その日、マッドはいつもよりも早く眼を覚ました。
  全身は昨夜の情事で気だるく、まだベッドに臥せっていたいと言っていたが、しかしそういうわ
 けにもいかない。

  今日は、最後の日だ。

  二人が惚れ薬を飲んで――サンダウンは酒と間違えて、マッドはサンダウンに無理やり飲まされ
 て――今日で一ヶ月だ。明日の朝には、この身体をときめかせる想いは全てなかった事になる。そ
 れどころか、この一ヶ月間の間に成した事が、薬の効果が切れた後にどのように作用するのか、マ
 ッドには分からない。
  サンダウンの望み通りに身体の奥に快感を穿たれたマッドがどんなふうになるのか。それはマッ
 ドにとっては恐怖以外の何物でもない。何よりも、ただはっきりと、サンダウンにとってこの一ヶ
 月間は、思い出したくもない出来事になるだろう事は、分かり切っていた。
  自分の命を狙っている賞金稼ぎを愛して愛を囁いて、身体を開かせて犯したなど、明らかに人生
 の汚点だ。きっとこの先、サンダウンはマッドに視線を向ける事はないだろうし、顔も見たくない
 に違いない。
  その急変を、明日の朝になれば眼にしなくてはならないのだ。
  今は愛おしげにマッドを見る眼差しは、明日の朝には一瞬で掻き消え、見る間におぞましいもの
 を見るかのようなものに変貌する。
  その変貌を間近に見て、耐えられるだろうか。その様子を想像し、マッドはぶるりと身を震わせ
 る。きっと、耐えられない。サンダウンの双眸が嫌悪に染まる瞬間には、きっと、耐えられない。

  そう思ったからこそ、マッドは疲れた身体を引き摺り起したのだ。
  最後の一日。サンダウンが変貌するその前に、マッドはサンダウンから離れなくてはならない。

  サンダウンの姿は、今は何処にもない。おそらく厩に行っているのだろう。此処一ヶ月間、サン
 ダウンは身動きのとれないマッドに代わって、馬の面倒を見ていた。朝、サンダウンが馬に餌をや
 りに行くのは今や日課となっている。
  その間に、マッドは身支度を整える。剥ぎ取られた衣服に袖を通すのは、本当に久しぶりの事だ
 った。この一ヶ月間、マッドは碌に衣服を着る事も許されなかった。身に纏う事を許されたのは、
 シャツ一枚で、それさえも情事の最中には剥ぎ取られ、マッドはほとんど裸身を露わにして過ごし
 ていた。
  サンダウンに荒々しく剥ぎ取られた衣服は、所々解れていたが、それでも身を覆うには十分だっ
 た。痕の残る肌を隠し、マッドはバントラインを腰に帯びる。これで、全部元通りだ。後は、サン
 ダウンから離れ、明日を待つだけだ。

  だが、果たしてサンダウンがマッドを何も言わずに放してくれるだろうか。
  マッドは、厩に行ったきりのサンダウンの事を考える。どれだけマッドが離れる準備をしても、
 このまま出て行こうとすれば、厩にマッドの愛馬もいる以上、サンダウンとかち合うのはどうしよ
 うもない。その時、サンダウンが黙ってマッドを行かせてくれるだろうか。明日には薬の効果は消
 えるが、今はまだ切れていない。それは、ともすればサンダウンから離れがたく思っているマッド
 の心うちからも明らかだった。
  だが、それでも離れなくてはならない。どうせ明日には離れねばならないのだ。それならば今日
 離れたとしても同じ事だ。
  マッドは自分にそう言い聞かせ、サンダウンにもそう言って諦めてもらおうと考え、扉に手を掛
 ける。

 「………あ。」

  マッドがちょうどドアノブに手を掛けようとした瞬間、扉が軽く軋む音を立てて開いた。開いた
 その隙間から覗くのは、当然の事ながら真っ青な双眸だ。最初は穏やかだったその眼が、身支度を
 整えたマッドを見た瞬間、大きく見開かれた。
  途端に扉は大きく開け放たれて、サンダウンが一気に踏み込んでくる。驚愕に満ちていた瞳は一
 瞬で怒気が籠り、マッドが本能的に身を竦ませるよりも先に、マッドの両腕を捕まえる。あっと言
 う間に、マッドの視界はサンダウンで覆われた。

 「……何処に、行く?」

  獰猛な獣の唸り声のような、最低重量音がサンダウンの喉から絞り出された。マッドが震えるの
 も意に介さず、マッドを掴んだサンダウンの腕は唸り声と同じくらいの獰猛さでマッドをベッドに
 押し付けた。
  その衝撃に、マッドが顔を顰めた事にも気付かないのか、サンダウンはそのままマッドの身体に
 圧し掛かる。

 「何処に、行くつもりだ。」

  再びの問いに、マッドはその獰猛さから顔を背け、呟くような声で言った。

 「何処にも何もねぇだろう?もう、薬の効果も切れる。だったら、互いに幻滅しないうちに離れる
  のが得策だ。」

  いや、互いに、ではない。サンダウンがマッドに幻滅する前に、だ。そんな事を自嘲気味に思っ
 ていると、サンダウンの眼が鮮やかな蒼に変貌した。見惚れるくらい美しいそれは、けれども燃え
 立つ炎にも似ている。それが怒りを示していると気付かぬほど、マッドは鈍くはない。

 「ふざけるな………。」
 「あぅ……っ。」

  両腕を掴んでいる大きな手に、骨が軋むほど力が込められた。そこに走った痛みに、マッドは思
 わず呻く。しかしその痛みよりも、サンダウンがマッドに痛みを与えた事のほうが、マッドにとっ
 てはショックだった。
  サンダウンとの情事は確かに荒々しく、マッドは途中で何度も泣いてしまったけれど、しかし痛
 めつけられた記憶はない。その事実が翻り、マッドは堪らなくなった。

 「放せよ!どうせ明日になったら全部終わるんだ!だったら今終わらせても同じだろうが!」

  腕に食い込む指を引き剥がそうと身を捩れば、サンダウンは更に力を込める。マッドを逃がすま
 いとして全体重で圧し掛かってくる。
  そして、苦渋に満ちた目で、マッドを見下ろした。

 「何故だ……お前も、私を裏切るのか?」
 「裏切るも何も、明日になればあんたのほうが俺を突き放すだろうが!薬の効果が切れたら、あん
  ただってこんな事をした事を後悔するに決まってる!それなら、せめて薬が切れる瞬間は、顔を
  合わせないほうが良いだろうが!」
 「そんな事は………。」
 「いい加減に現実を見ろよ!これは薬の所為なんだって!それとも、あんたは薬が切れた後、俺が
  みっともなくあんたに縋りつくのを見たいってのか!」
 「違う………。」
 「違わねぇだろうが!俺はあんたに犯されたんだぞ!あんたは俺を突き飛ばしたらそれで良いだろ
  うが、俺は自分の身体がどうなってんのか分からねぇんだぞ!」

  まして、もしも、まさか、薬が切れた後もサンダウンを求めてしまったら。

 「放せよ!頼むから………!」
 「………マッド。」

  情けないくらいに声が上擦った。マッドの声に、先程までの獰猛さが嘘のように、サンダウンは
 戸惑った声でマッドの名を呼ぶ。そして、今にもしゃくり上げそうだったマッドの唇に優しく口付
 けると、ぎゅっと抱きしめた。

 「は、放せよ……!」
 「マッド…………!」

  身を捩ろうとすると、ますます強く抱き締めてくる。なんで、と泣きそうになっていると、サン
 ダウンの苦味ばしった声が耳朶を打った。

 「お前が、そんな事を考える必要はないと、言っただろう。」
 「な、なんだよ、それ!」

  自分は、考える事も許されないのか。愛しい人の――まだ薬の効果は続いている――言葉に、マ
 ッドは、ぶわっと涙を盛り上げた。その涙を優しく舌で舐め取って、サンダウンは困ったような、
 苦しいような、そんな表情を浮かべる。

 「みっともなく縋りつくのは、私の方だ………。」

  マッドの頬に添えられた手は、小刻みに震えている。そして瞳に浮かんでいるのは切羽詰まった
 ような光だった。

 「薬なんか、関係ない……。そんなものを飲む前から、私はお前が欲しかった。」

  マッドの黒い眼が見開くのを見下ろして、サンダウンは、もう一度、お前が欲しいと呟く。
  ずっと、お前が欲しかった、と。





  荒野で唯一サンダウンを裏切らずに追いかける賞金稼ぎが、サンダウンの中で特別な位置を占め
 るのは当然の事だった。端正で、くるくると良く変わる表情を持って、まるで噴き上げる炎のよう
 な気質を持ったマッドは、まるでサンダウンとは正反対だった。誰からも愛されているであろうマ
 ッドに追いかけられるたびに、優越感が頭を擡げた。
  それだけで留まっていれば良かったのに。
  本気で欲しくなったのはいつだったか。身体をぐずぐずに溶かして、自分のものだけにしようと
 考え始めたのは、最近の事ではない。サンダウンの中では、ずっと暗い欲望が渦巻いていて、今か
 今かとその時を待っていた。

    あの薬は、サンダウンに行動を起こさせる為の切欠の一つでしかない。

    ただし、サンダウンにとってはまたとない好機であったのも事実だ。一ヶ月間という期間の中で、
 どこまでマッドに自分を近付ける事が出来るか。マッドを抱いて、マッドがサンダウンだけを感じ
 るようにして、そうする事でマッドのサンダウンに対する意識が少しでも変化したなら、それだけ
 でも十分な快挙だ。
  だが、むろん、リスクが大きい事も承知している。
  マッドがこの関係に幻滅し、サンダウンを嫌悪する可能性も秘めていた。だが、身体の奥に快感
 を刻まれたマッドが、その身体を持て余してサンダウンを求める可能性もある。それだけでも良か
 った。だから激しく犯した。震えて、酷い、と呟くマッドに微かな後ろめたさと、けれどもそのや
 りとりに甘い痺れを覚えながら、マッドの身体に溺れた。
  一ヶ月という時間が終わったらと怯えるマッドに、微かな期待をしつつ、それ以上に恐怖してい
 たのはサンダウンの方だ。

  マッドは薬に侵されている。
  けれども、サンダウンは薬に侵される前から、マッドに侵されている。
  確かに薬はサンダウンを大胆にさせはしたが、囁いた睦言は薬に浮かされて口にしたわけではな
 い。むしろ、声にする瞬間は、恐怖で醜いまでに震えていた。もしかしたら、それこそみっともな
 く震えていたのかもしれない。

 「マッド………お前が、欲しいんだ。」

  傍にいてくれ、と告げた声は、正にみっともなく震えていた。それを受けたマッドは、いやいや
 と首を振る。

    「だから、それは薬の所為だろ……!」
 「違う……薬を飲む前から、お前に触れたかった。」

  信じられない、と呟くマッドの眼は、サンダウンに突き飛ばされる瞬間を恐れている恋人の眼差
 しだ。その眼差しがこのまま続けば良いと願うのは、サンダウンのほうだ。けれども悲しい事に、
 それが薬の所為である事を、サンダウンは知っている。
  怯える眼差しに、優しく口付けてから、サンダウンは囁いた。

 「マッド……信じられないというのなら、賭けをしよう。」
 「賭け……?
 「ああ……。もしも、薬が切れても私が変わらなければお前の負け……お前は大人しく私のものに
  なれ。だが、薬が切れて私が変われば、お前の勝ちだ。私は大人しくお前の良いなりになろう。」

  撃ち殺しても良いし、好きなだけ痛めつけても良い。
  そう囁けば、マッドの顔が歪んだ。

 「……もしも、俺が元に戻ってなかったら、俺に旨みなんかねぇじゃねぇか。」
 「だから、好きにしても良いと言っただろう。嫌悪の眼で見るなとお前が命じるならば、私は眼を
  抉り取ってでもそれをしない。」

  サンダウンは、マッドが逃げられないように抱き締めて、呟く。

 「マッド……これが、最後になるかもしれない。だから、今日は、一緒にいてくれ。」

  呟いた瞬間、マッドの身体が震え、その眼が力を失ったように瞼を閉じた。だが身体は逃げよう
 としない。ただ、怯えて震えるだけだ。

 「……マッド、抱いた方が良いか?その方が、何も考えなくて済むのなら。」
 「嫌だ………。」

  マッドは首を横に振り、情事に雪崩れ込みたくないと言う。快感に犯されれば、怯えは一時でも
 なくなるだろう。だが、マッドはそれを拒んで、最後の一日を怯えて過ごす事を選んだ。マッドが
 それを選んだ意図はサンダウンには分からない。サンダウンは、マッドが望むように動くだけだ。
  震えるマッドを抱き締め、耳元で何かを囁こうとして、止める。何を言っても、今は届かない事
 は明らかだった。