死なせたくない奴なんだ 





 吐く息が白い。
 けれど、その白さも妙にくすんで見えた。
 光射さぬ空と、雪に閉じ込められた世界で寒気を感じ、アキラはぶるりと身を震わせる。
 それは、何も肌が感じる寒さの所為だけではないだろう。

 ルクレチア。

 それが、この地の名前であると知ったのは、僅か数時間前の事だ。
 ちびっこハウスで眼を覚まし、無法松の後を継いでタイ焼き屋として働く。
 そんな普通どおりの生活をするはずが、突然謎の声に呼ばれて、この雪の降り積もる地に落とされた。
 何も分からぬまま、人の気配のない殺伐とした世界を歩き渡り、そして己の心を映すかのような迷宮を彷徨った。
 そこで、聞いた、呪詛。
 この地で暮らした人々の怨嗟にも似た悲鳴が、悲劇を騙る。
 思い出すだけでも全身が総毛立つような人の心に、アキラは再び身を震わせた。

 この寒気は、雪の所為だけじゃない。
 
 人の心により生み出された、あまりにも呆気なさすぎる命の転落と悲劇が、この地を一層寒々しいものにしており、
 更に視界をくすんだものにしている。

 ―――ああ、帰りてぇよ。

 こんな色のない冷たい世界ではなく、妹やちびっこハウスにいる、自分に『お帰り』と言ってくれる者達のいる世界に、
 一刻でも早く帰りたい。
 あの世界は、愛おしい心がまだまだ沢山ある所為か、とても色づいて感じられる。
 こんな、人の心が歪んで色褪せてしまった世界とは違う。
 色のない心ばかりを感じているアキラは、酷く憔悴していた。

「大丈夫かい?」

 休憩と称して地面に座り込んだアキラに、頭上から声が掛かる。
 見上げれば、茶色のおさげを首に巻き付けた少女が、微かに表情を曇らせた顔で覗きこんでいる。 
 そんなに自分の様子はおかしかったのかと情けなくもなったが、同時に彼女の純粋な心がすっと沁み込み、
 沈み込んでいた気分がふっと浮上した。
 彼女の、生きている者の心は、良い。
 胸の内に、大切な何かを持っているなら、それは尚更だ。
 彼女の―――レイの場合、それは強い志と柔らかい温もりでアキラに伝わってくる。

「この辺りは敵もいないみたいだし、もうしばらく休憩してもいいかもね。」

 少しぶっきらぼうだが、その言葉の裏にある幾つかの影が、彼女の内にある密やかな悲しみと確かな労わりを届ける。
 レイの心を無理やり暴かずとも、それがレイの根幹である事は良く分かる。
 故に、アキラの中にある故郷と同じように彼女の心はしっかりと色づいており、彼女が戻るべき場所もきっと鮮やかだろう。
 
 レイだけではない。
 此処に集った者達は、しっかりと色づいた世界を持っている。
 それは彼らの心の形そのものを表している。
 彼らの心が鮮やかでなければ、そこから垣間見える世界が鮮やかであるはずがないのだ。
 そしてその世界を形作る人の心が美しいからこそ、彼らの心もまた強くあるのだ。
 
 皆、それを守りたいのだ。
 アキラが、最愛の人達を守りたいように。

 ぐっと拳を握りしめ、決意を新たに立ち上がろうとしたアキラの肩を、レイの手が押し留めた。
 残念な事に―――実に残念な事に、アキラよりもレイのほうが力が強いため、アキラは立ち上がる事さえ出来なかった。

「まだ休んでな。」
「もう大丈夫だ。」
「嘘吐くんじゃないよ。」

 額を小突かれた。
 歳はそう変わらないはずなのに、無茶苦茶子供扱いされている。
 拗ねた顔をしたのだろうか、レイが小さく溜め息を吐いた。

「別に、疲れてんのはアンタだけじゃない。アタシだって疲れてんだよ。他の皆だってそうさ。
 ポゴと日勝は元気そうだけど、あいつらは多分、疲れてる事にも気づいてないんじゃないかね。」
 
 呆れたように吐かれた台詞に、アキラは遠くに見える件の二人を見る。
 悪く言えば馬鹿だが、歪さを持たない二つの心は、この世界にあっても弾け飛んでいる。
 アキラの視線を辿り、同じようにポゴと日勝を見たレイは、今晩は二人とも爆睡だねと苦笑気味に言った。
 その言葉に、あいつらはいつだって爆睡じゃねぇかと返すと、それもそうだと彼女は笑った。
 
「けど、みんなが疲れてんのは本当だと思うよ。」

 あの、死んだ人間の、声を、受けて。
 恨み、憎しみ、悲しみ、罵り。
 ありとあらゆる人間の負の感情。
 それを聞いて、気が沈まない者など、いるものか。

「だから、少し休もう。」

 愛しい人の、守りたい人の心が、この心に再び色を付けてくれるまで。

「ってサンダウンが提案したんだ。」
「え?」

 絵具が広がるように心が鮮やかさを取り戻そうとしていたアキラは、思考を一瞬止めた。
 
 止まった頭の回転を、乾いた砂塵が吹き荒んだ気がした。
 
 乾いた世界。

 アキラがサンダウンから感じる心は、その一言に尽きている。
 この世界ほどではないが、彼の世界も、同じようにどこかくすんだ気配を放っている。
 長い月日を経ているからこその乾きなのか、それとも彼の人生そのものを表しているのか、アキラには測りかねる。
 時折、死の匂いさえも届けそうな風が吹く世界を持つ男が、この世界の負に折れそうな自分達に気付いた事が、アキラには意外だ。
 それとも、最年長者だからこその気遣いか。

「あのおっさんには…………。」
     
 アキラが零しかけた言葉に、レイは怪訝そうな顔を向ける。
 だが、言いかけた言葉を閉じ、アキラは首を横に振る。
 
 ―――サンダウンには、この色を失った世界に奪われた、自分の心の色を再度塗り直してくれるような世界はあるのか。
 
 そんな事を言ったところでレイには通じないだろう。
 いや、通じるかもしれない。
 しかし、通じたところでレイにも答えられるはずがない。
 有り得ない、束の間の邂逅で出会った者の事情を抱え込めるほど、アキラもレイも大人ではない。
 
 アキラは眼を伏せ、乾いた風に攫われそうになった、妹の残像を追いかける。

 ―――帰るんだ。

 サンダウンがいた世界の事など、アキラには関係ない。
 アキラは、自分にとっての希望が光る世界のために戦い、帰る。
 他の世界の為に戦う事など出来ないし、そこに住まう人々の心の色を変える事など尚更出来ない。 
 だから、サンダウンの世界が、人が、どれだけ乾き切っていたとしても、そこがサンダウンの居場所ならば、アキラにはどうする事もできない。
 むしろアキラよりもサンダウンのほうが、どうすればいいか知っているだろう。
 アキラが口出しできる事ではない。
 
 ―――でも。

 戻るべき世界に、希望がないというのはどういう気分なのだろう。
 潤い一つない砂を飲み込んだような気がして、アキラは顔を顰めた。




「………私は、自分のいた世界に戻りたいだけだ!」

 憎しみに塗り潰された部屋で、憎しみに染まるしかなかった勇者を前にして、砂混じりの風を心に抱く男が叫んだ。
 オルステッドの心を映したかのようなくすんだ世界と、同じくらいくすんだ世界を持つサンダウンの声が示したのは、心の底からの望郷だった。
 それと同時に、アキラが感じたのは、サンダウンの世界が爆ぜて噴き上がる様だ。

 乾いた世界。
 それが一瞬で目まぐるしく変化する。
 地平を染める夕映え、満天の星と中心で輝く月、朝靄に覆われた白い砂地、何もかもを押し流すような豪雨。
 
 ああ、あんたの世界は、こんなにも鮮やかだったのか。

 押し込められていた心は、アキラが今まで見た事もないような色で装飾されていて。
 そしてそれらの色が一つに凝縮され、真っ白な光が弾ける。

 荒れ狂うような、凶暴な閃光。

 その中心にある人影だけが、突き抜けるように黒い。
 背に、サンダウンが愛おしいと思っている世界を、降りかかるように従えている。
 心臓の裏側に直接触れたかのような熱が、満ちていく。
 くすんだ世界――サンダウンの世界だけでなく、悲しみに満ちたルクレチアにまでその熱と閃光は侵食し、アキラは視界が晴れたような気がした。

 その世界の中心で、皮肉げに、しかし穏やかな眼差しで、笑っている。 

 ―――なんだ。
 
 一瞬捉えたサンダウンの心の中心を見て、こんな時だというのにアキラは笑いたくなった。
 見えたのは、本当に僅かの間。
 けれども、この世界のどこにもくすみは見えないし、あの芯から震えるような寒気も取り払われている。

 ―――そんな、出し惜しみする事ねぇじゃんか。

 アキラが心配するほどに、乾いた風で見えないようにして、心の内を隠してまで守られていた、サンダウンの最愛の世界。
 まるで、誰かに奪われる事を恐れるかのように、ひた隠しにされてきた、その鮮やかさ。

 その、中心が。

 ―――あんた、それは守りたいとか失いたくないって言うよりも。

 他の誰の手にも、殺させない――――。

 その、想いは。
 
 ―――独占欲じゃねぇかよ。

 最年長者の、らしくもない子供じみた、けれども懇願とも言える想いに、アキラは微笑ましさと、一抹の痛ましさを感じた。








    You never die. After all, I don't allow you to do so