砂埃を巻き上げて、荒野に咲いた街中を疾走する賞金稼ぎが一人。
  端正な顔を強張らせ、必死の形相で走る男は、サルーンを見つけるとその中の手近な宿に駆け込
 み、カウンターにいる店主が声を掛けるよりも早く、カウンターに紙幣を数枚投げつけると何の案
 内もなしに宿の奥へと走り去り、空室の扉を勢い良く開けて、開けた時と同じくらいのいきおいで
 扉を閉めた。
  ばたん、という荒々しい音に、宿にいた全員が顔を顰める間もなく、賞金稼ぎが開けっ放しにし
 ていた入口から、今度は非常に禍々しい気配が入り込んでくる。ぬっと入口から伸びた影は濃く、
 その瞬間、宿の中全体が日が陰ったようだ。
  その翳りの原因である男は、のっそりと宿の中に入ってくると、先程の一陣の風によってカウン
 ターの中で固まっている宿の主人の前に立った。
  そして、いきなり銃を抜くや、青い眼光も鋭く、短く問う。

 「………マッドを、何処にやった?」
 「は………?」

  突然の質問に、宿の主人はぽかんとする。それはそうだ。彼はマッドとやらを何処かにやった記
 憶は一度もない。が、そんな突っ込みをしたところで、眼の前にある銃口が消えるわけでもない。
 むしろ、より強く押し付けられてくる。

 「え、いや……マッドっていうのは?」
 「惚けるな……賞金稼ぎのマッド・ドッグだ。」

  この宿に駆け込んだのは見ている、と呟く男に、宿の主人はたった今、死にそうな顔で駆け込ん
 できた男を思い出す。そうか、あれがそうだったのか。
  しかし主人の呑気な様子が気に食わなかったのか、ただえさえ背が高く威圧感のある男から、更
 に不機嫌なオーラが立ち昇る。一瞬で宿の空気を氷点下にした男は、引き金にこれ見よがしに指を
 引っ掛けながら、再度、今度はさらにおどろおどろしい声で、問う。

 「マッドは……私の恋人は………何処だ?」

  低く、地を這うような声に、宿の主人も流石に背筋が凍った。慌てて身振り手振りで、賞金稼ぎ
 が駆け込んでいったであろうと思われる部屋を指し示す。それを聞いて、ようやく男の銃が宿の主
 人の額から消える。
  宿の主人から銃口を離した男は、そのまま身を翻して賞金稼ぎのいる宿の奥の部屋へと脚を向け
 た。おぞましい気配を振り撒きつつ、しかしそれでもようやく自分の前から消え去った男に、宿の
 主人はほっとして――そして男の言葉の中に、異様な単語が混じっていた事に気付いた。
  だが、それを言及するよりも先に、銃声と扉の破壊音、そして悲鳴が聞こえてきた。





  マッドは、逃げ込んだ宿の一室に急いで鍵を掛けた。そして扉の前にベッドやらテーブルやら、
 宿の備品をとにかく積み上げる。
  今のマッドに課せられた使命といえば、この部屋に賞金首サンダウン・キッドを立ち入らせない
 ようにする事だった。
  普段ならば、立場は明らかに逆だっただろう。
  賞金稼ぎであるマッドが、執拗にサンダウンを追いかけ、不快に思ったサンダウンがそこまでの
 バリケードを作り上げる――なんて事は今まで一度もなかったのだが――というのなら、まだ常人
 も理解できよう。
  だが、今のマッドに襲い掛かる現実は、全くの逆だ。サンダウンがマッドを追いかけまわし、マ
 ッドはそれから命からがら逃げ出しているのだ。
  なんでこんな事に!と思って恨んでも、それは既に起こってしまった事なので、仕方がない。と
 にかく、マッドはサンダウンから1カ月間逃げ切らなくてはならないのだ。お互いの為にも。

  だが、そんなマッドの思いは、恐ろしい勢いでしかも的確にこちらに向かってくる男の気配で、
 一気に萎んでしまいそうだ。
  マッドがサンダウンの気配を追う事に長けているのと同様に、その付き合いの長さはまた逆の事
 も生み出す。要はサンダウンもマッドの気配が何処にあるかくらい、分かるのだ。
  そして、サンダウンの足音は、きっかりマッドのいる部屋の前で立ち止まった。

 「マッド、出てくるんだ。」

  鍵を掛けてバリケードまで作った扉の向こうから掛かる声は、今までマッドが聞いた事もないく
 らい、甘く熱っぽい。一体何処からそんな声を出しているんだと思うくらい、甘ったるいテノール
 に、マッドは毛布を被って返事をしなかった。
  が、サンダウンはしつこい。サンダウンを追いかけるマッドと同じくらい、しつこい。いや、マ
 ッドは宿の中にまで押しかけた事はないので、サンダウンの方がしつこい。あいつが賞金稼ぎじゃ
 なくて良かった、などと現実逃避的な事を考えていると、再びサンダウンの声が扉を突き抜けて聞
 こえてくる。

 「マッド……愛しい人、顔を見せてくれ。」

  溜め息まじりの声に、マッドの背中に鳥肌が立つ。何よりも、聞こえてきた言葉の意味が、マッ
 ドを、これが現実であると打ちのめす。 

 「お前の顔が見たい、お前のその細い腰を抱きたい、お前の肌の匂いを嗅ぎたい………。そのジャ
  ケットを剥いて喘がせたい。」

  徐々にエスカレートしていく言葉に、マッドは今すぐに部屋から飛び出して、サンダウンの顔に
 平手打ちをかまして黙らせてやりたくなった。が、もしも一歩でもこの部屋から出たのなら、平手
 打ちをした直後に捕まる事は眼に見えている。
  往復ビンタしてやりたいのを必死に堪え、マッドは毛布の中に埋もれる。

 「マッド……愛しているんだ………だから、出てきて、顔だけでも見せてくれ。」

  たった今、顔を見せた瞬間に何をしようとしているのかを具体的に語った男が『顔だけ』で満足
 すると信じるほど、マッドはおめでたくない。
  が、その『顔だけ』で満足しないであろう男の煩悩は、部屋に閉じこもるマッドよりも遥かにア
 クティヴだった。

 「マッド……開けなければ………。」

  甘い声がその一瞬だけ低くなり、その直後、耳を劈くような銃声が響き渡った。ぎょっとして振
 り返ると、扉の鍵部分が銃弾で吹き飛ばされている。それを確認した瞬間に、扉が蹴り飛ばされた。
 一応バリケードをしているので、扉はベッドやら何やらに引っ掛かって完全には開く事はなかった
 が、しかし扉が蹴り飛ばされる度に、じわじわと動いて、開いた部分も広がっていく。
  まずい、と思ってマッドが逃げ場を探して立ち上がるのと、何度目かの攻撃でバリケードが扉ご
 とすっ飛び、人一人入れるくらいの隙間が出来るのは同時だった。
  その隙間から、悪魔の影のように入り込んできた男を見て、マッドは、ひぃ、と引き攣った声を
 上げる。
  逃げ場を求めて身を翻すマッドに、サンダウンはベッドを乗り越えて襲い掛かる。

 「マッド………!」
 「ひぎゃあああああっ!」

  生憎と僅かに脚の長さが勝るサンダウンが、大股三歩で逃げ出すマッドの背後に迫り、あっさり
 とその身体を捕まえた。そしてサンダウンは宣告通り、マッドの腰を抱き寄せる。

 「マッド、マッド……愛しい人……。」
 「ひぃいいいい!」

  耳元で熱っぽく有り得ない言葉を囁かれたマッドは、恐慌状態に陥ってサンダウンの腕から逃れ
 ようともがく。が、残念ながらサンダウンに一度も勝った事がない賞金稼ぎは、この時もサンダウ
 ンに敵うはずもなく、じっくりと抱き締められる。

 「マッド、何故逃げる?これほどまでにお前の事を愛しているのに。」
 「何故も糞もあるか!そんな気色の悪い事を聞かされたら、誰でも逃げるに決まってんだろうが!」
 「気色が悪い……お前を愛する事が気色悪いわけがないだろう。」
 「ちーがーうー!そういう意味じゃねぇー!」

  腰を引き寄せて背中にまで腕を回して、隙あらば口付けをしようとする男に、マッドは男の感情
 が根本から間違っている事を教えてやる。

 「あんたが、俺の事を愛してるだの何だの言うのは、それは薬の所為なんだよ!」
 「薬?」
 「そうだ!あんたがさっき何の考えもなしに飲んだのは、どっかのアホが作った惚れ薬だ!」

  だから、お前が言っている言葉は、全部薬の所為なんだ!

  マッドは、サンダウンの腕の中で、そう吠えた。
 




  事の起こりは至って明快であった。
  賞金稼ぎマッド・ドッグは、その職業柄、闇市めいたところに赴く事も少なくない。そして、そ
 こで見つけた珍しい物――マッドの場合は主に書物であるのだが――を手に入れる事もある。
  サンダウンが誤って飲んでしまった惚れ薬も、そうした物の一つだった。
  といっても、別にマッドが求めて購入したわけではない。生憎と、マッドはそんな物が必要なく
 らい差し迫った状況に陥った事はないのだ。
  そもそもこうした惚れ薬といったものは、偽物が多い。昔から惚れ薬や媚薬といったものは伝承
 の中にも出てくるのだが、それらを実際に使ったところで本当に意中の相手がこちらに惚れこむな
 んて事は、万が一にも有り得ない。
  だから、馴染みの情報屋が意味ありげな表情と共に、こんなんあるぜと差し出してきた物を見て
 もなんら心を動かされなかった。むしろ、お前こんなもんに頼らないと女に相手してもらえねぇの
 かと憐れみの眼で見たら、うるせぇ、と無理やり手の中に押し込まれた。
  どう考えても偽物のそれを、やれやれと思い、まあどうせ偽物だから良いか、と管理も碌にしな
 かったのがまずかった。
  いつも通りにお腹を空かせた五千ドルの賞金首に、仕方ねぇなと思いつつ提供する為のご飯の準
 備をしている間に、意地汚い賞金首が待ち切れずに酒を先に飲もうとしたのだ。
  そこまで言えば、後はどうなったのか分かるだろう。
  碌に管理もせずに放り出していた惚れ薬を酒と勘違いしたサンダウンが、誤って飲んでしまった
 のだ。半分ほど。

 「キッド?」

  ご飯の準備をしている時に、いきなりサンダウンの影が落ちてきて、マッドが訝しげに顔を上げ
 た途端、マッドはサンダウンの濃厚な口付けを受ける羽目になっていた。舌まで吸われてから、マ
 ッドは突然の事に麻痺していた思考回路が、やっと元に戻る。

 「な、何するんだ、てめぇは!」
 「マッド……愛している。」
 「はぁ?!」

  返ってきた台詞は、意味不明であった。が、マッドの反応にも挫ける事なく、サンダウンはマッ
 ドに抱き付き、耳元で囁く。マッドの鳥肌など完全に無視して。

 「マッド……お前を見ていると胸がざわつく……お前が欲しくて堪らない……。」
 「な……おい、大丈夫か、キッド!なんか変なもん食ったか?!」
 「そういえば、さっき飲んだ酒はあまり美味くなかったが……そんな事はどうでも良い。お前が欲
  しい。」

  一瞬だけ素に戻ったサンダウンが、酒をこっそり飲んだ事を白状した。白状した後、また元に戻
 ったが。
  その白状を確認すべく、サンダウンを貼り付けたまま、マッドがサンダウンが飲んだという酒を
 確認するとそれは件の惚れ薬だったわけだ。

  ああ、本物だったのか。

  偽物だと断定していたそれが、本物であると知れた時のマッドの心境は、絶筆し難い。よりにも
 よって、本物であると分かった原因が原因であるだけに。
  なんでこういう時に限って本物なんだ、という恨み節も、事が起こった以上口にしても意味がな
 い。それよりも問題は、マッドに張り付くおっさんである。耳元で熱っぽく囁くおっさんの言葉を
 無視してマッドが酒瓶を確認したところによると、ご丁寧にも『持続期間:二ヶ月』とか書いてあ
 った。サンダウンは半分飲んだから、一ヶ月は効果が持続するという事か。

  一ヶ月間も、このまんま?!

  あまりの衝撃に、マッドは文字通り言葉を失い、眼の前が真っ暗になった。一ヶ月間も、サンダ
 ウンからの愛の攻撃に耐えなくてはならないのか。というかその間に押し倒されでもしたらどうす
 ればいいのか。間違いなく、残念ながらサンダウンの方がマッドよりも強いので、マッドはサンダ
 ウンに頂かれる事になる。というかサンダウンは抱きたいと言っているから、間違いなくマッドが
 下だ。
  そんなこんなに気付いたマッドは、べったり張り付くサンダウンを掻い潜って、逃げ出したので
 ある。



 そして、冒頭に戻る。



 「その薬とは、これの事か?」

  必死に説明するマッドに、サンダウンは中にまだ半分ほど残った瓶を見せる。どうして持ってき
 ているんだ、と思いもしたが、マッドは頷く。

 「そうだよ。だから、あんたが俺の事を抱きたいとか思ってんのも、全部薬の所為だ!」
 「なるほど…………。」

  ちゃぷちゃぷと瓶の中の液体を揺らしているサンダウンに、マッドは更に言い募る。

 「いいか、一ヶ月間我慢してりゃ、あんたは元に戻るんだ!だから、一ヶ月間は俺もあんたには逢
  いに行かねぇ!いいな!」
 「………マッド。」

  サンダウンは、じっとマッドを見ると、酒瓶を手にしたまま、ずいっと近付く。

 「な、なんだよ。」

  押し倒されないようにと身構えるマッドに、サンダウンは酒瓶の蓋を開け、

 「お前も、飲め。」
 「は………?」

  マッドが、サンダウンの言葉の意味が分からずにぽかんとしている隙に、サンダウンは瓶の口を
 マッドに近付け、一気に傾けた。