マッドは、自分の手の中にある物体を見て、思い切り頭を抱えた。
  シックな黒い包装に、光沢のある赤いリボン。自分と同じような装いをしている包みの中からは、
 普段の自分ならば少し顔を背けたくなるような、甘い香りが漂ってきている。葉巻の独特の甘い香
 りではなく、子供が好む、一番甘ったるい匂いだ。
  それが、匂いだけだったなら、まだ、良い。
  けれども、包装の中身はしっかりとした質量を持ち、決して途絶える事なく、甘ったるい匂いを
 醸し続けている。
  これが、単なる貰いものとかだったなら、マッドは即座に適当に始末してしまっていただろう。
 女から貰ったものであろうと、足手まといになるくらいならば切り捨ててきたし、そもそも荒野の
 女達はマッドの好みを良く知っているから、こんな甘ったるい匂いしか発しない物体、贈りつけた
 りしない。
  そう。
  一番の問題は、この甘ったるい物体が手の中にある事ではなく、この甘ったるい物体を手元に引
 き寄せたのが、間違いなく自分だという事だ。




  チョコレート戦争





  自分は、きっと熱があったのだ。
  マッドは、此処最近頗る好調だった自分の体調を棚に上げて、そう思う事にした。そうでもしな
 ければ、自分が何故チョコレートなんていう好きでもない代物に手を出したのか――というか、自
 分で作り上げたのかが、分からない。
  数時間前、わざわざ湯煎して、巨大な苦いチョコレートを溶かしていた自分が、何を考えていた
 のかなど、考えたくもない。
  ただ、生クリームまで用意して作り上げたチョコレートは、初めて作った割には、非常に宜しい
 出来だったのだが。
  しかし、そんな宜しい出来(自分作)のチョコレートを持っていて、何とする。いや、あげる当
 てがあるのなら良い。此処は十九世紀アメリカ西部。ヴァレンタイン・ディにプレゼントを贈り合
 うのは恋人同士であって、男が女に、とか、女が男に、とかは特別決まっていない。だから、マッ
 ドが誰かに贈る為のチョコレートを持っているのは、別におかしい話でもない。そのチョコレート
 が手作りであるのは、ともかく。
  けれども、そこは西部一の賞金稼ぎ。貰う事は数多くあれど、贈る事はほとんどない。いや、ク
 リスマスなどならともかく、かくも自己主張の激しい欧米では、ヴァレンタイン・ディにお歳暮の
 ようにプレゼントを贈るなんて事、まずないのだ。マッドが女から貰ったプレゼントだって、その
 ほとんどが本気のものだろう。叶うと信じているかどうかは別として。
  とにもかくにも問題は、マッドが手にしているチョコレートは、即ち本気で渡す相手がいなけれ
 ばおかしい代物だ。そもそも手作りなんかしたのだから、渡すあてはあるだろう、普通。
  が、マッドは、そんな奴いねぇぞ、と呟いている。心の中で。
  そう、間違っても、あんなおっさんの事、考えて作ったわけではない。
  ――そう思っている時点で考えていると自白しているようなものではあるが。
  けれど、大体、手作りして、綺麗に包装したからと言って――因みに包装もマッドが自分でやっ
 た――それを渡す渡さないは個人の勝手だ。勇気を振り絞って渡すも、渡して玉砕するも、渡さぬ
 まま惨めに散っていくのも、個人の自由。
  が、基本的に漢らしいマッドは、後者二つ――玉砕と惨めに散っていくのは、受け入れられない。
 なんであのおっさん相手に玉砕しなくてはならないのだ、という思いと、渡さないまま惨めに散っ
 ていくなんてみっともない、という、途方もなく負けず嫌いの気を発揮している。
  そうなると、要するに、相手に渡して、且つ見事打ち勝ってみせなくては――何に勝つのかは不
 明だが――ならないという、一つの選択肢しか残らない。
  渡すのは良い。
  問題は、その後――どうやって打ち勝つか、だ。そもそも何が勝利となるのかが、さっぱりわか
 らない。
  あのおっさんが、眼の前でもそもそと食べ始めたら勝ちだろうか。それとも荷物袋に入れれば勝
 ちになるのか。突き返されたら、やはり負けだろう。それならば、渡すだけ渡してさっさと逃げて
 しまえば良いのか。だが、次にその場所を通った時、捨て去られた包みがあったらやっぱり負けだ
 ろう。何が何でも、あのおっさんに受け取って貰わなければ……そうか、よし。あのおっさんが受
 け取ったら、こっちの勝ちとしよう。
  後は、どうやってあのおっさんに受け取らすか、だ。簡単に受け取りそうな気もするし、受け取
 らないような気もする。酒なんかは勝手に持っていく事もあるが、今回はチョコレートだ。あのお
 っさんが、チョコレートが好きかどうかにもよるだろう。牛乳は好きらしいが。でも、拾ったもの
 も結構懐に入れているから、わざわざ包装したチョコレートなら、そのまま懐に忍ばせるかもしれ
 ない。なんでそんなものを渡すかと聞かれたら、女に貰ったけど甘いものは嫌いだからとでも言え
 ばいいだろう。

 「よし、それでいこう。」
 「………何がだ。」

    決意と共にそれを言葉に出した瞬間、背後から低い声が立ち上がった。
  咄嗟に声も出せずに、ただ物凄い勢いで振り返れば、先程から延々と考え続けている、件のおっ
 さんがいた。
  いつもと変わりなく、非常にもさもさとしたおっさんは、いつもの如く青い眼で、じぃっとマッ
 ドを見ている。荒野のど真ん中だというのに、どうやってマッドを見つけ出し、何を考えて近付い
 てきたのかは、全く以て分からないが。
  ぬっと背の高いおっさんは、無言で、じぃっとマッドを見つめる。マッドを頭のてっぺんから―
 ―生憎とマッドよりも背が高いので、旋毛あたりも見えているのかもしれない――爪先まで舐める
 ように見つめてから、きゅっとマッドの手元で視線を止める。そのまま、マッドの手の上に乗って
 いるマッドと同じ色合いの包みを凝視するおっさん。

 「な、なんだよ。」

  おもいもかけぬ凝視にあい、思わず包みを抱き締めて身じろぎする。けれどもおっさんの凝視は
 止まらない。

   「あ、ああ。これが欲しいのかよ。そうだよな、あんたみたいな賞金首のおっさんが、女から何か
  貰えるわけねぇもんな。なんなら、恵んでやっても良いんだぜ。」
 「いらん。」

  意気揚々と考えていた台詞を吐いていると、それをぶった切るようにヒゲが短く告げた。そして
 ようやく凝視を離す。
  その動きに、マッドは慌てた。
  いらん、って、そんな。

    「なんでだよ!味は保証するぜ?」

  なんせこの俺が作ったんだから、とは流石に言わないし、言えない。そんな事口にしたら、あん
 たが本命ですと言っているようなものだ。口が裂けても言えない。
  が、いらないと、おっさんは頑強に言い張る。何故だ。

 「……お前が食べれば良いだろう。」
 「俺は甘いもんは苦手なんだよ!」

  そうだ。マッドは甘いものは苦手だ。そんなマッドが、わざわざ甘ったるいチョコレートを作っ
 たのだ。このおっさんに受け取って貰えなくては、困る。

 「受け取れよ!」
 「いらん。」
 「いいから!」
 「いらん。」
 「遠慮すんな!」
 「いらん。」
 「なんでだよ!」

  普段は平気で何でも懐に仕舞う癖に。よもやこのおっさん、チョコレートが嫌いとかそういうオ
 チか。あれだけ牛乳をがぶ飲みしといて、甘いものは苦手なんて言うつもりか。
  一向に受け取る気配がないおっさんにマッドが苛々してきた時、サンダウンも苛々してきたのか、
 吐き捨てるように言った。

 「何故、お前が他の女から貰ったものを消化せねばならんのだ。」

  そしてぬかしたその台詞。
  お前がそれを言うのか。

 「ああ?俺のお古は嫌だってのかよ!そのわりには俺がやったジャケット大切に持ってんじゃねぇ
  か!」
 「あれは、違うだろう!」
 「何がだ!俺のお古である事に変わりはねえだろうが!」
 「そうじゃない!」

  そうじゃなくて、とサンダウンの手が伸びて、マッドの頭を引き寄せる。そのまま肩口に顔を押
 し付けられて耳元で囁かれる。

 「女がお前に渡したもの、ではなく、お前が私に与えるもの、が、欲しい。」
 「は………。」

  此処で、女から貰ったものを渡しても同じ事だろう、と言うのは野暮だ。それに、マッドもサン
 ダウンが言わんとするところを悟って、そんな事言えない。というか、顔と頭が妙に熱い気がする
 のは何故だ。

 「マッド?」

  真っ赤になっている耳に気付いたサンダウンに、その耳を甘噛みされ、マッドはチョコレートを
 持ったまま、口を開いて固まる。

 「な、なななっ、なー!」
 「どうした?」

  耳を甘噛みしておきながらも平然と問い掛けてくるおっさんが、小憎らしい。その前に、恥じら
 いとかないのか、どうなんだ。
  赤い顔で睨みつけても、おっさんは微動だにしない。むしろ、微かに喜んでいるような気がする
 のは、何故か。マッドの赤い顔の何が嬉しいのか。

 「……しかし、お前と同じ色だな。」

  くいくいとマッドの赤いタイを引っ張りながら、サンダウンはマッドの手の中にある赤いリボン
 付きの包装されたチョコレートを見る。

 「お前が作った物なら、お前の代わりに愛でてやるんだが……。」
 「愛でっ……?!」

  さっきからなんなんだ、このおっさんは。
  マッドがチョコを渡す事だけで必死に色々と考えていたのに。
  何故こんな恥じらいもない言葉を吐き出せるのか。
  マッドが渡したジャケットを懇切丁寧に持っている事やら、先程からの台詞も相まって、色々と
 このおっさんが危険な存在である事が分かってきた。
  今、このおっさんに、手作りのチョコレートなんかを渡したら、色んな意味でマッド自身が危な
 い。貞操とか。
  駄目だ。負けよう。
  とりあえず、今日は負けても良い。多分、マッドの手作りだと言えば、サンダウンはなんだか嬉
 々として受け取りそうな予感――というか確定事項だ――がするが、そんな事を言ったら、ヴァレ
 ンタインには勝利するかもしれないが、別の意味で負ける。大体、マッドの手作りだと分かった時
 点で、眼の前のおっさんはマッドと同じ色合いのそれよりも、マッドを愛でようとするだろう。
  確かに。
  確かに、マッドとてサンダウンを本命であると認識はした。が、チョコレートを渡した瞬間に押
 し倒されて、チョコレートの前に自分が美味しく頂かれるなんていう紳士とは正反対の行為をされ
 たいとは思わない。
  この世には、は順序というものがあるのだ。
  よし、此処は、戦略的撤退を考えよう。言うではないか、良く破るるものは滅びず、と。今日は
 それを目指そう。
  非常に不埒な手つきでマッドのタイを弄りまわしているおっさんから眼を逸らし、マッドは手の
 中の手作りチョコレートは、なかったものとする事にした。