03: 例えるならば炎と氷のようなふたりが溶け合う理由




  彼にこんな瞳で睨みつけられた事は今までに一度もなかった。
  どれだけ自分に怒鳴り声や罵声をぶつけても、その眼に灯る光にはしっかりと熱が籠っていた。
  だが、今の彼に宿るのは、底冷えするような凍えた炎だ。
  こんな眼は違う。
  こんな冷え込んだ眼差しはこの男には似合わない。
  真剣にそう思った。




  サンダウンの眼から見て、マッドはどちらかといえば陽気な側の人間だ。
  皮肉な笑みを湛える事も多いが、その挙動は決して陰湿ではなく、むしろ明快でさえある。どう
 しようもないならず者達には容赦がないが、反面、決闘となればどこまでも律儀にその流儀を守る。
 口は悪く人の神経を逆撫でするような事も平然と言うが、妙にお人好しでもある。
  酒が好きで煙草が好きで女が好きで、軽やかに愉快な喧騒の中を動くその魂は、生きる事に貪欲
 だ。
  死に場所を探しているサンダウンにしてみれば、その姿は焦げ付きそうなほど熱い。
  その熱をそのまま映したかのような眼で、マッドは笑い、怒り、サンダウンを罵るのだ。
  決して曇らない熱。
  そう、思っていた。
  だから、愛馬を引いて夕闇に沈みそうな町を歩く、酷く暗い眼をしている姿を見た時、別人かと
 思った。




    サンダウンが、太陽が沈む時刻に訪れたそこは寂れた町だった。
  以前に訪れた時はもう少し活気があるように感じていたが、サンダウンが訪れたその日は、奇妙
 な沈黙がそこかしこで流れていた。
  それはサンダウンも良く知る雰囲気だ。
  怯え。
  時折聞こえる物音でさえ、何かにびくつく気配が漂っている。
  そもそも、まだ寝入るには程遠い時間であるのに、明かりの灯った家が絶対的に少ない。まるで
 出来る限り人目に付かないように、身を縮こませるかのような家々は、確かに怯えている。
  何に、と問うのは愚問かもしれない。
  ゴールドラッシュによる人口の増加は、同時に欲に眼がくらんだ者も多数この地に引き寄せた。
 そして欲に飲まれた者の中でも、特に忍耐のなかった者達は、ゴールドラッシュが過ぎ去った後も
 金銀を夢見、しかし己で生み出す事もせず、ただただ他人から奪う事に快感を得ている。
  そんなならず者達が町を襲う事など珍しい事ではない。
  おそらくこの町も、いたずらに蹂躙され、怯えきっているのだろう。
  そしてサンダウンは、つと歩みを止めた。家が立ち並ぶ中、家とは言えない黒い塊が眼に付いた
 のだ。焼け焦げた木材が、死んだ馬のように倒れ重なっている。まだ燻っていそうなその焼跡の隙
 間から、この建物が酒場である事を示す看板が見えた。
  ただの火事、と考えるのは、あまりにもおめでたい考えだろう。
  ましてこの建物は、人の集まる酒場だ。当然、酒を求めたならず者達も卑下た笑みを浮かべて集
 まってくる。何が起こったかなど、想像するに容易い。
  ただの憶測だが、あながち外れてもいないだろう。何よりもこの町の様子が雄弁に物語っている。
  苦いものが込み上げてくるのは、どうしても抑えられない。
  しかし、沈め込んだかつての自分が喚きたてるのを、サンダウンは聞かないふりをする。
  今更自分がしゃしゃり出たところでどうなるのだと、言い聞かせる。何よりお尋ね者の自分が、
 この町にとっては更なる恐怖の対象となる可能性もあるのだ。
  早めに立ち去るべきだ。
  絶望の縁で喘いでいる今現在の自分がそう呟く。
  それに頷こうとした時、見知った気配を感じた。
  咄嗟に振り向いたのは、その熱に焦がれていたからだけではない。決闘の時にも感じた事のない
 殺気を放っていたからだ。
  探す姿はすぐに見つかった。闇に溶けそうな黒い馬を従える影。
  しかし、見つけた瞬間、それは別人かと疑った。
  普段と変わらぬ姿。けれどいつもは世界を戴くその身が、やけに投げ遣りなものに支配されてい
 た。そして何よりも、熱のような光を灯す眼には、酷く冷えた塊が浮かんでいたのだ。
  信じられない。
  その塊を見た瞬間に感じたそれは、違う事無く本心だ。
  彼の眼に浮かぶ塊の名前は、どう考えても、彼に似つかわしくない。そんなものに身を任せてい
 る事が信じられない。 
  裏切られたような、酷く身勝手な気持ちが背筋を走った。
  だが同時に、何が、という疑問が全身に膨らんでいく。
  暗い影を背負う姿はサンダウンに気付く事なく、闇の色の濃い町の何処かに消えていく。いつも
 なら真っ先にサンダウンに気付くはずの瞳は、今日ばかりは一瞬たりともサンダウンに向けられな
 い。
  それを微かな苛立ちを込めた視線で見送り、サンダウンは立ち去ろうと考えていた町の中に、同
 じように溶け込んだ。




    マッドは息を殺し、火の消えた闇の中を見る。
  図ったかのように月を雲が多い隠し、奴らから自分の姿を隠してくれている。マッドにしてみれ
 ば雲越しの月明かりだけで十分だ。
  奴らは十数人。
  だが、話を聞く限りではマッドが闇に乗じて撃ち取るには困難な相手ではない。何よりも奴らは
 マッドが奴らを狙っている事にも気づいていない。
  そしてその理由にも。
  その事実に噴き上がる感情を、妙に冷めたもう一人の自分が嗤っている。
  同情で動くのか、と。
  違う。
  いつになく落ち着きのないディオの蹄の音が、纏まりきれない自分の心を表しているようだ。
  けっして同情などではない。ただ、どうしても奴らが気に入らない。無視すれば良いだとか、そ
 んなレベルの話ではない。あの連中が、自分達と同じ賞金稼ぎである事が気に食わない。賞金稼ぎ
 の名を騙りながら、賞金首など一人も撃ち取れず、賞金首以外の者の首を撃ち抜いている事が気に
 食わない。金にもならない小さな者の首を賢しらに引き抜く様が、マッドの全神経を逆なでする。
  誰かの為、ではない。
  あの町の為でも、流される涙の為でもない。自分の昂ぶりすぎて麻痺した感情を抑えるためだけ
 の行為だ。
  研ぎ澄まされて、逆に獲物以外には鈍感になった神経。
  そこを突くかのように、銃声が鼓膜を劈いた。
  マッドを嘲笑うかのようなそれは、一度や二度ではない。
  はっとしたマッドの耳に、断末魔と怒鳴り声、そしてそれらを完全に消しさる為の銃声が覆い被
 さってくる。
  殺すために鋭くなっていた五感は、間違う事無く何が起こっているのかを知らせているが、それ
 は逆にマッドに混乱を齎した。
  こと切れる間際の悲鳴を上げているのは、つい先程まで自分が踏みにじろうとしたならず者達の
 ものだ。では、誰が連中を銃撃しているのか。
  あの町の住人だろうか?
  いや、あの町にはそんな事ができる人間はいない。そもそもそんな者がいれば、最初からこんな
 事にはなっていなかったのだから。
  混乱するマッドをよそに、辺りには、しん、と沈黙が舞い降りた。
  闇夜に相応しいその静寂は、ならず者達の命が潰えた事を物語っている。そしてそれを待ってい
 たかのように、今まで隠されていた月がひっそりと雲間から顔を覗かせた。荒野に投げかけられた
 月光の中、ならず者達の屍を背に歩いてくる姿がある。
  微かに聞こえてくる砂を踏みしめる音に、マッドはそれが誰なのか気付いた。
  今まで気付かなかった事が不思議なくらい、良く知った気配。 

 「………キッド。」

  掠れた声でその名を発し、サンダウンの青い眼とぶつかった瞬間、頭よりも先に心が全てを理解
 した。
  何故という問い掛けは無用だ。
  ただ、サンダウンが何故此処にいるのかが、一部の狂いなく心の中に収まった。

 「てめぇ…………!」

  瞬間に湧き上がった感情がなんなのか、マッドにも分からない。
  ただ眼も眩むような閃光に頭の中が支配され、考える間もなく呻くような声と共に銃口をサンダ
 ウンに突き付けた。
  立ち止まる背の高い影に、マッドは歯ぎしりしながら問う。

 「一体、何の、つもりだ。」

  つっかえるように吐きだした台詞に、サンダウンの眼に灯った光が、気の所為か、微かに揺れた。




  嘘を吐いても信じてもらえない事は眼に見えている。
  元保安官の性質でならず者達を放っておけなかっただとか、連中に襲われただとか、いくつかの
 その場しのぎの嘘は思い浮かぶ。
  だが、そんな適当な嘘はマッドは信じないだろう。
  いや、それ以上にマッドは気付いている。
  サンダウンが連中を殺した理由に自分自身が関係している事に。それ以外の仮定など潰してしま
 うほどに、分かってしまっているのだろう。だから『何故』ではなく『何のつもりだ』と問うてい
 るのだ。
  何のつもりでマッドの感情に関わったのか、と。
  銃口を突き付けぎりぎりと睨みつけるマッドに、サンダウンは思った事を口にしようとして、止
 めた。
  お前に憎しみなど抱いて欲しくなかった。
  そんな事を言えば、その怒りに油を注ぐ事は眼に見えている。
  マッドが何に対してそれほどまでの憎しみを抱いたのか、サンダウンは断片的に拾い集めた情報
 からそれを察していた。
  名ばかりの賞金稼ぎ達が、酒場の主人を殴り殺した事。
  彼らが、その場にいる女を凌辱しつくした事。
  彼らが、店の有り金を奪っていった事。
  眠っていた子供達を嬲り殺した事。
  そしてそれら全てに火を放った事。
  燃やされた中に、マッドの知り合いがいたのか、そこまでは分からない。だが確かに、マッドの
 憎しみの琴線に触れるものがあったのだ。
  それでも。
  いまだ底冷えするような光を瞳に携えているマッドを見て、サンダウンは思う。
 それでも、憎しみなどこの男には似合わない憎しみで人を殺すなど、この男には最も似合わない行
 為だ。薄暗い負の感情などではなく、爆ぜるような清々しい熱に従って生きていけばいい。
  しかしそれはサンダウンの身勝手な望みだ。
  口に出せば、それはマッドに自分の願いを背負わせる事になる。傲慢な望みを引き下げるつもり
 はないが、それでマッドを縛り付けるつもりもない。
  だから、サンダウンにはマッドの問いに答える事が出来ない。
  答えないサンダウンに業を煮やしたマッドは、しかし怒りに駆られて銃の引き金を引く事はなく、
 代わりに銃を持たない左手でサンダウンを殴りつけた。
  それを受けたサンダウンは一瞬よろめいた。
  が、怒りに任せてというにはあまりにも弱い一撃。
  殴った後そのまま引き下がろうと宙を掻いた腕を咄嗟に掴んだ時、マッドの黒い眼が伏せられて
 いるのが見えた。
  掴まれた腕にはっと開かれたそこには、もうあの冷たい光は残っていない。あるのは触れれば灰
 になりそうな怒りと、良く見なければ分からないほど奥深い悲しみだ殴りかかるまでの僅かな時間
 で、夜の底を這いずり回るかのような憎しみを抑え込んだ男に、安堵と感嘆の溜息が洩れた。
  全身から噴き上げそうな怒りも、今はサンダウンに向かうものよりも自らに対するもののほうが
 多い。
  すっと顔を背けたマッドとその腕を掴んだサンダウンは、しばらくの間その状態で立ち尽くす。
  空に残っていた雲が霧散し、月以外の星々が空に散らばり始めた頃、ようやくマッドが口を開い
 た。
 
 「貸しが出来たなんて思うんじゃねぇぞ…………。」
 「思わない。」

  思うわけがない。
 これはサンダウン自身の為に行った事だ。むしろ、サンダウンの願いのために、この男の感情を一
 つ奪ってしまったのではないだろうか。強靭ともいえるほど真直ぐな精神を持っている事に付け込
 んで。
  だがそれを後悔するほど、サンダウンは善人ではない。
  マッドの眼に再び熱を帯びた光が灯った事に、いつものようにサンダウンの気配を中心に据え始
 めた事に安堵している時点で、そしてそれを当然だと思っている時点で、十分に卑怯だ。
  俯きがちに顔を背けているマッドの横顔を見下ろしながら、内心であまりにも自分本位な己を嗤
 う。
  憎しみという感情を悪し様に言うのは普通の事だ。憎悪など、誰もが疎ましく厭い、出来る限り
 自分から遠ざけたいと願う。誰しも抱く感情だというのに。
  サンダウンは数え切れないほどの憎悪を見てきた。
  罪なく殺された者の恋人の呪詛も聞いたし、罪人の子供の恨み節も聞いた。サンダウン自身に向
 けられたものも数多い。そしてサンダウンの中で渦巻くものも。
  にも拘らず、マッドの中にはあって欲しくないと思ってしまうのだ。
  マッドを利己的だと判じる者は多いが、そんな事はない。
  他人の、人としてあるべき感情がなければ良いと望むサンダウンのほうが、ずっと利己的で傲慢
 だ。
 
  ―――私が人の温もりを忘れない為にも、人として死んでいける為にも。

  世界を従える背が、憎しみなどに彩られていて欲しくはない。
  だから。
  マッドの背後には、眼も覚めるような美しい月が釣り針のように垂れ下がっている。

  ――薄暗く凍える感情など全て私に渡せばいい。

  お前には、火花のように軽やかに爆ぜる熱が似合っている。
  その熱で、いつかこの心臓を撃ち抜くためにも。

  ――冷たい炎は私に背負わせればいい。

  どうせ、お前が突きつける世界の熱で、そんなものは溶けてしまうのだから。
  掴んでいる彼の腕は、やはり人の温もりそのものだった。
  





 


   
Like the dance of flame and ice