死神のそれよりも遥かに不吉な羽ばたきを背負い、青年は流暢に、しかし虚ろなほどの嘲りを込
 めてに何事か叫んでいる。星の瞬き一つ見えない、晴れてはいるがくすんだ世界の中で、鬱金の髪
 の青年がその眼を爛々と輝かせていた。その眼に灯っているは、かつて見た事がある感情だ。
  いつ終わるとも知れない戦場の中で自ら死を選んだ捕虜達が、縛り首になった罪人の子供達が、
 突如無法者達に命を奪われた者の肉親が、そして時折、自分の眼の中にも見つける事が出来る色。
  怒り、嘆き、憎しみ、そしてそれらを呑みこんで肥満した絶望。
  胸の真ん中にぽっかりと広い穴が開いているのを幻視できそうなほど、彼は空っぽで、その中に
 絶望が際限なく――しかし決して満たされることはない――注ぎ込まれている。この悲しくくす
 んだ世界で、何よりも存在を主張しているのに何故か薄く見える青年の中で、唯一輝いているのが
 火星のように赤い瞳だった。




 Antares





  その身を醜く変貌させた青年は、もしかしたらその姿こそが彼の中に蟠っている負の感情を表し
 ているのかもしれない。おぞましい赤子の姿をしてその背に肉色の翼を背負った姿は、こちらに嫌
 悪感を抱かせるには十分だったが、しかしそれでもやはり、どこか空虚さを拭えない。
  それは、彼の吐き出した台詞が端正であった事と変貌した姿が黙示録に出てくるように醜いもの
 である事、そして溢れ出る絶望がありふれたものであるという、全てがちぐはぐで一致していない
 という事実から感じるのだろう。
  サンダウンは、青年の身に何が起こったのか知らない。幾つかの断片から、辛うじて彼が人々に
 憎まれ、恐れられ、裏切られ、それがもとでこの世界を歪めてしまったという事は繋ぎ合わせる事
 が出来たが、しかしそれだけで彼の全てを知る事は不可能だろう。他者の全てを知り得る事が出来
 ると思うほど、サンダウンは自惚れてはいない。
  また、この場合、知る必要もないだろう。破壊の為にその身を捨て去って――もしかしたら理性
 さえないのかもしれない――襲いかかっている青年、いや化け物に、過去の事を知った上での同情
 も説教も、効かないに違いないのだから。
  変貌しても、その赤い眼は辛うじて彼である事を示す。泣き声と共に、その眼と同じくらい赤い
 閃光があちこちで爆ぜた。爆風に煽られた空気が身体に纏わりつくのが厭わしい。薄気味悪いから
 ではない。むしろ、酷く身体に馴染むその空気は、まるでサンダウンがこのくすんだ世界の住人で
 ある事を告げているかのようだ。
  どろりと霞んだ空が、サンダウンの中で眠っている絶望を揺さぶっている。憎しみの名を掲げる
 化け物の泣き声が、それを更に加速させようと、けたたましく怪鳥のように繰り返している。

  冗談ではない。

  サンダウンは這い寄る悪寒が、決して不快ではない事に気付いて愕然としながらも思う。
  自分が帰る世界は、こんな濁り澱んだ世界ではない。自分がいるべき場所は、乾いた風が支配す
 るあの荒野だ。平穏とは決して言えないし豊かだとも言えないが、それでも、空と砂と、この二つ
 が色鮮やかに移り変わる様は美しく一点の曇りもない。どれだけ生きる事が困難であっても、また
 その生き方を強いられていても、それらを呪っても、あの場所が自分の居場所だ。
  間違っても、こんな歪んだ世界が自分の居場所だとは思いたくなかった。
  そんなサンダウンを哄笑するように、醜い青年の声が血の底から噴き上げる。
  お前はこちら側の人間なのだと、繰り返し呟いている。
  同じように英雄で、同じように英雄の座から墜落したのだから、その寄る辺も居場所も同じはず
 だ、と。
  同じように世界の枠からはみ出て、それ故に彷徨わなくてはならないお前は間違いなく自分達の
 仲間なのだと。
  絡みつく声は足元に忍び寄る。それを躱し、サンダウンは銃に弾を込めた。遠目に見れば、赤子
 の姿に羽根を生やした姿は天使に見えたかもしれない。だが、顔を引き攣らせて内臓のような色の
 羽根を広げて泣き叫ぶ姿は、おぞましい悪魔そのものだ。その姿に照準を合わせ、撃ち落とす。
  サンダウンの放った六発の銃弾は、全てが違える事なく、その左脇腹を刺し貫いていた。救世主
 と同じ場所を一瞬のうちに何度も抉られた魔王は、先程まで喚き声を繰り返していたとは思えぬほ
 ど、一言もなく沈黙と共に撃墜した。




 「我々とお前達、一体何が違うというのだ!」

  鬱金の髪を振り乱し叫ぶ青年の周りには、ナイフや銀の十字、そして朽ち果てた骨が散乱してい
 る。
  青年の叫びに、サンダウンはぞっとした。彼は、やはり自分を、彼の住まう世界の住人だと考え
 ていたのだ。
  違う、と心底で叫ぶ。
  確かに、彼が言うように自分の中に広がる絶望の理由は、彼が持つものと同じなのかもしれない。
 しかし彼と自分では絶対的に違うものがある。
  サンダウンは彼のように、自分が住まう世界を壊したりはしなかった。彼のように、世界を憎ん
 でなどいない。サンダウンを包む世界が、どれほどサンダウンを拒絶しようと弾き飛ばそうと、サ
 ンダウンはあの世界が愛おしい。世界を壊すくらいならば、自分が壊れるほうを選ぶだろう。
  かつて、町の治安の為に自分の首を差し した時のように。
  魔王を名乗る青年がどのような仕打ちを受けたのかは分からない。
  だが、彼と同じ仕打ちを受けても、世界を憎む事が出来ない自信がサンダウンにはある。世界が
 自分を苦しめても、自分が弾き出されてしまう事がないように差し伸べられる手がある事を、サン
 ダウンは知ってしまっているのだ。その手が存在している以上、れだけ吸い込む空気が臓腑を焼き
 焦がすものであっても、サンダウンはあの荒野に立っていられる。
  だから、髪を振り乱し、絶望の縁で叫ぶ青年の言葉に、全てを懸けて抵抗する。
  十字を憎々しげに握り潰す青年は、悲しみに彩られた自分の世界だけでなく、その他の世界にま
 で呪詛を吐き捨てる。自分は何処にでも存在するのだ、と。しかし、色褪せた世界から逃れられな
 いのに。
  サンダウンは、はっとした。もとの世界に戻れるだろうか、と。この世界に馴染んだ身体は、あ
 の愛おしい世界に戻れるだろうか。灰に還った青年のように、澱んだ世界から出られないのではな
 いか。
  憎しみの集まった部屋に一人取り残されて途方に暮れるサンダウンの鼻腔を、ふと独特の甘い香
 りが擽った。
  それと同時に世界が揺らぐ。
  身体に纏わりついていた粘る空気を、乾いた風が抵抗するように取り払い、霧散する。と、見る
 間に世界が色を取り戻していく様が見えた。薄暗かった洞穴に、終ぞ見る事が出来なかった輝きが
 差し込んでいく様子を最後に、視界からは悲しい国の残滓が消え去った。代わりに広がるのは、空
 と砂の気配だ。
  ぼんやりと感じられるその気配から、じわりと熱が染み出す。それに手を伸ばした瞬間、薄い膜
 に閉ざされているようだった、最愛の世界の気配が一気に噴き上げた。

 強い色をした空と、ごつごつとした岩を時折含む砂地。

 その中心で、突き抜けるように黒い影が笑って手を差し伸べていた。