マッドは瞼に白い光を感じて、ベッドの上でぼんやりと眼を覚ました。視線を動かせば窓の外か
 ら、朝の青い空が顔を覗かせている。
  むくりと身を起こすと、そこにいるのが自分一人だという事に気が付いた。影の多い部屋ではマ
 ッド以外の誰かの影を探す事は困難で、しかしマッド以外に誰もいない事は、もともと質素な部屋
 の中を見渡せば一目瞭然だった。
  それを見た瞬間に、マッドの眼に涙が浮かんだ。
  期待はしていなかった。けれども、改めて突きつけられたら、それは想像していた以上の刃とな
 った。喉元まで、嘘吐き、という言葉が出かかって、それを押し殺す。嘘吐きも何もない。あれは、
 薬によって出された戯言のようなものだ。どんな形に転んでも――互いが互いに幻滅しない限り―
 ―離れないなんていう選択肢を信じるほうが馬鹿なのだ。
  それでも、嗚咽が何処からともなく込み上げてくる。薬によって引き起こされた感情は、元に戻
 らずにマッドの中に澱のように残っている。なのに、マッドに薬を飲ませた本人は、何処にもいな
 いのだ。恨み事を言っても惨めなだけな事は分かっているが、それでも、恨まずにはいられない。

 「っ…………。」

  涙が零れ落ちそうになって、慌てて堪える。誰もいないとは言え、それでもこんな事で泣き喚く
 のは嫌だった。ずきずきと痛む喉を押さえ、白々しいほど天気のよい空を見上げる。まるで、サン
 ダウンの眼のようだ。
  思った瞬間、今度こそ、涙が零れ落ちた。

  それと同時に、扉が軋んだ音を立てて開かれる。

 「マッド?」

  起きたのか、と低い声が耳朶を打った。が、その声は、急にうろたえたようだった。

 「どうした……?」

  慌てて傍に寄って来て、マッドの頬を大きな手が包み込んだ。ゆっくりとかさついた指先がマッ
 ドの頬をなぞり、零れ落ちた滴を受け止める。
  見下ろす青い眼に、視界が閉ざされた。そして降ってくる口付けに、マッドは小さく身じろぎす
 る。だが、それでも追いかけて、サンダウンは囁く。

 「マッド………何処にも、行かないでくれ。」

  そう告げて、もう一度口付けをする。マッドの手を握りこんで、手の線を親指の腹でなぞる。

 「………私は、変わらなかったぞ。だから、賭けは私の勝ちだ。」

  微かに怯えを孕んだ声で、サンダウンはしかし有無を言わせぬ口調で告げた。ただし、その眼に
 はやはり、微かな怯えが浮かんでいる。それを見上げた途端、マッドの眼からもう一粒涙が零れ落
 ちた。その涙に、サンダウンはどんな意味を付ければ良いのかと決めかねているかのようだった。
  マッドの動作の一つ一つに過敏に反応する様は、賭けに勝った男には到底見えなかった。そんな
 男の様子を、マッドはどう受け止めて良いのか分からず、瞬きを繰り返しては涙をぽろぽろと落し
 ていく。
  落ちる涙でさえ惜しいと言わんばかりに、サンダウンはそれを手で受け止めながら、囁くように
 言った。

 「マッド、お前が、欲しい……だから、返事を聞かせてくれ。」
 「………賭けに勝ったから、俺はあんたのものになるんじゃねぇのか?」

  サンダウンの心が変わらなかったと言うのなら、マッドは自動的にサンダウンの腕の中に転がり
 落ちるはず。賭けは、確かそういう内容だったはずだ。
  忘れているわけではないだろうに、とマッドが不思議そうに尋ねると、サンダウンの声にはいよ
 いよ怯えが大きく波打ち始めた。
     「………ああ、だか………。」

  欲を言えば、心も、欲しい。

  そう告げたサンダウンの手が、微かに震えている事に、マッドはようやく気が付いた。眼の前の
 飄々としている男が、マッドの言葉一つに怯えている。   その意味に思い至った瞬間、マッドの胸に訪れたものが何だったのか、それはマッドにも説明で
 きなかった。ただ、衝動的にサンダウンに抱きつき、喚いた。

 「あんたの所為で、俺は完全に変わっちまったんだ!どうしてくれるんだ!あんたなしじゃ、息を
  する事も出来やしねぇ!」

     途端に、息が詰まるほどに抱き竦められた。

 「マッド……マッド……どうしても、お前が欲しかった。」
 「うるせぇやい!だったらてめぇなしじゃ生きていけねぇ俺を見て、満足かよ!」
 「ああ……誰にも渡さない。」

  低い声は、甘い痺れを伴ってマッドの脳髄に叩きこまれた。

  愛しい人。

  小さな呟きと共に落ちてきた口付けに、マッドは大人しく応じた。





  うつ伏せになったマッドは、枕に顔を押しつけて、身体を這いまわる感触に耐えていた。
  服を剥ぎ取られ、曝された無防備な裸身には、余すところなくサンダウンの舌が這っている。胸
 はぷっくりと腫れ上がり疼くほどに嬲られ、その所為で反応してしまった脚の間の欲望は何度もし
 ゃぶられて何度達したのか分からない。鎖骨も臍も脚の付け根も、前は全て徹底的に弄ばれ、力な
 く倒れたところをうつ伏せにされたのだ。そして、今は後ろを嬲られている。
  背中に張り付いた男は、マッドの項に顔を埋めたかと思うと肩甲骨に浅く噛みつき、背骨の上を
 行ったり来たりする。その中でマッドが少しでも反応を見せれば、そこは徹底的に攻略される。

  舌で、舐められてるだけなのに。

  弾む息を抑えられず、マッドは枕に顔を押しつける。
  舐められているだけとはいえ、この一ヶ月間でサンダウンに調教された身体は酷く過敏だ。脇腹
 や臀部に触れられただけで、もうどうにかなりそうだ。
  薬の切れたサンダウンは、これまでよりもずっと優しい手つきでマッドに触れてくる。舌で丁寧
 に解すのも、まるで指で触れると壊してしまうと言わんばかりだ。けれども、その触れ方でさえマ
 ッドには荒々しい熱となって感じてしまう。
  ひくんひくんと身体を震わせるマッドの身体に圧し掛かり、サンダウンは宥めるようにマッドを
 抱き締めた。

 「マッド………。」

  それは、緩やかな拘束だった。薬が切れた後のマッドが、まだ自分のものになったと信じ切れて
 いない不安げな声が、マッドの耳元で木霊した。
  怯えを孕んだその声は、しかしマッドの耳にはどうしようもないくらい甘い痺れを伴って響く。
 薬の効果はもう切れたはずなのに、身も心も、完全にぐずぐずになっている。

 「マッド……マッド……。」

  繰り返し名を呼ぶ男の声に、マッドは肌を粟立たせた。吹き込まれる甘いテノールが鼓膜を叩く
 に伴って、マッドの背筋を何かが這い上がる。まるで、痺れるかのようなそれに、マッドは身体を
 大きく震わせた。

 「マッド……愛しい人。」
 「………っ。」

  サンダウンが声を落とすたびに、腰が熟れたように熱くなる。弾む息も、枕に顔を押し当てただ
 けでは耐えられない。必死になって枕に噛みついて堪える。けれど、サンダウンが触れているとこ
 ろから熱はどんどん広がって、シーツが触れるだけでもその衣擦れが堪らない。

 「マッド………?」
 「ぁっ………。」

  マッドの様子を怪訝に思ったサンダウンが問い掛けるように囁いた声にまで、反応してしまう。
 反応と同時に零れた自分の甘い声にマッドは慌てて枕に顔を押しつけるが、それよりも早くサンダ
 ウンの手がマッドをひっくり返す。
  仰向けにされたマッドは反応する自分の身体を隠す物がない。ひくひくと震える太腿の間で、限
 界まで反り返った自分の分身まで、サンダウンの前に曝される。はしたなく蜜を垂らし続けるそれ
 は、その原因は、言うまでもなく。

 「………マッド。」
 「ぅ……っあ…。」

  耳元でもう一度囁かれて、マッドはぴくんと身を捩る。腰が揺れるのを、抑えられない。もう、
 声だけで。薬の効果なんて、とっくに切れているのに。
  サンダウンにもマッドの状態はすぐに分かったのだろう。一瞬驚いたように眼を見開いたが、そ
 れはすぐさま嬉しそうな表情に変わる。その表情は、薬を飲んだマッドが、サンダウンに向かって
 強請った時よりも、ずっと嬉しそうだった。

 「マッド……私は、お前の中に、刻み込めたのか?」
 「う、うるせ……ぇ……。」

  そんなもん見れば分かるだろうに、いちいち聞いてくるのは、確かめずにはいられないサンダウ
 ンの臆病さ故にだ。サンダウンを裏切ったという黒い女達の影が、サンダウンに言葉を求めさせる。
  それに、絆されたのだろうか。
  マッドは、薬を飲む前と飲んだ後、そして薬の効果が切れた後で、明らかに心境が変わっている
 自分の、その原因を探ろうとしてそう呟く。必死になって自分を求めるサンダウンに、絆されたの
 か、と。
  だが、サンダウンの声を聞いただけで身体を痺れさせている今となっては、そんな事はもはやど
 うでも良い事である。分かっているのは、マッドの身体をこんなふうにしたのは、サンダウンだと
 いう事だけ。

 「あ、あんたの所為だろうが……!」

  ひくつく身体を持て余してそう言えば、サンダウンが優しく口付けてきた。

 「マッド……私にそこまでさせたのは、お前の所為だ。」

  どうしてもお前が欲しかった。

  そうして、また口付ける。

 「マッド、私を裏切らないでくれ。」

  何処にも行かないでくれ。
  傍にいてくれ。
  離れないでくれ。

  同じ意味なす言葉を、口付けの合間に、何度も何度も繰り返す。マッドの身体に手を這わせ、そ
 の輪郭を確かめるように撫で上げる。マッドが甘い吐息を零せば、口付ける。朦朧とするような、
 濃厚で、甘ったるい口付けだった。
  愛撫と口付けで身体を弛緩させたマッドに、サンダウンは最後に一言、呟く。

 「お前が、欲しい………。」

  良いのか?

  それは、情事を求める声のようでもあったし、マッドを全部奪っていく事の許諾を求める声のよ
 うでもあった。
  いずれにせよ、マッドにはそれに対して抵抗する術も、気力も、そして考えもない。眼を閉じて
 頷いて、サンダウンの腕の中に身体を委ねる。その仕草に、サンダウンが酷く喜んだ事だけが分
 かった。

 「マッド……。」

  何度目かの呼びかけ。それに低い声が続く。

  もう、手放して、やれない。

  その声に、マッドは朦朧としながら答えた。身体の中には何処を探しても薬の残滓は見えない。
 まして、意識のぼやけた中で呟いた声が、紛れもなく本心に近い。その事に、サンダウンが気付い
 ただろうか。



  ……だったら、手放すんじゃねぇぞ。