Auf die Wange Wohlgefallen










 「………っ。」



  額にかさついた弾力を感じて、マッドは小さく息を詰めた。

  ただの挨拶だと思うには、腰やら肩に回された腕がきつく、また時間も長い。その上、後頭部に回された武骨な手

 が逃げる事も許そうとしない。



  別に、逃げるような事じゃない、と自分に言い聞かせる。

 そう、別に呼吸を奪われているわけでも、身体を弄ばれているわけでもない。マッドの口はゆっくりと息を吐いてい

 るし、身体だってその気になれば腕を解く事が出来るだろう。だが、その割にはマッドはこれから決闘をする以上の

 緊張を強いられている。



  以前は、こんなじゃなかった。



  以前は、寒いと震えるこの男に単に抱き締められるだけだったのに、いつの間にか腕の中に閉じ込められる時間が
 
 長くなり、額に唇を受けている。こんな事許した記憶はないのだが、逃げない時点で了承していると見られても仕方

 がない。



  いや、そもそも大体、なんでこの俺がこの男から逃げなきゃなんねぇんだよ。



  普通は逆のはずだ。マッドが追いかけてサンダウンが逃げる。ずっとそうしていた。そもそもマッドは賞金稼ぎと

 いう事もあって、追いかける事になれていても追われる事、逃げる事には慣れていない。だから、サンダウンに突然

 向かってこられた場合、反応しきれない。
 


  懐に飛び込まれて固まってしまったマッドの緊張を解すように、サンダウンの指が髪を梳く。何度も短い髪に指が

 絡まる。だが、それはむしろ逆効果で、マッドは余計に身を竦ませる。単に抱き締められるだけならともかく、額と
 
 はいえ男の唇を受けている状態でのそれは、正直なところ身体から力を抜く役には立たない。
 
  そんなマッドの様子に諦めたのか、サンダウンはようやく身を離した。解放されたマッドの身体は、その瞬間一気
 
 に大きく息を吐いた。そこに再び手が伸びてきて、マッドは慌てて身を翻す。

  これ以上はごめんだ。

  何が悲しくて男に一日に何度も抱き締められなくてはならないのか。

  いや、その前にそろそろこの行為自体を止めてほしい。



 「なあ、もう、いい加減にしてくれねぇ?」



  砂色の金の髪と青い双眸から、出来るだけ眼を逸らさずにマッドは溜め息交じりに告げる。

  怪訝な光を瞳に浮かべるサンダウンに、マッドはもう一度溜め息を吐いた。



 「あのな、あれからどんだけ経つよ?あんたが消えて現れた日から、あんたは寒い寒いって言うけどよ、そりゃもう

  病気だろ。俺にどうこう出来るもんじゃねぇよ。俺は医者じゃねぇんだし。ってか、それに付き合わされるこっち

  の身にもなってくれ。」



  いや、そういう問題じゃないとマッドは頭を振る。

  サンダウンが病気かと問われれば、男を抱え込んで口付けまでする時点で十分に病気だ。むしろ、寒いとかよりも、

 そっちのほうがマッドには問題なのだ。手の甲と額に口付けられて、反応に困る自分に困っている。

  自分とこの男の間柄はそんな間の抜けたものではなかったはずだ。

  だが、マッドの言葉を受けた男の青は、ごく僅かにではあるがどこか傷ついたように揺れた。その眼差しに、なん

 でてめぇがそんな眼をするんだ!と怒鳴りそうになる。これではまるで、自分が悪者のようだ。



  だが、サンダウンの眼が頼りなさ気だったのは一瞬の事。

  すぐさま普段と変わらぬ心の読めない光を灯すと、短く、そうか、とだけ言い残し、マッドを置き去りにする。そ

 んな姿にマッドはぽかんとしたが、これで何とかなるのかと少し安堵して、大人しく去ってく馬蹄を見送る事にした。

  いつもなら罵声を上げて追いかけるところだが、今日はそこまでの元気はない。きつく抱かれた跡の残る身体を癒

 す為にも、少し、休みたい。



  微かに、胸にしこりの様なものが残ったが、それには気付かないふりをした。  
 

  



 
 

  辿りついた街は夜が更けても人の往来のある大きな街だった。それもそのはず、鉄道の通るこの街には、数多くの
 
 品が入ってきて、夜遅くまでそれを仕分ける人間やそれを買い求める人間が溢れかえっている。

  久しぶりだ、とマッドはディオを引きながら思う。

  以前にもこの街を訪れたが、その時よりもずっと活気がある。前来た時は、線路は此処で途切れていたが、今はも

 っと遠くまで伸びている。

  だが、人が集まる街には、当然ならず者に近い連中も集まってくる。比較的治安が良くても、それは変わらない。

 現に、マッドが通り過ぎようとした街灯の下で数人のガラの悪い男達が、一人の身なりの良さそうな男を捕まえて甚

 振ろうとしていた。



 「よお、兄ちゃん。随分と派手な恰好じゃねぇか。」

 「儲けてんだろうなぁ……俺らにもちっとは分けてくれたっていいんじゃねぇか?」



  舌舐めずりでもしそうなくらい粗野な口調と声が、ひょろりとした若い男に迫っている。若い男の緩くウェーブが

 かった金の髪も怯えたような青い瞳も、確かに絡まれそうではある。

  ただ、青年には幸運な事に、そして暴漢達には残念な事に、その場にはマッドがいた。

  マッドは音もなく歩み寄ると、嬉々として獲物に爪を引っ掛けようとしているならず者の一人の尻を蹴飛ばした。



 「ふげっ!」



  踏み潰された蛙でも、もっと可愛げのある声を出しただろう。不快な声を上げて前のめりに倒れた男など意にも介

 さず、マッドはその黒瞳に凶暴な光を浮かべて、暴漢どもを見渡す。



 「おい、通行の邪魔だ。どっか行きな。」

 「ああ!?」



  野太い、脅しを孕んだ声が一斉に上がる。

  だが、体格は良くても群れなくては何も出来ない男達の声など、マッドには到底響かない。



 「邪魔だから失せろっつってんだ。それとも何か?てめぇらにはそうやって通行の邪魔する事しか能がねぇってか?」

 「てめぇ………!」



  青筋を立ててこれ見よがしに太い腕と握り拳をちらつかせる男達だったが、その中の一人があっと声を上げた。



 「て、てめぇはマッド・ドッグ!」

 「な、何!」



  挙げられた名前に、先程まで息巻いていた顔が青ざめた。それを面白そうに見ながら、マッドは口角をくっと上げ

 る。



 「お見知り戴き光栄。で、どうする?ここで俺とやり合おうってか?」

 「く…………。」



  青ざめた顔とそこに浮かぶ青筋。けれど、怒りよりも怯えのほうが勝ったらしい。覚えてろ、という定番すぎる言

 葉を吐き捨て、暴漢の顔をしていた男達はほうほうの態で逃げ出していく。

  くだらねぇ、と呟き、マッドは自分よりも険呑な気配を出していたディオの首筋を叩いて宥める。血の気の多いデ

 ィオは、きっとあの連中を後ろ足で蹴飛ばしてやりたかったのだろう。もし連中が逃げずに向かってきたのなら、自

 分より早く蹴飛ばしていたに違いない。鼻息の荒いディオを宥めていると、後ろから声が掛かった。



 「あの…………。」

 「ああ?」

 「い、いえ、あの、ありがとうございました。」


  振り返ると、先程の男達に絡まれていた青年が立っていた。



 「ああ、別に気にしなくていいぜ。言ったろ、通行の邪魔だったって。」

 「い、いえ、助けて頂いた事に変わりはありませんから。」


   
  小奇麗な鞄を手にした青年の姿は、旅行者といった風体だ。この乾いた地では、少し淡い雰囲気を放つ姿は、あま

 り見られない。



 「実は、少し困っていたんです。この土地の言葉がよく聞き取れなくて。」

 「は?」

 「さっきの人達の言葉も、良く分からなかったんです。絡まれている事はわかったけど。同じ英語でも、土地によっ

  て、ここまで違って聞こえるものなんですね。」

 「ああ………。」


  確かに、この土地は訛りが強い。住んでいる人間は感じないのかもしれないが、初めてこの地に来る者にしてみれ

 ば、戸惑うかもしれない。


 
 「でも、貴方に会えて良かった。このままだと宿も取れないところでしたから。」


 
  青年は淡く笑って、マッドに向けて手を出す。握手の意を示しているのだ。



 「僕はレオン。貴方は綺麗な発音で話しますね………。出身は、何処ですか?」



 


 

  レオンと名乗る青年はマッドが断っても、しつこく礼をさせてくれと言い、結局近くの酒場で食事を奢って貰う事

 になった。

  学者を目指しているのだと嬉しそうに話す青年の容貌は、酒場の女達も気に入ったらしい。入れ替わり立ち替わり

 現れる女達は、マッドにも媚を売るが、それと同じくらい西部とは毛色の違った青年に流し眼を寄こす。尤も、視線
 
 を向けられているレオンは話に熱中している所為か、全く気付いていない。そんな様子に苦笑しながら、マッドはグ

 ラスを空ける。



 「貴方も、どこかの大学を出たんじゃあ?」



 レオンの言葉に、マッドは苦笑いを浮かべたまま、何故?と問う。すると彼は屈託なく笑う。



 「いえ、発音もそうですが、立ち振る舞いも綺麗ですし。」



  その言葉に一人の女が反応する。



 「そうなのよ。マッドはそこらの荒くれどもと違って、すっごく動きが良いのよ。だから、あたし達女は、いつも誘

  われんのを待ってんの。」



  ねぇ、と絡む女の腕をやんわりと引き剥がし、残念だが見よう見真似だと言っておく。発音も立ち振る舞いも、綺

 麗だと、何度か言われた事がある。だが、それは女だけでなく、マッドを飼い慣らそうとする金持ち連中も引き寄せ
 
 る。良い事ばかりではない。

  空になったグラスをしばらく弄んでいたが、マッドはそろそろ引き上げるか、と立ち上がる。その姿に、女はつれ
 
 ないわねぇと呟き、レオンは慌てて立ち上がる。
 
 

 「別に慌てなくても、宿まで送ってやるぜ。」

 「あ、はい。」



  ごそごそと金を払う青年の後姿を見ながら、マッドは真逆だなと思う。

  同じ金髪碧眼なのに、あの男とは完全に逆だ。

  淡い印象のある青年とは逆に、サンダウンは乾いた砂の印象が付きまとう。金髪にしてもふわふわとした青年のそ
 
 れとは違い、硬い馬の毛並みを思わせる。

  そして身体に残っている男の抱き跡を思い出し、そのまま最後に見た男の眼差しに、少しだけ胸に違和感を感じた。

 だが、気の所為だと振り払う。

  一方的に何かされていたのはこちらなのだから、別に何かを感じる必要はないはずだ。



 「お待たせしました。」
 
 

  金の髪を靡かせて駆け寄ってくる青年に、我に返り、マッドは行くか、と歩き出す。

  辿りついたのは、いつも自分が使っている宿よりも数段格上のもの。だが、この青年にはこれくらいのほうがいい

 だろう。金もあるようだし、力のない彼には、こういった堅牢な場所のほうが身を休める事ができる。受付も済ませ
 
 てやって、安堵した表情を曝すレオンにマッドは言った。



 「この通りを真直ぐ行ったところに、随行者を斡旋してくれる店がある。俺の名前を出せば、腕のいい奴を紹介して

  くれるだろ。」


  金があるのなら、それぐらいの事をしたほうがいい。あっと言う間に食われてしまう風体ならば、自分の持てる金
 
 で自衛するしかない。



 「貴方は………?」



  来てくれないのかと懇願する青い眼に、マッドは首を竦める。



 「わりぃな。俺はそういう仕事はしてない。それに、基本、一人で動く。」



  それ以上に、マッドといたほうが危険だ。賞金稼ぎであるマッド・ドッグを狙う輩は大勢いる。マッドの命を身体
 
 を奪う為、この青年を楔にしようとする輩は、必ず出てくるだろう。

  じゃあな、と手をひらりと振り、背を向けようとした腕を、青年の手が掴んだ。振り返った時、思った以上に近く
 
 に端正な顔があり、ぎょっとする。眼を大きく見開いたマッドの耳元で、レオンは完璧な発音で告げた。  
  


 「こんなに赤の他人に親切にして、気を持たせておいて、そんな事を言いますか?」

 「ただの親切心を好意と勘違いしてほしくはねぇな。」



  どうやら、西部では少しばかり綺麗なマッドの所作は、この洗練されたお坊ちゃんの琴線に触れたらしい。どれだ
 
 けスラングを織り交ぜて言葉を作っても、何故か学の高い金持ちは、滑らかなマッドの発音を気に入ってしまう。こ

 の青年も、訛りが酷くても朴訥な人間より、マッドのほうが好みのようだ。

  マッドは内心で舌打ちしながら、口元に皮肉な笑みを浮かべてみせて青年の誘いを一蹴する。だが、恵まれた人間

 は意に沿わないという事態に慣れておらず、諦めが悪い。青年の、苦労を知らない綺麗な手がマッドの首に巻き付く。

 

 「謝礼なら、弾みます。なんなら、貴方をずっと雇ってもいい。」

 「言ったろ?俺は金では雇われねぇんだ。そういう職種でもねぇしな。」

 「貴方なら、すぐに僕達のいる土地でも働けるのに?」

 「ごめんだ。」


  レオンのいる土地というのは、麗しく整備のされた洗練された人々の暮らす土地の事だろう。だが、マッドはそん
 
 な地で生きていく気はない。

  大体。



  ―――まだ、キッドを撃ち取ってねぇしな。 


  
  諦めきれない青年は、息が触れ合うほどの至近距離で、切なげに囁く。
 
 

 「また、逢えますか………綺麗な人?」

 「お前が思うよりも、荒野は広いんだぜ?」



  ぞんざいに、しかし二度と会えない事を告げてやる。すると、酷い人だ、という呟きが聞こえた。そして直後に感

 じたのは、頬への柔らかく湿った温もり。同時に感じたのは、背筋を焼き切るほどの気配。



 「貴方に、逢いに来ます。」

 「賞金首になったら、逢いに行ってやるよ。」



  背後で立ち昇る気配に対するように、その胸を撃ち抜いてやっても。いいけれど、きっと、あの男に対するものほ

 どの想いは与えてやれそうにない。腕に残っている抱き跡が、気配に共鳴するように疼いている。
 
  マッドは青年から身を放し、獣のようなしなやかさで宿の前の通りへと駆け下りる。そして、灯りの幾つも生えた

 通りとは対照的に、黒い闇が潜んでいる路地へと向かった。青年の視線は背に感じるが、それよりも視線の先にある

 闇の中から感じる気配のほうが強くマッドを引き付ける。

  歩きながらホルダーに手を伸ばし、愛銃を引き抜く。冷たいその感触と迸る気配に身が震える。何故そんなに気配

 を露わにしているのかは知らないが、それはもはやマッドに撃ち殺せと言っているようなものだ。もう、気配だけで

 何処にいるのか分かる。獲物を前にした肉食獣のように、マッドの気分は高揚する。
 
 

  だが、その気分は不意に殺がれた。

  急に、有り得ないくらいに感じていた気配が消えたのだ。見えない壁に阻まれたように立ち止ったマッドは、怪訝
 
 そうに薄暗い闇に眼を凝らす。

  その眼前に、大きな手が闇から生えたように伸びてきた。咄嗟に銃口を上げた時には、圧倒的な気配に視界を遮ら

 れている。 

  身体に絡まる熱と紫煙。

  銃を掲げた腕を抑え込まれ、身体を冷えた路地の壁に押し当てられる。

  そんな自分の様子を、まるで暴漢に襲われる処女のようだと冷静な自分が指摘する。まあやたら冷静なのは、相手
 
 が誰なのか知っているからなのだが。しかし、その冷静さは、相手の次の行動によって遥か後方にすっ飛んだ。



  頬に当たったかさついた弾力。

  何、と頭が判断する前に身体が動いた。

  抑え込まれていない腕が、自然と腹の横で握り拳を作り、そのまま抉り込むように発射される。



 「……………。」



  自分より僅かばかり高い位置にある青い双眸をマッドは睨みつける。少し自分から離れた男は、不可思議な光を眼

 に灯してマッドを見下ろす。マッドの拳は、サンダウンの腹に届く一歩手前でサンダウンの手によって阻まれていた。
 
 

 「…………てめぇ、俺はこの前いい加減にしろっつたよな。」

 「それに同意した覚えはない。」

 「『そうか』っつっただろ、てめぇは!」

 「それは世間一般では同意の言葉ではないな…………。」



 素っ気なく言い放つと、サンダウンは再びマッドの頬に口付ける。



 「っ……止めねぇか!」

 「………何故?」

 「毎回毎回おんなじ事言わせんな!男同士でやるもんじゃねぇだろうが!」

 「さっき男にされていたな………。」

 「アホか!あれはただの別れの挨拶だろうが!」

 「随分と口説かれていたようだが………。」

 「くどっ…………!?」

 

  確かに口説かれてはいた。だが、それを何故この男にとやかく言われねばならないのか。いやそもそもこの男はど

 こから見ていたのか。

  いやいやそれ以前に。



 「大体!賞金稼ぎと賞金首がする事じゃねぇ!」



  そう、それだ。

  賞金首が賞金稼ぎを抱き締めて、手の甲やら額やら頬やらに口付けを落とす理由など、賞金稼ぎであるマッドの思
 
 考が弾き出せるのは一つしかない。

  結局、あの青年もこの男も、自分の身体を欲しがるのだ。観賞用か欲望の捌け口か知らないが、マッドは自分の所

 作と体躯がそういった眼で見られる事を知っている。女ならともかく、男にそんな風に見られるのは、真っ当な思考

 回路を持つマッドとしてみれば堪ったものではない。

  そもそも、これまで好きなようにさせていたのだって、サンダウンに疚しい部分がないと信じていたからだ。寒い
 
 と自分を抱き込む男の身体は実際に震えており、縋る指も必死だった。

  だが、徐々に変化する男の行動と、冷静な考えを照らし合わせてみれば、結局行きつく答えは一つしかない。

  マッドは身を捩り、サンダウンから逃げようとする。

  だが、サンダウンの腕はマッドを縛り上げ、冷たい壁に一層強くマッドを押し付ける。



 「キッド………!」

 「お前しか…………。」



  マッドの抗議の声にサンダウンの声が被さった。ひっそりとした声は耳朶のすぐ近くで聞こえる。背中に回された

 手が、確かめるように身体をなぞる。



 「お前しか、いない。」



  震える指の動きにつられるように吐き出された言葉も、心なしか震えている。肩口に顔を埋められているので表情

 は分からないが、耳に届いたテノールはマッドの眼を見開かせるには十分だった。

  その頬に、再びかさついた唇が落とされる。ちょうど、あの淡い色を放つ青年が熱を落とした場所。

  不意に離れる影。

  見上げた先にある金と青は、見慣れた荒野の砂と空の色をしている。どちらも身近にありすぎて、深く感じた事は

 なかったが、いざ見つめてみるとその存在は大きく主張している。あんな、淡い色など一瞬で塗り潰されてしまう。

  もう逃げる場所などないのに、マッドは反射的に後退って壁にすり寄った。濃い陰を引いた男の顔の中で、切れ長

 の瞳が硝子のように閃いている。

  マッドの額に陰が落ちる。次は、再び頬。そして最後に、未だバントラインを握っている手の甲に。

  柔らかなものでも掬うかのように指は婉曲し、マッドの身体に触れる。乾いた唇は、傷つけるのを恐れるかのよう

 に吐息が当たる事がわかるような位置で止まる。ほとんど拘束の意味を持たないサンダウンの腕。撃ち抜こうと思え

 ば撃ち抜ける。だが、震える男の身体に銃を突き付ける事ができない。



 「マッド…………。」



  耳の奥で木霊するかのように低く響く声。

  カタカタと震えているのは、もしかしたら自分なのかもしれない。

 

  お前しか、。



  それは、どういう意味だ。

  問い掛ける事が、恐ろしいほど躊躇われる。反響する言葉に、耳を塞ぎたくなる。

  何にも執着せず荒野を彷徨う男の内面に広がる暗い縁を見たような気がして、マッドはそこから眼を逸らすように

 瞼を閉じた。だが、身体に回された腕から広がるサンダウンの熱が、マッドの瞳を抉じ開けようとしている。


 
  瞼の裏に砂嵐が走るくらいにきつく眼を閉じ、マッドは外部からの感覚を切り離した。
  
  











頬の上なら 厚情 のキス