焼き焦がす者




  もともと眠りは浅いほうだ。賞金稼ぎのような命の瀬戸際をうろついている職業をしていると、
 元来のその性質に拍車が掛かる。いつ誰が襲いかかるとも知れない荒野での眠りは、深ければ深い
 ほど命を危険に曝す。
  だから、身体一つで荒野を彷徨うには、獣の眠りを習得している必要があるのだ。
  しかし、ここ数日の眠りは獣のそれよりも遥かに浅い。常に昂ぶっている神経が、訪れる眠りの
 森を拒んでる。研ぎ澄まされた神経は、眠りの縁をうろつくばかりで、風のざわめきにさえ反応し
 てしまう。
  理由は分かっている。
  この、身体に纏わりつくような、気配。直に感じるのではない。まるで、薄い膜で覆われている
 かのように、身体を弄っている。その感触に周囲を見回してみても、気配の持ち主の姿は眼に見え
 ず、結局何の策も講じられぬまま、不眠症の日々だけが積もっていくのだ。




 Sirius






  眠れぬ夜を続けている日々は、マッドから昼間の精彩さを奪った。酒場で食事をしている時にフ
 ォークを握り締めたままうつらうつらする事は序の口で、最近ではディオに跨っている時にまで睡
 魔に襲われ、ずり落ちうになった。
  しかし昼間の睡眠はすべてが断片的で、完全に眠ってしまうという事もない為、結局不眠の解消
 には至らない。
  そして今日、荒野を移動している最中、再び睡魔に襲われ、マッドは本格的にディオの背中から
 落とされた。
  ばすっという音と共に、頬に固い砂が当たってマッドは低く呻いた。しかしそれでも身を起こす
 気になれない。
  むしろ、この砂地でもいいから懐いて、眼を閉じてしまいたい。それが如何に危険な事であるか
 は、承知しているが。
  地面に倒れたまま一向に置き上がる気配のない主人を不審に思ったのか、ディオが近づいてきて
 顔を覗き込む。はむはむと髪を引っ張られたが、それよりも眠気のほうが強い。
  ディオの黒く濡れた眼をぼんやりと見上げながら、駄目だこんな場所でと頭の片隅で思うが、そ
 れでも眠い。閉じようとする瞼に抵抗する事が出来ない。なんとか眼を開けようとしてみたが、逆
 に視界がかすむばかりだった。

  代わりに頭の中で別の景色が――景色ともいえないくらい砂嵐が酷いが――展開される。なのに
 神経は現実世界をしっかりと捉えているから不思議なものだ。砂が零れる音も、風が囁く声も、す
 ぐ脇にディオが立っている事も分かるが、けれど思考は別の景色を映す。砂地のざらついた感触を
 頬に受け、マッドは白昼夢の中を行ったり来たりしていた。
  そこに、薄ぼんやりとした気配が割り込んでくる。風の音に掻き消されてしまいそうなそれは、
 しかし睡魔に襲われて抵抗できないマッドの瞼をぴくりと動かすには十分だった。ひくひくと反応
 する瞼の上で、徐々に深みを増す気配は、マッドが嗅ぎ慣れたものだ。そして、ここ最近の不眠症
 の原因。
  最後に姿を見たのはいつだったか。
  一週間、二週間、それとも、もっと?
  見えない姿は、しかしその気配だけは雄弁に荒野にちりばめられている。だが、そこに残された
 気配も後を辿るには酷く曖昧で、今感じているものも薄手袋を纏って触れられているような、そん
 な不確かなものだった。
  ひしひしと近づく気配に、マッドは身じろぎしながらもしかし身を起こすには至らない。
  これまでもこうして気配を感じる事は多々あった。しかしその度に、気配ばかりで肝心の姿が何
 処にもないのだ。睡魔に侵されもそこだけは妙に冷静なマッドは、今眼を覚ましてもどうせ姿を見
 つける事は出来ないと経験から判断し、彼の髪と同じ色の砂に身を寄せる。
  砂に身を委ねるマッドの身体の上を、形にならない気配だけが、行き来する。それに時折反応し
 ながらも、マッドは瞼を閉ざして身を伏せる。身体を囲うように、気配が曖昧なまま落ちてきた。
 触れるか触れないかぎりぎりの感触を携えたそれに、微かに身じろぎするが、眼は覚めない。
  砂嵐ばかりを生む思考は、これが幻か夢であると考えているのだ。だから、砂嵐の中に見える点
 と点を結びつけて、絵を描く事にばかり気がいってしまう。
  黒と白と灰ばかりだった眠りの夢は、いつの間にか色が付いていた。
  だが、それでも妙に薄暗い。くすんだそこは、色が付いていても、やはり黒と白と灰の支配が強
 かった。そして、もう一色。赤の支配が見え隠れする。
  これらの色が酷く不吉に見えるのは、それが荒廃と死の色だからだろう。
  くすんだ無彩色に近い夢の中で、時折赤が爆ぜる。その度に、身体を覆っていた気配が薄っすら
 と肌を刺す。
  それにマッドは眉を顰めた。砂の感触よりも薄く、しかし知った気配がちくちくと肌を突く。光
 の射さない世界で、赤い色が光を帯びずに爆ぜる。纏わりつく気配は、縋る色を見せてマッドを揺
 さぶる。
  一際巨大な赤が濁った色の中で瞬いた。
  その瞬間、脊髄を叩き割るくらいに強く、薄っすらと曖昧だった気配が、形が分かるほどにその
 濃密さを深めた。思考が見せる濁った色をした夢の中で、辛うじてマッドの知るものと同じ色が見
 え隠れする。
  今、頬を寄せている砂と同じ色の髪。
  今、頭上に広がっている空と同じ色の眼。
  澱んだがらんどうの洞穴の中、不吉な羽ばたきがこれでもかというくらいに満ちている。その、
 ありとあらゆる厄災が喚き声を背にして、何事にも動じない男の表情に、確かに途方に暮れたよう
 な影が見え隠れしていた。
  まるで、樹海に置き去りにされた迷子のような様子に――そしてそこから感じられる気配の深さ
 に――マッドは思わず手を伸ばした。

  ―――――キッド。

  実際に口にしたのかどうなのかは、マッドにも分からない。
  ただ、霞んだ世界に向けて手を伸ばし、次いで名を呼んだ。今を逃せば、永遠に、あの男が自分
 の前から姿を消すような気がしたのだ。
  名を呼んだ瞬間、男の背後に迫っていた羽ばたきが霧散するのが見えた。澱んでいるばかりだっ
 た世界が、すっと澄み渡っていく。洞穴はやはり薄暗いままだが、しかし、何処もくすんではいな
 い。そこに、最後の仕上げとでも言うように光のなかった世界に、一筋、光が差し込んだ。それを
 最後の映像として、マッドの思考は暗転した。
  ただし、形を伴った気配は消えないままで。 




 「ん…………。」

  身体を囲う気配に、衣擦れの音が付随された。その明確な音に、マッドはようやく睡魔を押しの
 け、眼を覚ます。
  ぱかりと開いた黒瞳が最初に見たのは、砂色の髪と髭。そして青い双眸だった。背後にあるのは
 荒野特有の、きつい日差しに彩られた強い青空。掴んだ腕の感触も、微かに薫る紫煙と硝煙の匂い
 も、この男が実体を伴っている事を示している。




  荒野を駆け巡る猟犬は、自分が世界と世界を覆う枠を焼き切った事に気付かない。
  気付かぬまま、彼は、自分の獲物を自分の世界に取り戻したのだ。