マッドは愛馬の首筋に顔を埋めて溜め息を吐いた。
  ぐりぐりと顔を埋めている様子は、単に馬にじゃれているようにも見えるが、大の大人がそんな
 事をしているのはかなり奇妙である。しかも、じゃれていると言うには、その溜め息の意味が分か
 らない。
  しかし、首筋で主人の顔を受け止めたディオはそうではないらく、黒く濡れた瞳に心配そうな色
 を浮かべ、マッドの様子を眺めていた。




 My dear Accomplice





 「ディオ………どうしたらいいと思う。」

  厩で呟いたそれは、独り言のように小さな声で、聞いている者からしてみれば、誰からの返答も
 期待していないような台詞だった。
  だが、そんなマッドの台詞に、はっきりと返答があった。

 「御主人………俺、見てられないよ。」

  少し高めの男の声が、何処からともなく聞こえてくる。
  けれどもマッドは己の言葉に対して返事があった事について、特に驚く素振りは見せなかった。
 それどころか、のろのろと声を上げて、言葉を返す。

 「分かってるよ、ディオ。俺だってこれがどれだけ馬鹿らしい事か。でも、しょうがねぇだろ。」
 「俺だって分かってるけど、それでもやっぱり見てられないよ。」

  愛馬に向かって話しかけるマッドに、返事を返しているのは他ならぬ愛馬であるディオだ。
  馬であるディオがそうして喋っている事に、普通の人間ならば卒倒するか騒ぎ立てるかするだろ
 うが、ディオの変遷を考えれば特におかしい事ではない。
  かつて第七騎兵隊の騎兵用の馬として働いたディオは、部隊が全滅した時にその憎しみを一身に
 背負った。凝った憎しみで、人の姿を取る事が出来るほどに。
  人智を越えた域にまで達した憎しみの力は、今でこそ薄れてディオは馬の形に戻っているが、そ
 れでも一度背負った業は簡単には消え去らない。未だに残る憎しみは、新しい主人であるマッドの
 手により御されているが、それでもディオの中には溢れ続けている。
  その憎しみの力が、こうしてディオに人語を解させ、操る事を可能とさせているのだ。
  憎しみの名すら冠した馬は、今、酷く気忙しげに脚を踏み鳴らして憤る素振りを見せている。

 「だって御主人、あのおっさんに傷つけられてばっかりじゃないか。あのおっさん、普段は御主人
  の事なんかどうでも良いって言う素振りで、御主人を無視している癖に、都合の良い時だけ御主
  人に手を出して好きなように弄んで。」

  苛々と厩に貼られている賞金首達の手配書の一枚を、呪い殺せそうな視線で見やって、一転して
 痛ましそうな目つきでマッドを見る。荒くしていた鼻息も治め、首筋に顔を埋めているマッドの負
 担にならないようにそっと身じろぎした。

 「御主人、やっぱりあんなおっさん放っておこうよ。サンダウンは御主人の身体を弄ぶばっかりで、
  御主人の事を愛しちゃいないんだ。そんな最低な男、忘れた方が良い。」
 「言われなくったって分かってる。でもまだ諦められねぇんだ。」
 「ああん、もう!一途にも程があるよ、あんた!」

  尻尾を勢いよく振って、ディオは頭の中に思い描いたサンダウンを、ガトリングで思いっきり撃
 ち抜いた。
  頭の中だけで。

  ディオとて分かっている。マッドがサンダウンを諦められないであろう事は。ディオがマッドの
 愛馬になる前から続いていた関係だ。そんな簡単には終わらせられないだろう事は予想していた。
  しかし、理解してはいても、現実を見ればやっぱり諦めろと言いたくなってくる。
  人目を避けるように逃亡生活を続ける凄腕の賞金首と、気障で派手で何をやっても人目を惹いて
 しまう賞金稼ぎ。
  失望され蔑まれ追い立てられるように過去から逃げ出した賞金首と、何もかもを呑み下して誰か
 らも愛される賞金稼ぎ。
  相反する二つの気配が長い間傍にあれば、それは否応なしに不健全な関係へと嵌り込んでしまう。
  現に、失望される事に慣れたサンダウンはそれさえも抱え込めるマッドを前にして立ち竦み、に
 も拘わらず、マッドから与えられる熱は拒まずに必要な時だけ奪い去っていく。
  そしてマッドはその状態を誤りだと気付きながらも、結局は呑み下してしまうのだ。

  もしかしたら、どちらも同じ分だけ傷ついているのかもしれない。
  けれども、マッド側であるディオの眼からしてみれば、自分に必要な時だけマッドの状況など考
 えもせずに奪っていくサンダウンが、一方的に搾取しているように見える。
  しかもサンダウンは、マッドがそれさえも許してしまう事が分かっているのだから、狡猾だ。
  そして、サンダウンにしてみれば、自分を許してくれるのならば、マッドでなくとも誰でも良い
 のだ。

  そう考えればディオは余計に腹が立ってくるのである。
  本来ならばマッドは選ぶ側の立場の人間だ。相棒だろうと恋人だろうと敵だろうと、マッドには
 選り取り見取りで、何を選んでもよいのである。
  だが、マッドが選んだのはよりによってサンダウンで、しかもサンダウンはこれ幸いとばかりに
 マッドを弄ぶ。サンダウンには選択権などないにも拘わらず、だ。まるで、責任の一端を背負わな
 いように、マッドが追いかけるという状況を崩さずに、それでも自分の都合の良い時には奪えるよ
 うに。

  そんな不健全な状況に、マッドの明朗な気配が翳るのを、ディオは幾度となく見てきた。星が降
 りかかる夜空の下で、それさえも慰めにならないと言うように憔悴した身体を、思わず人間の形に
 なって抱き締めた事もある。 
  けれど、ディオがその状況を如何に歯噛みしたところで、マッドが消極的ながらも受け入れてい
 る以上、これ以上強く言うわけにもいかないのだ。
  憎しみを背負った馬は、自分の主人にはとことん甘かった。

 「御主人、本当に辛かったら、いつでも言ってよ。話相手にならなるからさ。」
 「おう。お前は良い奴だな。」

  首筋を撫でながら力なく微笑むマッドを、ディオは痛ましげに見やる。
  もしもマッドが、一言でもディオにサンダウンの命を奪えと命じたなら、今すぐにでもそうして
 やるのだが。
  しかしその命令は一生来ないであろう事を、ディオは痛いくらいに理解していた。

  しばらくマッドはディオの首筋を撫でていたが、やがて身を放すと、宿に戻っていく。
  その後ろ姿にはっきりと疲れを見て取って、ディオは今夜が己の主人にとって優しい夜である事
 を切に願った。
  そして、先日手に入れたマッドの黒い髪を、今日こそ使おうと心に決めた。




  客引きの女達と、それを目当てにした男達が犇き合う通りで、サンダウンはその人ごみをすり抜
 けていた。
  肩や足がぶつかった事で因縁を付けられる事を除けば、実はこうした無秩序な人ごみのほうが、
 人目を避けるには適している。
  月明かりどころか星さえ見えない夜の下では、その無秩序さはいっそう際立って見えた。
  賑やかさを通り越して混乱の域に達しようとしているその中で、サンダウンは突然腕を掴まれた。
  因縁を付けられたか、それとも気付かれたか。そう思って振り返れば、そこには嫣然とした笑み
 を浮かべるブロンドの女がいる。豊満な身体を隠しもせずに挑発的な眼をする女は、どうやらサン
 ダウンを獲物と定めたようだ。
  しかしサンダウンは残念ながら食指を動かされなかった。無言でその腕を振り払い、再び黙々と
 歩き始める。
  その後も何度か様々な女に腕を掴まれたり、身体を擦り寄せられたりした。髪の色眼の色肌の色
 体型、全てがばらばらの女達を、サンダウンは全て振り切った。
  振り切ったところで、とある宿の店先を見てふっと脚を止める。
  おそらく客引きなのだろうが、客を引く素振りを見せずに葉巻を燻らせている女がいた。黒い髪
 を結い上げもせずにただ流すに任せ、白く細い指で葉巻を弄んでいる。そこから漂う甘い香りが、
 誰かを思い起こさせた。
  まじまじと見つめたつもりはないのだが、女はサンダウンに気付いたらしく、唇にうっとりとす
 るような笑みを浮かべた。その笑みの浮かべ方に、やはり誰かが被る。

 「私に、何か、用?」

  短い言葉だったが、その声が秀麗である事は分かる。端正な声に言葉を失っていると、女は相変
 わらず笑みを湛えたまま続ける。

 「お客さん、さっきから色んな女に声掛けられてたけど、私みたいなのが好みなのかしら?黒髪で、
  黒眼で、色が白くて、線が細くて。」
 「……………娼婦、ではないのか。」

  その声の流暢さにそう思って問うと、女は別の意味で受け取ったらしい。

 「花は獲物を追わないものだわ。もしも花に追われたのなら、それは光栄だと思うといいわ。」

  自信ありげなその声に、そしてその秀麗な姿も相まって、彼女の自身が決して虚勢でない事を物
 語っている。現に彼女は続け様にこう言ったのだ。

 「残念ながら先客がいるのよ。諦めてちょうだい。」

  それとも、と彼女は囁く。

 「自分以外の男を選ばれるのが気に障るタイプかしら。」  

  どうやら知らず知らずのうちに、顔を顰めていたらしい。
  女はサンダウンの表情を見やって笑うと、音もなく立ち上がった。娼婦には見えないほど、洗練
 された動きだった。そしてサンダウンを一瞥すると、葉巻の甘い香りだけを残して、滑らかな動作
 で宿の中に入っていく。
  その残り香を追い掛けていると、先程の女と同じような気配にぶつかった。
  夜の闇よりも黒い髪と眼が、物言わず街灯の下、その灯りを少し避けるようにして立っている。
  見慣れたその姿に、はっとすると、マッドは興味を失ったかのようにサンダウンから眼を逸らし、
 背を向けて路地裏へと迷い込んでいく。
  その仕草が、先程の女と同じように見えて、サンダウンはマッドに見放されたような気がして、
 慌ててその姿を追い掛けた。

  マッドが入り込んだ路地は薄暗い。ともすれば、マッドの身体が溶け込んでしまいそうなくらい。
  いつもならばこんな闇にマッドの姿が飲まれる事はないのだが、何故か今日のマッドの気配は酷
 く曖昧で、何かに覆い隠されているような雰囲気だ。
  葉巻の甘い香りが、それを更に引き立てる。
  明瞭な気配がぼやけているだけで、妙に不安になる。

  とにかく追いついて。
  その身体を引き寄せて。

 「………何の用だよ、一体。」

  不意に、マッドがくるりと振り返って、酷く感情を欠いた声で尋ねてきた。暗がりで表情も良く
 見えないが、どうやらこちらもほとんど感情を浮かべていないらしい。

 「まさか俺に殺されに来たわけじゃねぇだろう?」

  燻らしている葉巻の先で、ちろちろと小さな橙の光が明滅している。不安定な火の様子に、一歩
 踏み出すと、マッドは一歩下がる。

 「用がねぇのなら、さっさと大通りに戻れよ。あそこなら客引きの女も大勢いるしな。あんた好み
  の女だっていたじゃねぇか。黒眼で、黒髪の。あんたそういうのが好きだったんだな。それとも、
  あの女に振られたから、他の女は嫌だってか?」
 「………………。」
 「悪ぃが、俺はそんな理由であんたの相手なんかしたかねぇぞ。大体、あの女以外にも黒髪で黒眼
  の奴は大勢いただろ。俺も確かに黒眼で黒髪だが、女がいるんなら俺じゃなくても良いだろうが。」
 「…………違う。」
 「違わねぇよ。」

  ゆらり、と葉巻から漂う白い煙が強く色を出した。何もかもがぼやけてる中で、煙だけがはっき
 りとその色を見せている。
  何もかもの輪郭を掠めさせるくらいに白さを増す煙と、その匂いと。
  それがマッドの身体に纏わりついている。

 「キッド、俺にはな、別にあんただけしかいないわけじゃねぇんだよ。あんただって、本当はそう
  だろうが。賞金首だからって娼婦は男を拒んだりしねぇ。あんたが勝手に枷を作ってるだけだろ
  うよ。それであんたは良いのかもしれねぇが、毎回それを言い訳に俺に逃げ込んで。俺があんた
  を永遠に追い続けてるとでも思ってんのか。」
 「マッド、私は、………。」

  遠くに攫われてしまいそうな細い影は、手を伸ばせば伸ばすほど、サンダウンに背を向ける素振
 りを見せる。
  マッドの台詞に、そうではないと否定したかった。あの女の姿形に足を止めたのではなく、それ
 がお前と同じ型だったから、と。 
  けれど、広がる甘い香りに言葉が押し込められてしまう。
  それどころか、マッドの気配さえ、甘い香りの所為で遠のいてしまいそうだ。
  何よりも透き通って混じり気のない気配が、歪んで消えてしまう。
  じわりじわりと広がるものは、マッドとは全く異なる気配で。

 「…………っ!」

  マッドだと思っていた気配に、別のものが混ざっている事に気付いて、サンダウンは咄嗟に眼の
 前を覆っていた煙を大きく打ち払った。
  瞬間に、夜の涼しげな風が流れ込み、甘ったるい空気も流されていく。
  その中で、突然のサンダウンの行動にたじろいでいるマッドの腕を、サンダウンは掴んだ。

 「…………誰だ、お前は。」

  マッドと同じ形で、直前までマッドの気配さえ真似ていたそれは、酷く憎々しげにサンダウンを
 見上げた。

 「ちっ、残念。あんたに少しばかり痛い眼見せてやろうと思ったんだが。まさかこんなに早くばれ
  るとは。」

  意外と分かってるって事か、と呟いて彼は薄く笑う。

 「この身体があんたの好みなのかどうなのか調べる為に、わざわざ女達に化けて手を引いて、この
  身体に似た色の女にも化けて。でも、気配で気付くって事は、どういう事なんだろうな。身体だ
  けが目当てって事じゃあなさそうだが。」

  言うや否やの弾指、その身体は跳ね上がり、うらぶれた路地の屋根に音もなく着地する。
  サンダウンが閃かせた銀の銃口にもぴくりとも怯まない。

 「まあ、今回はこれくらいで諦めるが、さっき言った事は全部本心だぜ?責任も背負わずに都合の
  良い時だけ、なんて事が出来る相手じゃねぇって事をちゃんと肝に銘じておくんだな。」

  そう言い捨て、その姿は文字通り闇の中に溶けていく。
  それを見送ったサンダウンは、しばらく呆然と消えた後を見やっていたが、

 「…………都合の良い時だけ、だと?」

  誰との関係について言われたのかなど、考えずとも分かる。先程まで、借り物とはいえその姿が
 あったのだから。
  けれども、糾弾された、その言葉の意味は。

 「…………………。」

  まるで、




 「ディオ?」

  厩から唐突に姿を消した愛馬が、消えた時と同じように忽然と厩に戻ってきたのを見て、マッド
 は声を上げた。

 「何処に行ってたんだ、お前は。人の姿になってあちこち出回るのはかまわねぇが、あんまり長く
  ふらふらするなよ。」

  ばたばたと駆け寄り、その首筋を叩くと、小さな嘶きが返ってくる。

 「心配かけて、ごめんよ。」

  主人の声に、ディオは身体から水を振り落とすような仕草をしつつ答える。
  その身体から、身に纏っていたマッドの髪が一本落ちた。