蛇の孤独な星




  どこからか、醜い野鳥の声がする。いや、それはもしかしたら、原型が何なのか分からなくなる
 ほど変質してしまった魔物の一種なのかもしれない。
  魔物の中には、かつてごく普通の動物だったものがいると聞く。磁場のように魔力の集まる場所
 に長らく居れば、数代の血を経て、所謂魔物と呼ばれる、人から忌み嫌われる生命体が生み出され
 るのだと。そして、遠い都――このルクレチアなどよりも遥かに大きな都市では、それを研究し、
 人工的に生み出そうという動きもあると、そんな噂を聞いた事がある。
  神の命を第一とし、神が作りたもうたものを勝手に変化させるなど恐れ多いと思っている教会の
 者達からしてみれば、そんな噂のある大学や異教の寺院などは、忽ちのうちに捻り潰してしまうべ
 きものだろう。そしてそれ故に、教会が悪と考える生物が多数存在するこの山は、正しく魔王の山
 なのだ。
  その、神の祝福から切り離され、おぞましくそそり立った山の中で、男は待っていた。





 Alphard






  ストレイボウは、教会からは異端とされてきた魔法使いに属する。本来ならば火炙りにされても
 おかしくない属性は、しかしこのルクレチアではある程度好意的に受け止められた。それはおそら
 く、この地に息づく異形の存在が住む人々の心を寛大にした所為だろう。
  異形の生命が住む山を懐に抱いた小さな国は森と山脈に囲まれ、教会の審問官を寄せ付けにくく
 していたという事もある。そうでなくとも、ルクレチアは小さな――悪く言えば田舎の――国だ。
 教会としてはそんな小さな国にかまけているよりも、より多くの富を生み出す国や都市に眼を向け、
 そこから異端審問という名のもとに貴族を処刑し、その貴族の財産を没収したほうが遥かに良い。
  むろん、ルクレチアにも教会はあったし神父もいたが、神父は代々その土地の者が務めるように
 なっていた。
  そんな好条件が重なり合い、普通ならば魔女狩りが横行して数万人の命が消えていたこの時代、
 ストレイボウは寧ろ神童として尊敬の眼差しさえ向けられるようになっていた。
  正直なところ、ストレイボウとて大都市の大学に行き、己と同じくらい学のある者達と競い逢い
 たいという野望がなかったわけではない。しかし、己の出自がそれを許さぬ事が分からぬほど、頑
 是ないわけでもなかった。
  むしろ、幼い頃から大人でさえ読めぬ古語を諳んじれるほど敏かった彼は、誰よりも己の生命が
 幸運に満ちたものであるのか理解していた。
  なんとか自らの力を外へと放出しようと――密かに――試みた事もあったが、結局、教会がどれ
 ほど恐れていようと魔法使い一人の力など微々たるものだ。それが分かる頃には、ストレイボウは
 周囲の子供が計算も碌に出来ぬのに、既に達観したような空気を漂わせていた。
  ルクレチアはストレイボウにとっては唯一生活の保障された場所だ。
  しかし同時に、酷く退屈な場所だった。
  ストレイボウの能力はルクレチアの枠には収まりきらない。
  ストレイボウの話し相手となるような存在もいない。
  同い年の子供ならば、尚更だ。
  ずば抜けた頭脳は、結局一人の孤独な魂を生み出しただけだった。
  だが、孤独な魂が伴侶を見つけるのに、そう時間は掛からなかった。

「君は、誰?」

  昼間、子供たちが広場で遊ぶ時間、ストレイボウは一人森の奥で薬草を集めていた。同じ年齢の
 子供達の遊びになど興味のない彼の、唯一の遊び相手はこうした薬草――時には毒草――だった。
 集めた薬草を調合し、その効果を調べる事が、ここ最近の彼のお気に入りの遊びだった。医学書を
 片手に薬草を擦り潰し混ぜ合わせる様子は、とても十になったばかりの子供とは思えなかっただろ
 う。
  手慣れた手つきで数種類の草を練り合わせていると、いきなり背後から澄んだ声が聞こえた。ぎ
 ょっとして、思わず手の中にあった薬草を取り落してしまった。慌てて振り返ると、そこには木漏
 れ日を受けて燦然と輝く金の髪を跳ねさせた少年がいた。手にすらりと伸びた剣を持つ少年は、自
 分と同じ歳の頃だろうか。しかしまだ成長していない身体に対して、その小さな手の中で輝く剣は
 練習用の木刀などではなく、紛れもない真剣だ。
  子供が持つには相応しくない長剣に、ストレイボウは咄嗟に相手が己と同じはみ出したものであ
 る事を嗅ぎ取った。そしてそれは間違っていなかった。
  十にも満たないのに、大人の持つ剣を叩き落とせる少年。
  天才剣士と周囲に褒めそやされ、しかし微かな畏れの眼で見つめられる少年。
  それが、オルステッドだった。
  オルステッドの家系は教会信者だ。オルステッドに魔女の血は混ざっていないし、弾圧を恐れる
 必要はない。
  しかしオルステッドが他国へ行けぬ理由は、根深い政治的理由があった。武力が、外交の手段の
 うちで最も大きな力となっていた時代だ。武力とは当然兵力であり、兵士の事だ。
  オルステッドに将として軍を率いる才能があるかはまだ分からぬが、天才剣士がいるという事で
 軍が鼓舞される事は間違いない。従って、オルステッドほどの剣士が他国へ流出する事を、ルクレ
 チアの中枢を担う者達が畏れぬはずがない。それ故、オルステッドの預かり知らぬところで、オル
 ステッドを他国へ行けぬように包囲網が張り巡らされていた。
  理由は違えど、同じ境遇にあった二つの魂が引かれあわぬはずがない。ストレイボウは身体に流
 れる血によって、オルステッドはその手で掴んだ剣の腕によって、しかし実は只の政治的意味合い
 によって、自らの道を塞がれたのだ。突出した二人が夢見たのは、この国からの脱出、ひいては己
 の力を受け止めきれない世界の枠の破壊だった。
  オルステッドがその剣の腕で若者達を魅了し軍を作り上げ、ストレイボウがその軍を指揮し国家
 を相手どる。
  それが、夢だった。
  そのはずだったのに。
  オルステッドはルクレチアの姫の愛を勝ち得た。
  武闘大会でオルステッドに負けた事などどうでも良い。正直、ストレイボウに適う相手はオルス
 テッドしかいないと分かっていたから、負けても確かに悔しかったが、そもそも世界を相手どる軍
 の将たる男が、魔法使い一人に負けるようであっては困る。
  姫との結婚も、構わない。それを足掛かりにルクレチアを乗っ取るのならば、夢への距離は一気
 に縮まる。

  なのに。

     アリシアを助けに行くオルステッドの顔は、アリシアの為に剣を振るう、只の勇者だった。
  違うだろう、そうじゃないだろう、俺達の目的は、そこじゃないだろう。アリシアなんて只の足
 掛かりだろう。
  耳元で囁いても、届かない。

  分かるだろうか、お前にその瞬間の絶望が。
  あれほど語り合って夢見た世界を、お前が切り捨てた。
  裏切ったのはお前だ。
  そんな顔をするな。
  一番最初にこの俺に絶望を与えたのはお前だ。
  一番最初に裏切ったのは、お前じゃないか。
  そんな絶望に満ちた顔したって、真の裏切り者はお前だろうが。
  無自覚に人を裏切ったお前は、イスカリオテのユダよりも、罪深い。

  結局、この小さな国でしか、生きられなかったんだ、俺達は。
  たった一人の女に狂わされてしまうほど、俺達の夢は脆かった。
  同じ魂だと思っていたのに、その寄り添いはあっと言う間に引き裂かれた。


  孤独な魂は、結局、最期まで独りぼっちだ。