優しい口付けに、マッドはぼんやりと眼を開いた。身体はけだるさを訴えてはいるものの、さら
 りと清められており、眠る前の荒淫が嘘のようだ。ただし、身体中には痕が残っており、それを想
 像してマッドは少し頬を赤らめた。
  そんなマッドを見下ろし、サンダウンが小さく笑い、もう一度口付けを仕掛けてくる。口の端に
 落とされたそれは、少しくすぐったい。そして、そうやって戯れのような口付けを仕掛けてくる男
 がいつも自分の身体を隅々まで舐め回し、その後で精に濡れた身体を満遍なく清めているのだと思
 い、マッドはますます顔を赤くする。

 「マッド、どうした?」

  赤らんだ顔を見下ろしたサンダウンは、マッドが何を考えているのか分かっているのか楽しそう
 にしている。きっと、マッドの感情の詳細までは分からずとも、マッドがサンダウンの事を思い赤
 面しているのであろうと見当を付けているのだろう。マッドがそうやって、サンダウンの事で心を
 ざわめかせているのが、サンダウンは嬉しくて堪らないと言う。
  そんなサンダウンの台詞にさえ感じ入ったように頬を上気させるマッドは、赤くなった顔をサン
 ダウンから逸らす。するとサンダウンの口付けは追いかけてきて、赤い頬に唇を寄せる。

 「……なんだ?最近やっと素直になったと思ったら、まだ私から逃げようとするのか?」

  笑い含みの声は、眠りに堕ちる前の情事を指している。空気の密度がそこだけ違っているのでは
 ないかと思うほど濃厚に絡み合ったその時、マッドは恥も外聞もなく、箍が外れたようにサンダウ
 ンを求めてしまった。
  達した後も、何度も欲しがり、サンダウンを締めつけ、また絶頂を迎える。余すところなく触れ
 て欲しいと訴え、自らサンダウンを導いて、泣き叫んだ。
  それは、思い出すだけでも赤面ものどころの話ではない。口にするのも憚られるような痴態を曝
 し、その全てがサンダウンに見られていた。
  サンダウンは顔を背けたマッドに、その時の事を指しながら囁く。

 「あれほど乱れたのに……つれないな……。」
 「…………。」

  サンダウンの言葉に、マッドはぎゅっと眼を瞑った。サンダウンの言っている事は全て事実だ。
 マッドにも乱れ狂ったという自覚はある。男としての矜持も何もかもを捨て去って、女のように泣
 き叫んだのだ。その事は、後々マッドを苛むだろう。
  だが、そうでもしなくては耐えられないほど、マッドの中には焦りが渦巻いていた。

     マッドはここ数週間、サンダウンに愛され続けている。優しく丁寧に、けれども激しく愛撫され
 て、もはやサンダウンが知らぬ部分はないほどにマッドの身体は暴かれている。マッドでさえ知ら
 ない熱と声を引き摺りだされ、身体の奥はサンダウンの形を刻み込まれてしまっている。
  それらは全て、サンダウンの思惑通りの事だった。
  一ヶ月という期間のあるこの関係の中で、サンダウンはマッドに消えない痕を残すつもりだと言
 う。これまでサンダウンを裏切ってきた女達と同じ事をさせぬように、マッドがサンダウンから離
 れた後でも、サンダウンを思い出して求めるようにとサンダウンを刻み込んだ。
  身体の奥の快感を掘り起こされたマッドは、サンダウンの望み通り、サンダウンに触れられるだ
 けで身体を疼かせ、喘ぎ、無防備な裸身を曝した。
  だが、マッドにはそれらを拒む術はなかった。サンダウンの裏切りを拒む声は、紛れもなくサン
 ダウンの本心であり、それは切実な色を湛えてマッドの耳に届いた。切ないまでに焦がれ、怯えた
 声は、マッドを絆すには十分だった。
  何よりもマッドもサンダウンを愛しく思っている以上、愛しい男からの心からの願望を跳ね除け
 る事など出来るはずもなかった。離れないでくれ、と切羽詰まったように呟く声に涙を流しながら
 頷き、自ら脚を開いて受け入れる。愛しい相手に求められ、全身は歓喜に震えていた。
  だが、流される感情を引き止めようとする理性は、それでもなお機能していた。歓喜に踏み躙ら
 れていたそれは、怯えという形でマッドを締め上げたのだ。

  薬の効力がもうすぐ切れる、と。

  薬によって引き起こされる感情に抗っているうちは余りにも遅く流れた時間が、受け入れてしま
 ってからは飛ぶように早く流れる。
  サンダウンに愛されて喜ぶマッドは、これを終わらせたくないと思っている。そう思えば思うほ
 ど時間の流れは速まるばかりだ。
  一ヶ月経って薬の効果が切れてしまえば、この関係は破綻する。サンダウンはマッドに二度と触
 れないだろう。見るのも嫌だと思うかもしれない。
  だが、マッドも、そんなふうに思う事ができるだろうか。いや、サンダウンの思惑通りに育てら
 れた身体は、きっとサンダウンの事を考えただけで疼くだろう。マッドはサンダウンに、もう一度
 触れて欲しいと思うに違いない。
  マッドは、自分を優しく抱き締める男を見上げた。空色の双眸は、今は途方もなく穏やかだ。そ
 れがもうすぐ豹変する事は、誰の眼が見ても明らかだった。

 「キッド……。」
 「なんだ?」

    ゆったりと聞き返す男に、マッドは口籠った。マッドがサンダウンにしようとした問い掛けは、
 あまりにもはしたなく、またその問いに対する答えも薬の効果のある今では分かり切ったものだっ
 たからだ。

  サンダウンはマッドの中に刻み込まれた。
  では、サンダウンは?
  マッドは、サンダウンの中に何かを刻む事は出来たのだろうか。

  喉の奥で詰まったその問いを押し殺したマッドを、サンダウンは訝しむように見る。顔を覗き込
 み、途中で止まってしまったマッドの声を促すが、マッドは首を横に振って、問い掛けを口にする
 代わりにサンダウンの胸に顔を押し当てた。

 「マッド?」

  顔を隠してしまったマッドに、サンダウンは首を傾げる。サンダウンにも、マッドのその行動が
 甘える素振りよりも何かを断ち切る気配のほうが大きい事が分かったのだろう。少し間をおいて、
 どうしたんだ、と囁く。
  だが、マッドはそれに首を横に振った。マッドにしてみれば、それは口にしても意味のない問い
 でしかないからだ。薬に浸された言葉など、薬の効果が切れた途端にいつ翻るとも分からない。そ
 んな風見鶏のような言葉よりも、今は一秒でも長くサンダウンの熱を感じていたかった。
  サンダウンの胸に顔を押しつけ、心臓の音を聞く。その一拍一拍が愛おしく、しかしその間にも
 時間が無慈悲に流れている事を知らしめる。どうすれば良いのか分からず、ぎゅっとサンダウンの
 シャツに縋りつくと、その行為に何かの気配を察したのかサンダウンの腕がマッドを抱き竦めた。
  マッドの短い髪に指を差し込み、額に口付け、背中を撫でる。

 「マッド…………。」

  低い声が、耳朶を打つ。甘い、痺れをともなう声。その中にあったのはマッドを宥める色と、け
 れども何故か震えるような怯えと切望が混ざっていた。

 「マッド、お前が、怯える必要はない………。」

  その言葉は、マッドが何に怯えているのかを察しているようでもあった。けれど、やはりサンダ
 ウンの声には震えが混ざっている。

 「お前が、そんな事を考える必要は、ないんだ。」

  お前は悲しい想像をしなくても良いんだ。

     そう、きっぱりと言い放ち、サンダウンはマッドを組み敷いた。マッドの頬に手を添え、欲と切
 望を湛えた眼でマッドを見下ろす。その眼に捉えられ、マッドの身体はすぐに疼き始めた。早く、
 サンダウンに奥まで満たして欲しい。
  そんな淫らな願いを持っていると、それを叶える為にサンダウンはマッドの両脚を押し開いて身
 体を割り入れる。そして、耳元でねっとりと囁いた。

 「何も、考える必要がないくらいに、溶かしてやる……。」

  その言葉に、マッドは期待を込めて――それが現実逃避であると分かっていながら――頷いた。