風が、轟々と泣いている。耳が痛いほど静かなのに、風の声だけが鼓膜を震わせている。それと
 もこれは、鼓膜の内側で響いている只の耳鳴りなのか。
  見上げれば既に周囲は完全な夜だった。だが、先程まで確かに輝いていた幾千の星も、凝として
 輝いていた月も、何処にもない。空は晴れている。だが、如何なる輝きも何処にも見受けられない。
  否。
  地面で何かが、ちかりと瞬いた。そんな場所に星も月もあるはずがない。視線を向けると、そこに
 転がっていたのは怜悧なナイフ――いや、柄と鍔に豪奢ながらも繊細な細工が施されたそれは、身分
 の高い女性ならば誰でも持っている護身刀だ。そして本来身を守る為のその刃は、時として彼女達の
 誇りを、即ち貞操を守る為に使用されてきた。つまり、夫に捧げた身が他者に踏み躙られる寸前、自
 ら命を断てるよう、彼女達はただ一振りの刃を持つのだ。
  その刃は、夫となったはずのオルステッドの前で、妻である女の胸を裂き、友人だった男の身体に
 赤い花を咲かせた。





 Vega






  ルクレチアという国を愛していたわけではない。自分をその中に呑みこみ、吐き出そうとしない
 矮小な国を愛する事は、オルステッドには生涯できなかった。剣の大会で優勝するたびに得られる
 賞賛の中に、微かな皺がある事に気付いたのはいつだったか。それが醜い権力争いへと膨れ上がっ
 た時には、己の周囲に張り巡らされた、政治の包囲網によって諸国へ旅することは許されなくなっ
 ていた。

「いつか、この国を出よう。」

  そう言ったのは自分だったか、それとも友人だったか。彼も自分と同じで、突出した才能を持っ
 ているのにこの国に閉じ込められた者だった。尤も彼の場合、オルステッド以上の包囲網――ルク
 レチア以外の国の政治的陰謀に捕らわれていたのだが。自分達が与り知らぬところで勝手に決め交
 わされた契約によって、才能を外に向ける事が出来ない事を、オルステッドも友人も、酷く憎んだ。
 それ故、いつしか二人の間では、自分達を受け入れる事の出来ない世界の枠を破壊しようという約
 束が交わされていた。

  紫紺の髪の姫を娶れば、この国を乗っ取り、それを足掛かりに世界に進出できるかもしれない。

  鉄紺色の髪を長く垂れ下げて顔を隠し、薬草を煮詰めながら友は言った。武闘大会の知らせが  ちこちで出回り、優勝者はルクレチアの姫の夫になれるのだという。

「俺かお前か。きっとどちらかが優勝できるだろう。」

  きっぱりとした声は、背を向けたままで揺るぎがない。疑う事を知らぬような子供の声で言われ
 て、オルステッドも普通に頷いた。
  当然だ。
  この国で自分達に敵う者などいない。自分を倒せるのは彼だけで、彼を倒せるのは自分だけだ。
 互いで互いを噛み切る以外に、自分達を倒す方法はない。世界の枠に入りきらない自分達が、こん
 な矮小な国で負けるはずがないのだ。
  そしてそれはその通りとなった。
  優勝したのはオルステッド。
  友の言った通りで、オルステッドが信じていた通りだった。
  そして自分の優勝は、ひいては友の優勝でもある。
  世界が自分達の前にひれ伏す瞬間が近づいた。

  だが。

  紫紺の姫が微笑んだ。白いドレスを穢れなく着こなし、オルステッドの前に降り立つ。今から、
 オルステッドと、彼の友人に呑み込まれる国の、姫。誰もいない寝所で彼女は微笑み、反逆の牙を
 研ぎ澄ませている剣士の前で、堂々と厳かに言った。

 「私は父のやり方には反対なのです。ここルクレチアは教会信者が魔の山と呼ぶ国。彼らは我らを
  異形の者と蔑んでいます。しかし父を始め、この国の中枢を担う大臣達はそれを甘んじて受け、
  いらぬ謗りを受ける国民の事に眼を向けません。貴方は知っていますか?この国の民が、国外へ
  と行商へ行った時どのような扱いを受けているか?」

  格式の高い宿には泊まれぬ事、店を開こうとすれば必要もないくらいに荷物を開けさせられる事、
 時には教会の者達がやってきて罵りの言葉を吐きかける事。そんなのはまだ可愛い者で、姫は、国
 外でのこの国の無残な扱いの状況を淡々と告げる。

 「そもそも、教会という枠がある事自体おかしいのです。そして否応なしに教会信者にならねばな
  らぬこの世界が。私はこの国をそんなものの中に閉じ込めたいとは思いません。その為にも、貴
  方と貴方の友人の力が必要なのです。この世界の枠を、壊す為にも。」

  オルステッドと友人の心を、そのまま映し取ったかのような姫の言葉。まさか、彼女も自分達と
 同じだというのか。姫という衣装を無理やり着せられ、その聡明な頭脳を押し込められているのか。
 ああ、こんなところにも仲間がいた。

  しかし姫を友に引き合わせる事は出来なかった。まるで教会が放った刺客のように、力ある反逆
 者の勢力をこれ以上増やしてなるものかと言わんばかりに、魔の山から舞い降りた醜い生物が、姫
 を攫ったのだ。   許せるものか。この矮小な世界で巡り合えた、数少ない仲間を誰かに渡して堪るものか。

  君も、そう思うだろう?

  振り返った友の顔は、姫を連れ去った魔王と同じ、醜く引き攣れていた。呆然としたオルステッ
 ドの前で絶叫する友の顔は、もうオルステッドには思いだせない。その名前でさえ靄がかかったよ
 うに曖昧だ。ただ、彼が矮小な世界の中で、矮小な生物のように喚き立てている。

  自分を倒せるのは彼だけで、彼を倒せるのは自分だけだ。
  互いで互いを噛み切る以外に、自分達を倒す方法はない。
  そしてそれはその通りになった。

  襤褸雑巾のように引き裂かれた友の身体を、オルステッドは焦点の合わぬ眼で見下ろす。彼が何
 を望み、自分が何を望んでいたのか、もはやオルステッドには分からない。同じものを同じ場所を
 望んでいたと思っていのは、オルステッドの勘違いだったのか。互いで互いを噛み千切る以外に殺
 す方法がないくらいに、同じ位置にいたのに。
  そんなオルステッドの耳朶を、もう一人の仲間の声が打つ。紫紺の髪の姫は友の前に屈みこみ、
 オルステッドをあたかも敵であるかのように罵った。手の中に、自らの貞操を守る為の刃を忍ばせ、
 彼女は叫ぶ。紫紺と鉄紺の髪が絡み合う様は、まるで蛇がのた打ち回る姿そのものだ。
  いやむしろ、紫紺に友の鉄紺が呑み込まれているようで、オルステッドは何かが確実におかしい
 事に気付く。

  そしてそれは次の瞬間はっきりと形になった。
  振り上げられた刃一つ。
  それを飲み干すように身を逸らせた姫の口元に、会心の笑みが一つ。
  胸元から零れたのは、銀の瀟洒な十字が一つ。
  それは、教会である事を示す明確な根拠。

  ――オルステッドとストレイボウ、この二人が揃えば敵う者は何もない。
  ――二つの傑出した才能、彼らが共にあるのは必然だ。
  ――だがそれを快く思わぬ者が、危険に思わぬ者がいないだろうか?

  反逆者の二つの首を、ユディトの刃は己の命ごとかっ切ったのだ。
  敬虔なる教会信者であるルクレチアの姫は、国全体と引き換えに、反逆者達がこの国から出られ
 ぬように呪いをかけた。愕然とするオルステッドの前で、姫は友の身体の自らの血で清めていく。

  ――オルステッド。

  最後、微かに友の声が聞こえた気がした。
  けれど、もう、その声音さえ思いだせない。

  誰よりも同じ夢を見た彼は、神の前に斃れて、もう何処にもいない。
  斃れる事も許されず、オルステッドは心だけを遥か深淵に堕としていった。