最奥に広がる光景に、マッドは息を呑んだ。
  燐寸の炎だけが光である洞窟の中は、闇に紛れていてもお世辞にも綺麗とは言い難く、せいぜい
 雨風を凌ぐ程度の役割しか担わない。苔すら映えていない事実は、やはりそこは常日頃から闇に支
 配されている事を知らしめ、ごつごつと剥き出しの岩肌は獣ですら寝床とは見做さない。
  しかし、それでも、この場所に来た甲斐があったと思うものが、曲がりくねった洞窟の一番奥ま
 った場所に広がっていた。

 「どう?」

  腕の中の子供が、微かに誇らしげに問い掛ける。
  マッドは、子供の問い掛けに、無言で頷いた。

  洞窟の岩肌に、これでもかという勢いで描き殴られていたのは、巨大なコンドルだった。今にも
 獲物目掛けて滑空しようと羽根を広げる様は、突然視界に飛び込んできたら身を竦めてしまいそう
 だ。鷲掴みにしようと限界まで開かれた鍵爪には所々に血がこびりついており、金の縁取りのある
 黒い眼には獲物の影が映り込んでいる。
  丁寧に、しかし勢いを失わずに描かれた巨鳥からは、確かに天才の息吹が感じられた。

 「僕が、描いたんだ。」

  今にも掻き消えそうな声で、しかしはっきりと少年は言った。
  マッドよりも遥かに肌の黒い少年は、やはり黒い手をコンドルに向けて伸ばす。才能を秘めたそ
 の腕は、しかし今、ゆっくりと潰えようとしていた。




  南北戦争が終わり、名義上は黒人奴隷は消え、黒人と白人の権利は同じとなっている。しかし、
 如何に法律がそう言ったところで、黒人に対して根強い差別があるのは事実だ。奴隷から解放され
 た黒人達は、しかしなかなか仕事にありつけず、犯罪者や娼婦や落ちぶれた貴族達と共に西部に流
 れる者もいる。
  力が正義となる西部の荒野では、まだ、彼らも生きやすかったのかもしれない。事実、黒人のガ
 ンマンもいたし、人手の必要な農場の経営では黒人のカウボーイが雇われる事もあった。

  だが、だからといって西部では差別がなかったのかといえばそうでもない。むしろ、根深くフォ
 ビアも蔓延っている。
  その日、マッドが訪れた場末の酒場では、黒人のウェイターが何人かいた。彼らに唾を吐きかけ
 るような輩もいるにはいたが、大抵の男達は無視して酒を飲んでいた。粛々とした雰囲気の酒場の
 中で、唯一明るい色をしているものといえば、ウェイターの子供くらいだった。
  同じ年頃の白人の子供ならばまだ遊んでいる頃合いだろうに、既に客商売をしている少年は、腕
 も細く見えたが、しかし聡い表情をしていた。事実、男達からの矢継ぎ早のオーダーに戸惑いもせ
 ず、そして一度も間違わずに淡々と仕事をこなす。
  尤も、それだけならばマッドの興味を惹く事はなかっただろうが、何度かその酒場を訪れている
 うちに、マッドは少年が草から何かを絞り取っている事に気付いた。そしてその搾り汁で、客が落
 としていった紙切れに、絵を描いている事に。

 「絵が好きか。」

  店の裏側で、こっそりと絵を描く少年にそう問えば、少年は突然話しかけてきた男に眼を丸くし
 たものの、こっくりと頷いた。

 「黒ん坊に触ったら黒いのが移るなんて言う奴もいるけれど、僕は自分の手から黒い色が出たらと
  思うんだ。」

  だって、そうしたら、好きなだけ絵がかけるもの。

  そう言って、繊細だが大胆な絵を描く少年は、確かに天才の片鱗があった。きっと、このまま少
 しずつでも黒人への差別が薄れていったなら、少年が大人になる頃には、彼は画家として大成でき
 ただろう。
  しかし、そうならなかったのは、南北戦争が終わっても慢性的に続いている差別が原因だった。
  それも、尤も凶暴で救いようがない形でそれは訪れた。




    マッドは、腹を蹴られて血を吐いた少年を抱え、かさついた森の中を進んでいく。
  まだ南部の綿花プランテーションの栄光に縋って、それを振りかざしている――そしてその所為
 で、西部ではちゃんとした生活が出来ない――かつての貴族達にとって、西部でなんとか地位を確
 立しようとしていた黒人達は、己を裏切った臣下に等しいのだろう。いや、黒人達を奴隷としてし
 か見ていなかった彼らにとって、臣下に裏切られたというよりも、虫けらに自分を踏み躙られてい
 るような感覚だったのかもしれない。
  しかし何れにせよ、マッドからしてみれば、それは己の怠惰を棚に上げての醜い言い分に過ぎな
 い。
  そして醜い男達は、貴族としての矜持も捨てたかのように一斉に年端もいかぬ少年に襲い掛かり、
 殴る蹴るのリンチを加えたのだ。
  それをマッドが見つけ、狂った貴族達の何人かを撃ち落とした時には、少年は既に自力では立て
 ぬ状況だった。
  だが、仲間を殺されたにも拘わらず、暴徒化した貴族は今度は銃を振り回しながらマッドに襲い
 かかってきた。マッド一人ならば、彼ら全員を相手取って立ち回る事もできただろうが、少年がい
 てはそれも出来ない。そこで、マッドは少年を抱え、町の裏手に広がる山の中に逃げ込んだ。
  泡を吹き飛ばしながら追いかける貴族達を一人、また一人と追い落とし、一つの洞窟の中に逃げ
 込んだ時には、辺りは闇に包まれていた。




 「貴方に見せる事が出来て良かった。」

  少年は、コンドルを指差してそう言った。年齢からは考えられようもないくらい、何処か達観し
 た声の響きは、少年が今までに受けてきた仕打ちを物語っているかのようだった。もしかしたら、
 彼は自分がこうなる事を予測していたのかもしれない。
  マッドは、異様に膨らんだ少年の腹を見て、そう思う。
  どうやら内臓が破裂しているらしいその様子から見ても、少年がこの夜を越えて生き長らえる事
 はないだろう。それに、何人もの死の間際を見てきたマッドも、少年から抗いがたい死の匂いがし
 ている事に気付いている。

 「……お前、絵を描いて暮らす事は、考えなかったのか?」

  達観した少年に、夢を見た事はないのかと問い掛ける。老成した少年の眼は、絵を黙々と描きな
 がらも諦めていたのだろうか。
  すると、彼は笑った。
  それは、達観ではなくて、悲しいほどの子供特有の願望に染まっていた。その眼で、少年は最期
 に願いを口にした。

 「そうだね。貴方を描いてみたかったよ。」