昔、マッドがまだこの名前を名乗っていなかった頃、一枚の絵画を見た事がある。
  何処で見たのかは良く覚えていない。
  それなりに有名な画家の絵だったから、おそらく美術館か博物館でみたのだろう。
  もしかしたら、いつだったか行った、本国で見たのかもしれない。
  裸婦を描いた絵画は非常に多いが、その中でもその絵がやたらと眼に着いたのは、その背景とな
 る神話を知っていたからだろう。
  金の雨が降り注ぐ中であどけない表情を見せる女性は、しかし神話の内容を鑑みれば、金の雨が
 暗に何を示されているのかは明白だった。
  それをわざわざ膝の間へと描く辺り、画家の思惑は、紛れもなく神話を卑俗なもの――いやそ
 もそも神話とはそういうものなのかもしれない――へと昇華させる事にあったのだろう。
  神話を知っている上、画家の思惑まで読み取ってしまえば、それは官能的な絵に感じられて、マ
 ッドは苦笑いした事を覚えている。




 DANAE





  利害の一致だ。
  マッドは閉じ込められた安宿の一室で、ぼんやりとそう思った。
  賞金首と賞金稼ぎである以上、慣れ合うつもりはない。しかしどんな聖人君子であっても、男で
 ある以上欲は溜まっていく。 
  女の数が少ない西部で、しかも何もない荒野では、同性をそういった対象で見る輩も多い。
  尤も、マッドはまさか自分がその輩の一人になるとは思いもしなかったが。しかも、組み敷かれ
 る側の人間で。

 しかも、相手は――――

  金髪というにはやや灰色がかった髪が、肌に降りかかる。抱き締められる時にいつも感じるのは、
 男の髪と、それと同じ色をした髭の感触だ。自分の肌の上にぶちまけられるそれらが、やたらと官
 能的で、マッドは小さく息を零した。
  賞金首とか賞金稼ぎだとか、そんな理由は、生物の根本的な欲求の前にあっさりと崩れた。
 互いに、背徳的だとかそんな事を思うほど心の綺麗な人間ではない。
  先程まで自分を思う存分貪っていた男の一番微かな感触が、未だに自分の肌に貼り付いている。
  抱き締められると、サンダウンの金髪はマッドの額や頬や首筋にかかり、そのくすぐったさにマ
 ッドは身を捩った。ちくちくと当たるそれらは、何も知らない幼い子供だったなら、穏やかなもの
 だと思うのかもしれない。だが、意図してなぞる指の後を追っていく様子を知っているマッドにし
 てみれば、即物的な官能に満ちている。
  サンダウンの髪や髭が自分の肌を辿っていくのを見て、マッドがいつも思うのは、あの一枚の絵
 画<だった。

  あどけない少女に降り注ぐ金の雨。
  父親に男を知らぬようにと閉じ込められ、しかし神の眼を奪った少女。
  その少女に降り注ぐ、神が変じた金の雨。

  別に、自分をあの絵の中の少女に見立てるつもりなど、毛頭ない。
  確かにあの絵の中の意図するところを、確実に眼の前の男と致してしまっているわけだが、あの
 少女のように別に純真無垢というわけでもない。
  まあ確かに男に組み敷かれたのはサンダウンが初めてであるわけなのだが、それ以前に女性経験
 はそこらの男よりも多いわけで。
  無垢な少女が何も知らずに好色な神を受け入れていたなどという絵が、自分に当て嵌まるわけが
 ないのだ。
  それでも、金というにはくすんでいる砂色の髪が肌をなぞっているのを感じると、あの絵の事を
 思い出してしまう。
  男の金の髪を受け止めて、受け入れて、されている事は、多分同じ。
  だが、そうではなくて。

 「あんた、さあ………。」

  マッドはごろりと寝返りを打って、サンダウンに尋ねた。
  金の髪と青い眼がこちらを見た事に、ぶるりと身体を震わせる。
  喜悦でどうにかなりそうな身体を宥め、うっとりとした声で訊く。

 「ダナエって女………知ってるか?」

  少女は金色の雨を受け入れて、最終的には己を閉じ込めていた父親から解放される。
  あの少女に似ているのは、この荒野に抱かれる前の、自分だ。
  南北戦争が終わったばかりの、治安の悪い街の中で誰にも襲われぬようにと、厳重に鍵を掛けら
 れた部屋の中で曇った日差しを浴びていた自分。
  聞こえるのは今にも獣へと瓦解しそうな英雄達の声と、母親の嘆きの声と、それを聞かないよう
 にと奏でられるピアノの音ばかり。
  永遠に続くかと思われる閉鎖的な時間の中で、何処からともなく迷い込んできた風の噂は、西か
 ら届いたもの。
  自由に広がる空と砂と、そこで、銃の腕だけで西部のならず者達を制した男と。
  幼い少年が、心を奪われたって仕方がない。
  大きく誇張されたであろう噂話は、それでも確かに、履き違えた愛情に閉じ込められた少年にと
 っては、金の雨だったのだ。

  ――あんたは、知らないだろうけど。

  美しい調度品や都会の便利な暮らしを捨ててでも、この荒野に来たかった。
  どれだけ、この場所で自分が異質な存在であっても、何処までも続く青い空と荒れた大地で、生
 きていたいのだ。
  そして、でも、でも。

  ――俺だって、こんな事になるだなんて思ってなかった。

 「マッド………?」

  乾いた大地と同じ色の金の髪が降りかかる。
  見上げだ先にあるのは、求めてやまなかった青い空をそのまま映しこんだような眼だ。

  ――ああ、ちくしょう。

  少女が自分を犯した神を愛しただとかそんな話は聞かない。だが、自分は、荒野を切り取って作
 られたかのようなこの男に、どうしようもなく心奪われている。利害の一致なんて関係でさえ、特
 別なものに成り上がる。
  そんな事、この男には決して言わないけれど。

  白く霞んだ部屋で曇った光を見上げていたあの日から、遠く西の大地にいる保安官の話を聞いた
 あの日から、ずっと金の雨が降り続いているのだ。




 「ダナエって女………知ってるか?」

  夜の光を追い掛けていた視線を自分へと向けたマッドの台詞に、サンダウンは眉根を寄せた。
  彼が溜め息のように吐き出した言葉は、辛うじて女の名前である事が分かったが、サンダウンに
 は知らぬ名前であった。
  突然に出た女の名前に、情事の後の空気が震えた様な気がして、サンダウンは微かに不機嫌さを
 伝えたのだが、マッドは気付かぬようだった。
  いや、気付いたから、わざわざ説明を始めたのかもしれない。

 「絵の、モデルだよ。」

  ほんの少し身を起こしたマッドは、何か暇を潰すような物に手を伸ばすのかと思ったが、シーツ
 の中で居心地の良さそうな場所を探すと再び身を横たえた。
  このけだるい空気の中、手持ち無沙汰なのか沈黙に耐えきれないのか知らないが、煙草や葉巻に
 手をつける商売女は大勢いる。
  だが、マッドはどれだけ会話が途切れようと、ベッドの中では葉巻も煙草も採らない。
  灰がシーツの上に散らばるのが嫌なのだと気付いた時は、おかしなところで几帳面だと思ったも
 のだ。
  いつものようにサイドテーブルに投げ出した葉巻には手をつけずに寝転がったマッドは、、ふっ
 と息を吐いた。

 「父親に、男と出会わないように牢屋の中に閉じ込められた、女さ。」
 「何処の、話だ。」

  そんな事件があったのか。
  そう訊くと、返ってきたのは小さな笑いだった。

 「神話だよ。メドゥーサを殺した英雄なら、あんたも知ってるんじゃねぇか?その英雄の母親さ。」

  大神ゼウスに愛され、金の雨に姿を変えたゼウスを受け入れて英雄を産んだ女。
  そう告げるマッドの声は、常よりも柔らかな訛りが滲んでいる。
  その声音をする時、大抵マッドはこの荒野とは異なる場所を見ている。
  それが時折、妙にサンダウンを腹立たしくさせる。

  乾いた大地を思う様に駆け巡り、果てまでサンダウンを追いかける癖に、サンダウンがその距離
 を詰めればサンダウンが知らぬ世界の事を話す。
  先程までの湿っぽさは何処にもなく、うっとりと語る顔は西部にはあるまじき繊細さを浮かべて
 いる。
  なのに、自分自身の事は一欠片も話さないのだ。
  離れていれば強烈にその色を見せる癖に、近付いた途端酷く曖昧な光を浮かべる男を、苛立ち半
 ばに再び腕の中に引き込んだ。
  すると、今にも夜の中に霧散しそうだったマッドの呼吸が、くっと詰まる。
  驚いたらしいマッドの様子に幾分か機嫌を良くし、サンダウンは閉じ込めた熱にひたりと皮膚を
 合わせ、その熱だけはどうあっても変わらない事に安堵する。

  嘘か本当かも分からない遠い神話の話など聞きたくもない。
  サンダウンの知らない顔をするのならば、尚更。

  サンダウンを覆い尽くすどす黒い絶望を叩き壊して、世界の欠片をぶちまける男に、知らない世
 界の住人の顔などして欲しくない。

  抱きかかえた身体から、熱が惜しみなく降り注ぐ。
  絶望を突き破るそれに、サンダウンは満足して口付けた。