苦々しい思いを湛えて、爪で地面を掻いた。
  がりがりと音を立てながら地面を引っ掻いて、しかしそれによって気分が晴れる事などない。む
 しろ爪と指の隙間に砂が入り込んで、一層不愉快になるだけだった。
  髪の中から首筋を伝って背中まで、じっとりと汗が噴き上げては服に染み込み、汗を孕んだ服は
 もっと水分が欲しいのか貪欲そうに肌に張り付く。その様が、しつこい女を連想させて、サンダウ
 ンはますます顔を顰めた。
  鬱屈した思いが腹の底に溜まっている。
  こういう場合の発散の仕方は一体どうすれば良いのだろうかとサンダウンは思ってみるも、どう
 せどれも今の自分には出来そうにないだろう。いや、もちろん鬱屈した感情に任せてやってみたと
 ころで、まるで全てが状況を悪化させるだけだ。
  女を抱いたとしても、おそらく、そのぶよぶよとした肌に嫌気が差すだろう。
  好きなだけ銃を撃ったとしても、どうせその後に漂う血臭と死臭にえずくだけだろう。
  何をしても、この身体はそれを悦として受け取らないのだ。快感も享楽も愉悦も、サンダウンに
 触れられたなら、そのまま塵芥に変わり、そのまま脆く崩れ去る。
  それはかの有名な、触れる事で全てを金に変えたというミダス王の如く。
  しかし、ミダス王のそれが人の欲から生まれるものだとしたら、サンダウンのそれは絶望から来
 るものだ。




  薔薇の庭師





  自分の中で、ぽっかりと絶望の縁が口を開けて待っている。
  サンダウンはその事を良く分かっていた。
  いつ頃開いたのかと言われたなら、紛れもなく、あの、英雄の座から降りざるを得なかった日に
 はっきりとそれは大口を開けてみせたのだ。その前々、人々に疎まれる視線で見られるようになっ
 たあたりから兆しはあったようだが、それが明白になったのは、長年守り抜いてきたと思っていた
 街に背を向けた時だ。 
  一度開いた絶望の大穴は、そう簡単には塞がらない。サンダウンがどれだけ心乱さぬように、一
 番の原因である人間から眼を背けて、荒野を渡る風と砂だけで穴を埋めようとしても、それはいつ
 サンダウンを飲み込もうかと隙を窺っている。
  そして、じっとりと汗ばむこの時間、毛のように生やした鋭い牙を見せながら、巨大な穴はじり
 じりとサンダウンに近づきつつあった。
  舌打ちして、サンダウンは汗の所為で首回りに張り付いた髪を振り払った。
  どうにも気分が悪い。
  何が原因というわけでもなかった。
  昨日も一昨日も、そして今日も、まるで同じ一日だった。サンダウンの心に触れるものなど何も
 ない。いつものように朝が来て日が昇り、風が雲を押し流し、砂が旋毛に乗って、遠くで鳥が鳴い
 て日が沈む。何一つ変わらない。
  にも拘らず、サンダウンは酷く気分が荒んでいた。
  別に食事に気を使うつもりはないが、何を食べても灰を口にしているようだ。水一滴を飲む事さ
 え億劫と言ってもいい。いっその事、このまま地面に横たわって、身体が朽ちてそのまま砂となっ
 てしまえばどれほど楽か。
  サンダウンは死に場所を求めている。そんなふうにして跡形もなく散ってしまえば、どれほど良
 いだろう。それ以上の死に方はないようにも思えてくる。
  いつもなら、そこで思考に歯止めが掛かるのだ。
  サンダウンとて如何に身を落とそうとも、元は名のある保安官だ。死を望む人間は大勢見てきた。
 それ故に、死が持つ甘美さも理解しているつもりだ。
  キリスト教の教義において、自死は禁止されている。
  だが、今のサンダウンのように、何も守るものもなく、何をしても喜びを感じなくなった身体は、
 やはり死を望むのだ。ひたすらに灰を噛むだけの人生に対して、何処までも昏く、底知れず、しか
 し明確な終わりを見せる死というのは、恐ろしいと同時に全てを受け入れてくれる優しさがある。
  そして、普段のサンダウンならば、優しい闇の形をした死に対して、激烈な誘惑を感じながらも
 それを甘美なものと認識している自分に恐れを抱き、そこで立ち止まるのだが。
  がりがりと、地面を掻く。
  何度も何度も砂を指の隙間に通して、サンダウンはそれが形ばかりの抵抗に過ぎない事を薄らと
 感じ取っていた。
  サンダウンの中では、このまま朽ち果てたいという願いが広がっている。今、指で掻き毟る地面
 さえ、塵芥に変えてしまいそうなほど、腹の底で黒々とした大穴が大笑している。

 「……何やってんだ、あんた。」

  遥か頭上から、声が降ってきた。
  今、一番聞いていたくない声だ。

 「こんなところで、遂にのたれ死にのつもりかよ。そんな事してる暇があるんなら、せめて俺の腕 
  にその首を落としてからでも良いんじゃねぇのか?」

  飽きれたような声と共に、横腹を軽く足で蹴る感触がする。それだけの衝撃でも、腹を食い破っ
 て絶望が垂れ流されるかもしれないのに。そしてそのどす黒い色をした虚無は、間違いなくその脚
 を絡め取るだろうに。
  苦く思いながらも、それに関わるまいと地面を掻いていると、焦れたように声が近づいてくる。

 「おい。無視すんじゃねぇよ。それとも本当に死にかかってんのか?」

  あまりにも無防備に近づく気配は、いつもとあまりにも変わりない。触れられたら、そのまま灰
 になると分からないのか。

 「返事くらいしろよ、てめぇ。」

  顔を近づけてきて、覗き込むような素振りをする。そんな事されても、今は鬱陶しいだけだ。誰
 にも構って欲しくない。このまま闇の中に沈んでしまいたい。
  それでもサンダウンの顔を無理やり掴んで、自分の方向を向かせようとする白い手に、サンダウ
 ンははっきりと苛立ちを感じた。
  咄嗟に、自分の髭をなぞる繊細な手に比べると無骨で優美さの欠片もない己の手を動かし、手と
 同じくらいに優美に伸びた首筋に太い指を掛ける。そして、そのままの勢いで一気に力を込めた。
  その動作に、黒い大きな眼が見開かれた。
  が、口元にみるみるうちに笑みが広がる。

 「おいおい、遂に、俺を殺す気になったってのか?」

  相当の力を込めているはずなのに、まだ喋る。灰にも塵にもなる気配を見せない身体に、サンダ
 ウンはますます手に力を込めた。
  サンダウンは、このまま闇に沈みたいのだ。そこから揺り起こそうとする口など、脆く崩れ去っ
 てしまえば良い。
  だが、無駄に形の整った唇は、笑みを絶やさない。声は流石に少し掠れているようだけれど、そ
 こからも、笑みは消えていない。

 「でもなぁ?俺は絞殺されるよりも、あんたの腰についてるもんで逝きたいんだけどよ?」

  ゆっくりとした手つきで、繊細な手がサンダウンの腰を撫でる。
  サンダウンの手がこのまま力を緩めなければ、塵や灰にならなくとも、少なくとも死を迎えるは
 ずだというのに、随分と余裕だ。
  死ぬ気配をまるで見せない男に、サンダウンは舌打ちしてそのまま地面に打ち付け、手を放した。
  瞬間、ようやく微かな呻き声が聞こえて、少しばかり溜飲が下がる。小さく噎せるような音も、
 サンダウンを満足させた。何よりも、滑らかな首筋に首輪のように赤く残る自分の指の痕が何より
 もサンダウンの腹の大穴を満たした。
  しかし、サンダウンが満足するのとは裏腹に、地面に叩き付けられた男は舌打ちしている。

    「てめぇ随分な反応じゃねぇか。殺しにかかると思ったらそれかよ、ああ?大体、首絞めなんか面
  倒な方法よりも、さっさと腰についてるもん抜けよ。」

  地面に叩き付けられた時に唇でも切ったのか、唾と一緒に血を吐き出している。唾液の中の一筋
 の赤が閃いて、サンダウンは闇の縁で密かに興奮した。
  安寧の死の闇に、すっと赤い刃が切り込んできたようだ。
  死の匂いが古びた本のような静けさを保っているというのなら、生の匂いはたった今まで沸騰し
 ていた血液の匂いをしている。
  柘榴のように赤い舌が切れたらしい唇を軽く舐めている。
  顎を無理やり掴んで、その舌を押しのけて滲んでいる血に親指で触れてみる。舌も酷く熱かった
 が、流れる血は溶岩のように泡立っている。
  触れても灰にならない。その理由が分かったような気がした。

 「さっきから、なんなんだ、あんたは。放浪のしすぎで遂にぼけたか、おっさん。」

  黒い眼が間近で顰められた。痛かったのだろうか。しかしサンダウンにそれを気に留める理由は
 ない。それよりも、声を上げる度に呼気が指に当たって、その熱さで指が解けそうだ。
  このまま、その血とそれを吐き出す身体に触れていたら、こちらも同じように溶岩の塊にでもな
 ってしまうのではないだろうか。
  黄金などではなく、外見はごつごつした、しかし内々に煮え滾る硫黄の波を巡らせた岩に。

 「キッド?」

  首筋に残る赤い締め痕の事など咎めもせずに、サンダウンに怪訝そうに問いかける。そこから、
 煙が吹き出し、塩の柱と化す事もないようだ。勿論、灰にもならず、塵となって崩れもしない。
  代わりにサンダウンの手がその血で満たされ、砂ばかりを噛んでいた指に血の気が戻る。
  自分でもその様が分かり、サンダウンは同時に、あれほどまでに食指を広げていた腹の底にいる
 絶望が縮んでいったのを理解する。
  黄金に変えられていた薔薇がただの川の水で元に戻ったように。サンダウンが生み出したはずの
 塵と灰はすっかりと消え去って、後には荒野が日差しを浴びているだけだ。
  くるりと辺りを見回して、サンダウンは周囲の風景がやはりいつも通りである事を確認する。
  風が雲を押し流し、砂が旋毛に乗って、遠くで鳥が鳴いている。
  しかし、それらに対して先程のような諦観の念は感じなかった。代わりに、そろそろ食糧を買い
 足しに街を捜そうかと考える。しかしその前に、相変わらず決闘を申し込んでくる、目の前の賞金
 稼ぎの相手をしてやるべきか。
  そう思いながら、砂を払って立ち上がり、まだサンダウンの顔を覗き込もうとしたままの姿で座
 り込んでいるマッドを見下ろした。
  黄金をただの薔薇に戻した男は、サンダウンがいつも通りに立ち上がったのを見て、怪訝な顔を
 するだけだった。