マッドは、一人小屋の中でぽつんと座っていた。
  きゅっと口を真一文字に結んで、むっつりと押し黙っている。今、もしも口を開けば、間違いな
 く、嗚咽――ではなく、物凄い勢いで罵声が出てくるだろう。それは、他ならぬマッドが一番良く
 分かっていた。
  けれども一人きりでいる小屋の中で、罵声を吐いても無意味で虚しいだけだ。聞かせる相手のな
 い言葉ほど、無駄なものはない。
  しかしそれでも、腹の中では盛大に怒声と罵声が繰り返されている。
  あのおっさん!あのヒゲ!あの茶色!
  人間を示す言葉から段々と離れていく罵詈雑言で罵られている相手は、けれども間違いなく人間
 だ。そのはずだ。多分。多少、人間離れしたところがある事は否めないが、しかし確かに人間だ。
 多分。
  その、多分人間である茶色でヒゲのおっさんは、マッドに罵られる事が分かっているのかいない
 のか、現在マッドの眼の前には現れていない。




  Fish Chowder





  ちくしょう、あのヒゲ!
  マッドの心の中で、また罵声が鳴り響いた。一向に現れる気配のない賞金首に、賞金稼ぎが罵声
 をぶつけるのは、おかしな話ではない。ただ、それが荒野のど真ん中や、賞金首が現れそうな酒場
 などなら兎も角、マッドがいるのは一軒の小奇麗な小屋の中だ。勿論、その小屋が賞金首の塒だと
 言うのなら、問題はない。そして確かに塒として使用された形跡がある――というかマッドは賞金
 首が塒として使用している事を知っている。
  ただ、問題は、小屋の中で賞金首の到来を待っているマッドの前に、深皿が置いてある事だ。し
 かも、一杯に具沢山のスープが入っている。
  深皿は確かに、主にスープを入れる為に使用される。だから、具沢山のスープが入っていても問
 題はない。
  が、そのスープはマッドが賞金首に食わせてやるために作ったものである、という時点で何かが
 おかしい。むしろ、大問題だ。
  しかし、マッド自身はそんな問題から意図的に眼を逸らしているのか、あのおっさん!と心の中
 で罵声を吐いているのだ。この俺がせっかくスープを作ってやったのに来ないのはどういう了見だ!
 と。
  要するにマッドは、自分の作ったスープを食べに賞金首が現れない事に怒っているのである。
  冷静に考えれば、賞金首が賞金稼ぎの作った料理など、恐ろしくて手も出さないのが普通だ。そ
 ういう意味では、マッドの考えは非常におかしいのだ。周囲から冷めた目で見つめられてもおかし
 くない。
  しかし、マッドのおかしさを一番に冷静におかしいと言い切れるはずの賞金首その人が、全く何
 の躊躇いも無くマッドの作った料理を食べる人間である事が、マッドのおかしさを正す機会を捻り
 潰している。
  いや、むしろ、この賞金首のほうが、マッドに料理を強請っているきらいがある。放浪して栄養
 が偏るに偏った賞金首は、マッドの作る栄養バランスのとれた食事に眼を付けたのか、賞金首が賞
 金稼ぎにへばり付き、食事を強請るという暴挙に及んだのである。それを跳ね除けなかったマッド
 もマッドだが、そこは賞金首が鬱陶しくへばり付いたという事もあってか、結局、今に至るまで食
 事を作り続けている。
  そして、今宵。
  マッドはとある市場で白身魚を手に入れた。つやつやとした鱗の綺麗な魚だった。それを擦りお
 ろし、クリームと野菜を入れて煮込んだのだ。そうして出来上がったフィッシュチャウダーは、そ
 こに置いておくだけで食欲をそそる匂いが充満し、その匂いに釣られて賞金首がやって来ると思っ
 たのだが。
  来ない。
  チャウダーの表面に薄い膜が張っても来ない。白く立ち昇っていた湯気が掻き消えても来ない。
 チャウダーを入れていた深皿の表面が冷たくなっても来ない。
  すっかり冷めてしまったチャウダーを睨みつけ、マッドは、なんであのおっさんは来ねぇんだ!
 と罵っているのだ。
  普段は、どうでも良い時に来る癖に。マッドが忙しい時――例えば掃除の時とか――に狙ったよ
 うに来て、邪魔をする癖に!
  大体、あのおっさん、なんの役にも立たないのだ。掃除もしなければ風呂だって沸かさない。ソ
 ファの上でゴロゴロして、食事だけは一人前に強請って漁る。要するに、残り物の処理ぐらいにし
 か役に立たない。だが、今、その残飯処理係としての能力でさえ疑問が湧いてくる。食事と酒の匂
 いにだけは敏感だと思っていたのに。残飯処理能力機能が失われたサンダウンなど、ただの穀潰し
 でしかない。酒を勝手に飲み干す機能しかないなど、天使の分け前ならぬ悪魔のぼったくりではな
 いか。
  ひんやりとしたスープを見下ろし、マッドはふるふると肩を震わせる。
  そもそも、今回のチャウダーは、あのおっさんが白身魚を食べたいとかぬかしたから、作ってや
 ったのだ。わざわざ。それなのに、肝心な時にいないとはどういう事だ。繰り返しになるが、普段
 はどうでも良い時にいる癖に。役立たずな上に、空気も読めないのか。それとも空気を読めないか
 ら役立たずなのか。いや、この際、どちらが先でもどうでも良い。どっちが先であろうと、あのヒ
 ゲが役立たずで穀潰しで、且つ残飯処理能力も衰えたという事実だけは揺るぎようがない。
  役立たず!
  冷え切ったスープを睨みつけるマッドの表情は、さながら、夕飯を作ったのに帰ってこない夫を
 何時間も待つ妻の様相に、見えなくもない。
  そして、しおしおとテーブルに突っ伏す。
  頬は、ぷくんと膨れたままだ。その状態のまま、あと一時間待って帰ってこなかったら、ディオ
 の飼葉桶の中に全部入れてしまおうと考えた。そうやって、あと一時間と言いながら、既に五時間
 経過している事は、誰も知らない。




  一方、おっさんでヒゲで茶色い賞金首サンダウン・キッドはと言えば。
  実は既にマッドのいる小屋に到達していた。なんとなくマッドが小屋にいるような気がするとい
 う、非常に役に立たない予知能力を発揮したおっさんは、いそいそと小屋にやって来て、当初の予
 想通り、厩に眼付きの悪い黒馬がいるのを発見した。そこで、自分の馬もその隣に括りつけ、いそ
 いそと小屋の中に入ろうとした。
  が。
  此処で予期せぬ妨害にあったのである。
  厩から出ようと一歩踏み出した時、何かがポンチョを掴んだ。振り返ると、眼付きの悪い馬が、
 その色からして飼葉と間違えたのか、サンダウンのポンチョを食んでいる。いくら引っ張っても、
 離れようとしない。
  食い意地が張っているだけなのか、それともそれ以外に意味があるのか。
  しかしサンダウンにはそれは今はどうでも良い事だ。何せ小屋の中ではマッドは自分を待ってい
 る、多分。なので、ポンチョに喰い付いて離れようとしない馬になど、構っている暇はないのだ。
  サンダウンは、さっさとポンチョを脱ぎ捨て、中身だけになっていそいそと厩から出ようとする。
  が。
  再び引っ張られた。振り返れば、今度は眼付きの悪い馬がシャツを食んでいる。そして眼が合う
 と、眼付きの悪い馬は、どや顔で鼻を鳴らした。
  明らかに、意図してサンダウンに対して妨害行為を行っている。
  勿論、サンダウンにはそんなものに関わる気は一切ない。だから、シャツを脱ぎ捨てようとした。
 すると、今度はベルトに噛みついてくる。ベルトに手を掛ければズボンに。
  完全に、邪魔をする気だ、この馬。
  一瞬、撃ち抜いて馬刺しにしてやるという選択肢が、サンダウンの脳裏に思い浮かんだが、しか
 しそれをして後でマッドに怒られるのは自分である。新しい馬買って貰うならな!と強請られるの
 は別に構わないが、強請られる前に怒られるのは眼に見えているし、この眼付きの悪い馬の所為で
 怒られるのは面白くない。
  となると、選択肢など、一つしか残っていなかった。




  うー、と唸りながら、マッドは冷めきったチャウダーを鍋にいったん戻す。一度温め直して、も
 う一度深皿に入れようという魂胆だった。
  もはやあのヒゲは此処には来ないのかもしれない、と思いつつ、チャウダーを温めながら、鍋底
 が焦げ付かないようにお玉で鍋の中を掻き混ぜる。このまま沸騰させ続けて蒸発させてやろうか、
 と考え始めた時だった。
  扉が開く音と共に、ひんやりとした風が吹き込んでくる。それと同時に、乾いた気配が。
  サンダウン・キッドだ。
  そちらを見るでもなく、分かる。
  けれども待たされ続けたマッドは、顔を睨みつけて何か言ってやらなくては気が済まない。だか
 ら、鍋から顔を上げて口を開いた。
  そして。
  一瞬、凍り付いて、眼が点になった。
  そこにいたのは、違える事なくサンダウン・キッドだった。
  ただし、全裸の

 「きゃああああ!」

  女子供並に高い声を上げて、手にしていたお玉をサンダウンに投げつけてしまった。が、それは
 サンダウンの顔面にぶつかる一歩手前でサンダウンに受け止められる。

 「……いきなり何をする。」

  お玉を受け止めたサンダウンは、いつも通りの低い声だ。ただし全裸だ。

 「そりゃこっちの台詞だ!あんたこそ何のつもりだ!あれか!あんたの犯罪歴はやっぱり猥褻物陳
  列罪とか痴漢とか覗きとか下着泥棒とか、そういった公共風俗に反する事か!それで五千ドルま
  で賞金吊り上げたんか!」
 「訳の分からない事を言うな。」
 「訳が分からねぇのはこっちだ!」

  マッドの怒鳴り声に対して、サンダウンは至って冷静だ。ただし全裸で。
  やれやれと肩を竦め、平然と全裸でテーブルに着いた賞金首は、淡々と全裸で説明する。

 「お前の馬が私の服に噛みついて此処に来るのを邪魔をするから、服を脱いで来ただけだ。」
 「そんな説明どうでも良いから、さっさと服着ろ!」
 「訳が分からないと言うから説明しただけだ。大体、お前の馬の所為だろう。」
 「アホか!服脱ぐより他に方法があるだろうが!だから服着ろ、服!」
 「撃ち落としたらお前は怒るだろう。」
 「なんでその選択肢しか思い浮かばねぇんだ、あんたは!とにかく服着ろって!」

  何故か一向に服を着る気配のないおっさん。
  それどころか、

 「私はお前に逢う為に、こんな格好をしてまで此処に来たんだが。それに対する仕打ちがこれか。」

  とまでほざき始めた。
  見たくもないおっさんの全裸を見せつけられた――しかも現在進行中――マッドは、一体どうす
 れば。
  大体、マッドはサンダウンに待たされていたのであり、サンダウンはどんな事情があったにせよ、
 マッドに謝る側ではないのか。

 「あんたこそ、俺が飯作って待ってたってのに全裸で現れやがって!スープ温め直す手間考えやが
  れ!」

  が、そう詰るマッドに対して、サンダウンの背後が薄っすらとピンクがかったような気がした。

 「ほう……。」

  嫌な予感がした。その、気持ち悪いピンク色の気配に。

 「待っていたのか……。」

    何故、その言葉だけ抜き出して、喜ぶのか。普通、謝るところじゃないのか、それは。だが、マ
 ッドが待っていたという事実だけを抜き出しているサンダウンには、そんな言葉は聞き入れられな
 い。というか、じりじりとマッドに近寄り始めている。
  しかも、サンダウンは全裸だ。明らかに、マッドの身に危険が迫っている。
  じりじりとサンダウンとの距離を測りながら、マッドは念の為に付け足しておく。

 「スープはもうあったまってるし、酒も一本準備してんだけどよ。だから、服着ろ。」
 「……後で良い。」

  駄目だ。酒で止まらない。終わった。
  そう判断したマッドは、くるりと踵を返して、窓から逃げ出そうと走り出した。が、それを予想
 していたのか、サンダウンが長い脚を生かして、マッドを追いかけ、背後から飛びかかって来る。
 全裸で。そして、マッドが窓の枠に脚を掛けたところで、サンダウンの腕がマッドの腰を捕まえて
 引き摺りおろした。
  べったりと背後から全裸のおっさんに抱き付かれる。
  ああ、どう考えても、変態に襲われている状態だ。その状況説明は、一切間違っていないが。
  最後の抵抗で、何とか身を捩ってみるも、とりもちの如くへばり付いたおっさんには敵わない。
 ずりずりと引き摺られていく。
  諦めるという言葉はマッドの中ではまず使われる事のないものだが、この時ばかりはこう思わざ
 るを得なかった。
  終わった。
  最後に鍋を見れば、ほわほわと白い湯気が立っているのが見えた。が、それは再び消え失せるの
 だろうな、と思った。