すすり泣く音が聞こえる。主を失って灯りの消えた酒場の隅っこで、若い女が蹲って泣いている。
兄と、雇い主と、両方をいっぺんに失ったアニーは、『前』のような勝気さを何処にも纏っていなか
った。そういえば、とマッドは思い出す。こいつの家族は兄だけだ、そう考えると雇い主だった酒場
のマスターも家族のようなものに近かったのかもしれない。
 こういう連中は、大勢見てきた。
 アニーのすぐ傍で、慰めの言葉をかけるでもなく、マッドは葉巻をくゆらせる。喪失を嘆く連中に、
浅はかな慰めの言葉は不要だ。その喪失が理不尽で唐突で、怒りを向ける相手がいるならば猶更。そ
の埋め合わせは、時間か憎しみかがするしかないのだ。

「ねぇ。」

 すすり泣きが途切れ途切れになったかと思えば、掠れた声が零れだす。涙を流し過ぎて、喉が干か
らびているのか。
 マッドは、アニーのその後に続く言葉を知っている。だから、先手を打った。『前』と同じ言葉は、
その声で聞くつもりはない。

「金次第だ。」

 きっぱりと言ってやる。マッドは聖人君子ではない。賞金稼ぎだ。命を金に換える、ならず者と紙
一重の存在だ。ビリー、そのことをちゃんとわかっていれば、こんな事にはならなかったのに。

「五百ドル。あたしとお兄ちゃんで貯めた、それで、それで、あの二人を殺した奴らを、始末してよ。」
「…………足りねぇな。」

 別に、何ドルであってもマッドはクレイジー・バンチを殺すつもりではあった。けれども、五百ド
ルで済む相手ではないことも事実だ。マッドの一言に言葉を失ったアニーに、マッドは葉巻の煙を追
いかけながら呟く。

「……アニー、賞金なんて一人で懸けるもんじゃねぇ。お前と同じだけの熱量を持ってる奴は、他に
もいるはずだ。そいつらと話をして、金を出し合ってやるもんだ。一人で賞金を懸けるなんて、よほ
どの金持ちくらいなもんだ。覚えとくんだな。」

 マッドは立ち上がって酒場を出て行く。アニーはきっと、この後あちこちに声を掛けるだろう。ど
れだけの人間が、アニーの言葉に心を動かすかは分からない。けれども、きっと、ビリーの父親であ
る元保安官は、何かをするだろう。それだけでいいのだ。それで、帳尻合わせはおしまいだ。これ以
上、付き合ってやる義理も謂れもない。
 マッドは話している間中、アニーの顔を見なかった。『今』のアニーの顔は、『前』ほど魅力的で
はないだろう、そう思ったからだ。女が魅力的でない顔をしている時、見ないでいてやるのが優しさ
だ。
 そして、多分、元保安官の顔も見ないだろう。正義側だった彼は、息子を亡くしたことで今や正義
の元からは離れている。もう、マッドの知っている顔はしていない。
 それから、サンダウン。
 クレイジー・バンチの手配書を寄越せと言った時の、あの表情。あの、荒野の化身のようだった男
も、もしかしたらどこかでこんな顔をしていたのだろうか。
 手配書の中のO.ディオの顔だけが『前』と変わらない中、マッドはアニーか元保安官が金を持っ
てくるのを待つ。金を待つのは、ただの帳尻合わせのためだけだ。その意味が分かるのは、誰もいな
い。

「マッド。」

 ホテルのラウンジで足を組んで座っているマッドの前に現れたのは、サンダウンだった。胸に着け
た銀の星が、きらりと瞬いた。

「………クレイジー・バンチを殺すための金を、アニーに要求したらしいな。」
「先に話を持ち出したのは、向こうだ。……あいつ、あちこちで話しまわってるか。」

 頷くサンダウンに、まあそうだろうな、とマッドも頷く。酒場の従業員だけではなく、町中に話し
て貰わないと、元保安官の耳にまで届かない。

「………手配書の金だけでは足りんか。」

 サンダウンの声には少しばかり非難の色が混ざっている。手配書の金と、依頼人の金とを二重取り
しようとしているからだ。そう珍しい事でもないだろうに。

「……足りる、足りないの問題じゃねぇ。」

 理不尽な喪失に崩れ落ちている人間には酷な話かもしれない。それでも、自分から大切なものを奪
い取っていった輩達の命を奪うために、ただただ誰かがその時を待っているということだけは、させ
たくはなかった。 
 あの二人には、特に。
 もう、『前』とは違うのだとしても。

「安心しろ、あいつらが金を持って来たら、それがどんな金額だろうともう文句は言わねぇよ。」
「………アニーは最初、五百ドルと提示して足りんと言われたと言っていたが、それなら何故その額
で引き受けてやらなかった?」
「あいつらが、他人の命を懸けるのに、どこまで本気か知りたかったからさ。」

 あとは帳尻合わせ。だが、それはサンダウンに言っても仕方がない。
 命を懸けさせる側である保安官であるサンダウンは、マッドの言葉に口を噤んだ。『前』のサンダ
ウンのように自分の命で街の人間まるごとを守る必要がなくなった『今』、彼はマッドの言葉に反論
できないし、同調もできない。
 妙な沈黙が降りた二人の間に割りいるように、ホテルの入口の空気が騒がしくなった。そこそこ格
調高いホテルの中に、場末の酒場の女が入り込んできた――アニーだ。ホテルのフロント係達が慌て
て丁重に追い出しにかかるのを、マッドが止める。

「すまん、俺の連れだ。」

 マッドの言葉に引っ込むホテルマン達。アニーの顔は少し蒼褪めて、豪華なホテルの入り口で立ち
竦んでいる。よもや、マッドがこんなホテルにいるとは思わなかったのだろう。マッドが腕の良い賞
金稼ぎであっても、一流のホテルに泊まる事が出来るとは思っていなかったのだ。或いはそれだけ稼
いでいても、一流の所作は出来ないだろう、と。きっとそれは『前』のアニーもそうだったに違いな
い。
 おかしなところを知られたな、とマッドは喉の奥で笑い――そしてそれはサンダウンにとっても同
じであることを思い出し――アニーに対面の椅子を進める。ビロード
で覆われたソファにおっかなびっくり座ったアニーは、それでも当初の目的を忘れていなかったらし
く、腕の中に抱えた紙袋をマッドに差し出した。

「千ドル。」

 アニーは硬い声でそう告げる。

「ここに、千ドルある。だから、お願い。」

 クレイジー・バンチを、やっつけてよ。
 マッドの耳の奥で、過去の声が囁く。けれどもそれは『今』とは決して重ならない。あの言葉に、
『前』の自分は何と返したか。思い出したが、その言葉は吐かない。手を伸ばし、ずっしりと重い紙
袋を受け取って、

「ああ。」

 ただ、頷いた。