるがままに飼葉を食べた俺が悪い。
  けど、さぁ。
  相手はサンダウンの馬だよ?
  御主人の貞操の事考えたら、やっぱりあの馬との付き合いは大事なわけよ。
  ………一緒の厩にいる時点でなんかもう間違ってる気もするけどさ。
  ただ、なんか最近、あの馬の体調が悪いみたいなんだよな。
  俺が食べてる飼葉ってのは、あの馬の残りもんなんだよ、うん。
  ま、あの馬もいい歳だしな。
  けど、気になるっちゃあ気になる。

  御主人のダイエット計画が始まったその夜。

 『あんた、また食ってねぇのかよ。』
    ここ最近、桶に残っている飼葉を覗きこんで俺は鼻息を荒くした。

  なんでか良く分からないけど、今夜も御主人とサンダウンは同じ宿に泊ってます、はい。そうな
 ると必然的に俺とサンダウンの馬も同じ厩にいる事になる。一応仕切りはあるけど、それでも隣の
 馬の状況なんか丸見えだ。
  ………俺とサンダウンの馬が隣どうしになる確率の高さは、もう天の采配というしかない。
  と、それは置いといて。
  桶に半分以上残った飼葉は、奴がほとんど飯を食っていない事を意味している。こいつ、ほんと
 にやばいんじゃないか?

 『ちゃんと食わねぇと、あのおっさん乗せて逃げられねぇんじゃねぇの?』

  仕切りの上に顎を乗せて、ふんっと鼻息を吐くと、奴はちらりとこちらを見た。

 『気になるんならお前が食えばいい。』

  ずずっと脚で寄こされる飼葉の桶。
  いやいや、俺は今ダイエット中ですから。
  というか。

 『あのな、あんたも長い事西部の馬をやってるんなら分かるだろ?西部の人間にとっちゃ馬は命み
  たいなもんだぜ?あんたが倒れたら、あのおっさんがどうなるか。』

  そう、西部の男の馬へ掛ける愛情は並々ならない。馬が死ぬ時は自分の手で殺すくらいだ。サン
 ダウンだって同じだろう。どこか自分の命を醒めた目で見ているあの男にとっては、自分の命より
 もこの馬の命のほうが重いんじゃないだろうか。
  もしもこの馬が倒れたら――――。
  あのおっさんの執着心は、間違いなく御主人に全て向かう。
  あのおっさんの心を占めているのは、1割が自分の命、4割が馬、5割が御主人の事と言っても
 過言ではない。馬が倒れたりしたら9割が御主人の事になる。そんな事になったら、もう御主人の
 貞操はあってないようなものだ。出会うたびに御主人はあのおっさんに弄ばれる――いや、もしか
 したら何処か人里離れた場所に閉じ込められるかもしれない。あのおっさん、御主人を自分の嫁く
 らいに思い始めるだろう。
  んな事、許せるか! 
  ふつふつともはや妄想と言ってもよい方向に考えを思い巡らせていた俺に、奴はぐりぐりと飼葉
 の桶を突き付ける。

 『食わないのか?』
 『いらねぇ………。』

  自分の想像に、やけ食いしたいところだが、そんな事をしたら明日の俺の命はない。

 『珍しいな。何があっても食べる事だけは止めない癖に。』
 『喧しい!大体、お前の主人の変態っぷりに頭を悩ませてんだ!てめぇがなんとかしねぇから!』
 『えんえんと追いかけ続けるお前の主人にも問題はあるような気がするがな。』
 『賞金首を賞金稼ぎが追いかけて何が悪いってんだ!それで厭らしい眼を向けるてめぇの主人がお
  かしいんだ!』
 『そう怒るな。』

  面倒くさくなったのか、奴は宥めるように俺の首筋の毛繕いを始める。馬は敵意がない事を示す
 為に、こんなふうに毛繕いをしあうのだ。俺達馬は、人間よりもずっと平和な生き物なのだ。が、
 平和云々をふっ飛ばしそうな恐ろしく不穏な気配を感じてしまった。

 「てめぇら、えらく仲がいいじゃねぇか。」

  地を這うような御主人の声に、俺は全身が総毛立った。風呂にでも入ったのか黒い短い髪に細か
 な滴を垂らし、微かに上気した肌を胸元までボタンを外したシャツで覆った御主人の姿は、それは
 それは煽情的な姿ではあったが、それ以上に立ち昇る気配が怖い。どうやら俺がちゃんとダイエッ
 トしているか見に来たようだが、恐ろしくタイミングが悪すぎる。俺の足元にはサンダウンの馬が
 押し付けた飼葉の桶があり、俺自身は奴に毛繕いをして貰っている状態で。

 「ディオ、てめぇ、いつからサンダウンの馬に買収されるようになったんだ、ああ?」

  違うんです、これにはわけが!

    ヒンヒンと鼻を鳴らし、無罪を主張するが御主人の耳には届かない。このまま俺を解体できそう
 な気配を背負った御主人に、俺は一歩後退る。
  が、次の瞬間、あっと思った。

 「何を騒いでいるんだ………。」

  のそりと入ってきた背の高い影に、御主人は怒りをそのままに物凄い勢いで食い付く。

 「サンダウン、てめぇ、自分の馬に一体どんな教育してやがんだ!」

  あんた馬に教育って何、ってかそうじゃなくて!
  風呂上がりのそんなカッコでそのおっさんに近づくんじゃねぇよ!
  御主人、頼むから逃げてくれ!
  ダイエットでも何でもするから!

  俺の心の悲鳴は御主人には届かず、御主人は無防備そのものの姿でサンダウンに食ってかかって
 いる。

 「てめぇの馬がディオに色目使ってんだよ!」

  違います。
  それに色目使われてんのは、あんただ。

 「てめぇの馬はあれか。見た目のいい馬だったら誰でもいいのかよ!」

  俺の話題で変な方向に話を進めるのは止めてください。
  ってか、変な方向の真っただ中にいるのは、むしろあんただよ、あんた。

 「言っとくけどな、てめぇの馬とディオの交際は断じて認めねぇからな!」

  その言葉、名前をあんたとサンダウンに変えて、そっくりそのまま返す!

  御主人は、びっと人差し指をサンダウンに突き付けると、どかどかと乱暴な足取りで厩から出て
 いこうとする。それを止めたのはサンダウンの低い声だった。

 「………マッド。」
 「あ?」

  御主人が振り返った顔に、サンダウンの影が濃く落とされる。シャツを羽織っただけの、防御力
 の著しく低い御主人の身体にサンダウンの腕が回されれた。

 「へ………?は………?!」

  突然の事すぎて反応の鈍い御主人を、サンダウンは厩の片隅―――藁が積み重ねられているその
 背後に引き摺りこむ。

  って、何してんだおっさん!
  まさかあんた、こんな所で何かやらかす気じゃあねぇだろうな!
  いやちょっと待てって!

 「ちょ……おい!キッド、何しやがる、てめぇ!」

  御主人の声にも焦りが混じり始める。だがそれ以上に混乱の色が濃い所為か、抵抗らしい抵抗が
 ほとんどないのがもどかしい。

  ああ、あんだけ逃げろって言ったのに!
  くそ、なんでこんな時に俺は人間じゃねぇんだ!

 「キッド!何考えて………!」

  ばさばさという音がむちゃくちゃ生々しい。俺のいるところからじゃ、もう二人の姿は見えなく
 なっている。音と声だけが辛うじて二人の様子を知らしめているけど、何も出来ないのなら、いっ
 そ耳を塞いで現実逃避したい

 「キッド………っう……。」

  御主人の声が途絶えた。何をされたのかなんて考えたくもない。静かになった空間は、やっぱり
 生々しい。居た堪れなくなった俺が卒倒しかけた時、厩に入ってくる影があった。きょろきょろと
 周囲を窺う挙動不審な男。顔立ちは、ちょっと小悪党っぽい。
  その男は、厩の中に人影がいない事を確認すると――藁の影にいる御主人とサンダウンには気付
 いていないようだ――サンダウンの馬の飼葉に何やら液体を振りかけた。あからさまに、怪しい。
 俺とサンダウンの馬、二頭の疑惑の目に気付かず、男は入ってきた時の倍以上の挙動不審さで厩を
 出ていく。
 
 「…………何だよ、ありゃあ。」

  男が消えてしばらくしてから、御主人の声が藁の後ろから聞こえた。その後に続くように、サン
 ダウンの背の高い姿が現れて飼葉の桶の中を覗き込む。御主人もその後ろから覗いている。

 「薬、かねぇ………。」

  つまらなさそうな御主人の声に、サンダウンは肯定も否定もしない。けれど、御主人の言ったと
 おりで間違いないだろう。ただの水を飼葉に掛けたって意味がない。

 「わざわざつまんねぇ事する奴がいるもんだな。そんな事したって、馬が食わなきゃ意味がねぇだ
  ろうによ。」

  そりゃそうだ。賢い馬は不審な餌には食い付かないもんだ。現にサンダウンの馬は、今の今まで
 飼葉を食っていない。
  そこまで考えて、俺ははたと気付いた。野郎……まさか俺を毒見役にしやがったんじゃねぇのか?
 奴が宿やら酒場やらの飼葉を食わなかったのは、以前にこういう事があったからで。 ぎろりと奴
 を睨むと、奴は素知らぬ顔で遠い所を見ている。それが俺の読みが正しい事を確かなものにしている。
 こいつ………!

 「くそ………せっかく風呂に入ったのに、また入らねぇと。」

  藁があちこちについて落ち着かないらしく、御主人は手で払ったりしている。サンダウンは……
 …より一層ぼろになったと言ったらわかるだろ。

 「てめぇが説明しねぇから悪いんだ。いきなり引き摺りこみやがって。」

  ああ、何もなかったのね。
  それは良かった。
  そうだよな。いくら節操なしのおっさんでも、厩で事を運ぼうとするほど節操なしでも変態でも
 ないはずだ。
  ぶつぶつと文句を言いながら、今度こそ厩から出ていく御主人を、俺とサンダウンの馬、そして
 サンダウンは黙って見送る。一番まともに喋っていた御主人がいなくなった事で、厩には静寂が落
 ちる。
  その静寂を静かに壊したのはサンダウンだった。サンダウンは深い溜め息を吐くと自分の馬の首
 を軽く叩き、聞こえるかどうかくらいの低く小さい声で囁いた。

 「引き摺りこまれた事以外には、特に文句を言わなかったな………。」

  微かに苦笑を込めた声音。それを置き去りにしてサンダウンも厩を出ていく。残された俺達は少
 しの間首を傾げていたが、しばらくして隣にいる奴が、ああと呟いた。そして、ちらりと俺を見や
 って言った。

 『お前の主人は、もしかして鈍いんじゃないのか?』
 『ああ?!』

  言うに事かいてなんだそれは!
  すると奴は首を竦めた。

 『だってそうだろう?引き摺りこまれた事には言及したが、それ以外の事には何も言わなかった…
  …それとも無自覚なのか?』
 『何が!?』

  引き摺りこまれた事以外ってなんだ!
  何もなかったんじゃねぇのか!

  そこまで思って、思い出した。御主人の声が唐突に途絶えた瞬間を。何をされたのかなんて考え
 たくもなかった瞬間。あれは、何を、どうやって、なんて。

 『あ、あのおっさんーーーーっ!』

  狭い厩に、俺の嘶きが轟いた。