あれ以降、何かが変わったのかと言われれば何も変わっていないと言うしかない。あの日、マ
  ッドの賞金稼ぎとしての気配を直に浴びたマリーが、何かをマッドに言おうにも、マッドとマリ
  ーが顔を合わす機会自体が訪れなかったのだ。
   何せ、マッドは忙しい。
   西部一の賞金稼ぎの座にいる彼は、彼自身の牙にかかった賞金首の対応に追われているだけで
  なく、情報網にかかった情報の真偽を見極める事にも手を掛けなくてはならない。少しでも気を
  抜けば、すぐにでも事実が覆い隠されてしまう荒野では、過去にどれほど遡る事が出来るのかが
  ものを言うのだ。
   そんなマッドが、たかが賞金稼ぎ一人の為に避ける時間はなかった。

   後にマリーが語ったところによれば、そんなマッドの負担を少しでも軽くしたかったらしい。
   一人で嘆きの砦の頂上から全てを見渡さねばならない彼を、楽にしてやりたかったのだ、と彼
  女は語った。
   まして、そうする事でマッドに認められるならば、尚更そうするしかないと思ったのだ、と。
  マッドの認められて、マッドの隣に立てば、マッドの負担は少しでも楽になる。そう思った。

   何故なら、マッドはマリーを唯一、女とか男ではなく、賞金稼ぎとして扱ってくれた男だった。
  彼は最初に言った通り、マリーを身体の関係としては見なかったし、だからと言って女に対する
  配慮も欠かさなかった。それは媚びとかではなく、何処までも自然すぎる動作だった。
   娼婦に対するものではなく、しかし男の賞金稼ぎ達への態度とも違う。
   マリーにとっては心地良いそれが、マリーにとっての立ち位置となるにはそう時間は掛からな
  かった。そしてそれは、賞金稼ぎ達が危惧したように、マリーの中の自尊心を大いに擽ってしま
  ったようだった。

   もしもマリーに対してそんな態度をとったのが、そのへんにいる普通の賞金稼ぎだったなら、
  せいぜい微笑ましく見つめるだけだっただろう。しかし賞金稼ぎ達の中にそんな気の利いた事が
  出来る人間はおらず、そして唯一そんな器用な事が出来るのは、賞金稼ぎの王であるマッドだけ
  だった。
   そして、マッドは紛れもなく――賞金稼ぎの頂点という立場であるが故に――特別な存在だっ
  た。でなければ、マリーの行動一つにこんなにも娼婦達が過敏になる事はなく、娼婦達の動向に
  賞金稼ぎが胃を痛める必要もない。
   マッドがマリーを賞金稼ぎとしての立場を確保すればするほど、マリーは自分に誇りを持ち、
  そしてそれは態度に現れて娼婦達をいきり立たせ、それが男達に波及する。今や、娼婦達がマリ
  ーを罵る場面は少なくなく、それに対してマリーがまるで女王のように威厳のある態度で迎え打
  つのは当然の出来事になっていた。

   女王。
   そう、マリーは女王になりたかったのだろう、と誰かが言った。
   それは彼女と親しかった賞金稼ぎが言ったのかもしれないし、酒場のマスターが言ったのかも
  しれない。

   誰が言ったともつかないその言葉は、しかし決して的を外していなかった。
   でなければ、何故、マリーが単身で、サンダウン・キッドのもとに向かおうとするだろうか。
  きっと彼女は、彼女が口にした通り、マッドの隣に立ちたかったのだろう。もしかしたら、マッ
  ドを楽にしたいだとか、そういう言葉は、その後で付け足された言葉だったのかもしれない。
   ただ、マリーはマッドの隣に立ちたかったのだ。
   その事は、むしろ、彼女に行く手を阻まれたサンダウンが一番分かっていたのかもしれない。

   夕暮れにまだ少し時間がある荒野で、眼の痛くなるような西日を受けて立つ細い影に、サンダ
  ウンが眼を瞬かせたのは、マッドが食人鬼達を一掃して一ヶ月ほど経ったある日の事だった。
   馬を止めて立ち止る人影から、隠しようもない殺気が迸っているのを見るまで、サンダウンは
  マッドとの会話をマリーに見られていた事を忘れていた。それもそのはず、荒野を一人彷徨うサ
  ンダウンには時間の流れさえも曖昧で、人から逃れるようにして生きる足取りからは、極端に人
  間についての記憶を忘れていく傾向にある。
   そんなサンダウンの逃避行の中で、唯一の例外が、サンダウンに忘れかけた世界を思い出させ
  てくれるマッドであり、彼だけが世界との絆でもあった。
   だから、マリーを思い出す事が出来たのも、マッドがその時傍にいたからであり、マリー自身
  には興味はない。

   ただ、それでも立ち止ったのは、そこから湧き上がる殺気がどうとかではない。
   マッドの周囲にいる賞金稼ぎならば、サンダウンに銃口を向けようものならどうなるか分かる   
  はずだ。にも拘わらず、サンダウンに銃を向けてきたマリーに、本当に微かな引っ掛かりを覚え
  たのだ。
   確かにマッドは賞金稼ぎ達を支配しているわけではないが、しかしある一定の意向を聞いてい
  たはず。その意向を無視している、この女は、一体。

   別にマリーがマッドにとって特別な存在だと思ったわけではない。それは、あの日、マッドが
  マリーに欲望そのままの気配をぶつけた事から知れている。だが、あれほどの怒りを見せられて、
  それでもこうしてサンダウンの前に現れた彼女に、厄介事に臭いを嗅ぎつけずにはいられなかっ
  た。
   だから、今にも銃を抜き放とうとしているマリーから、数メートル離れたところで愛馬の脚を
  止めさせた。

  「サンダウン・キッドね。」

   凛とした声に微かに絡んだ緊張と、それに紛れてしまいそうな傲慢な色に、サンダウンは全て
  を理解したような気がした。そして浮かんだのは、この場にいない男への苦笑いだった。
   あの日、サンダウンはマッドに確かに警告したはずなのに。
   その警告通りに、彼女は勘違いをして、こうしてマッドの意向を背くほどに増長しているでは
  ないか。いくらマッドが賞金稼ぎを支配していないとは言っても、流石にこれはないんじゃない
  かと思う。
   もしくは、自分の魅力に気付いていないのか、あの男は。
   時には自分の身体を囮にしてならず者をおびき出す癖に、どうしてこうして肝心なところで自
  分の魅力が引き起こす事態について、何らかの手立てを講じていないのか。それともやはり、変
  なところで自分を過小評価しているのか。サンダウンでさえ、絡め取られているというのに、分
  からないのか。
   ぶつぶつと腹の底で、此処にいない男への愚痴を呟いていると、マリーは銃を掲げてサンダウ
  ンの額に狙点を合わせる。赤毛の髪がひらひらと靡く中、彼女は朗々と告げる。

  「貴方を此処で捕えるわ。」
  「……………。」

   無言で見つめるサンダウンに何を思ったのか、マリーは眼付を鋭くする。

  「女だからと言って甘く見ないで頂戴。こう見えても修羅場は潜り抜けているわ。」
  「……………マッドよりも、か?」

   殊更無感情な声で問うと、マリーの白い顔が、髪の毛と同じくらい紅潮した。その変調に、あ
  あやはり、と思う。サンダウンの琴線がマッドであるように、マリーの中でもマッドが琴線とな
  っている。
   無自覚で気紛れな彼女の王は、彼女の誇りを守りはしたが、それを増長もさせてしまった。彼
  女に、サンダウンを倒せばマッドに認められるという夢を抱かせるほどに。
   そしてそれは、紛れもなくマッドにとっての怒りの琴線だ。
   賞金首の王は、自分の対極に位置する残酷なほど優しい賞金稼ぎの王の、腹立たしいほど身勝
  手な――けれどもサンダウンにしてみればこの上なく甘美な――気紛れに、呆れと愛おしさを込
  めた溜め息を吐く。

  「去れ。今なら、まだ、マッドの怒りも浅い。」

   渋面を作るだろうが、けれどもマリーを撃ち殺すほどの事はしないだろう。
   しかしサンダウンの忠告は、マリーには届かず、むしろ逆上させるだけだった。

  「貴方に、何の権利があって、そんな事を言われなきゃならないの!」
  「マッドに殺されたいのか。」
  「貴方も他の賞金稼ぎ達と同じ事を言うけれど、貴方はマッドの何を知っているつもりなのかし
   ら?」

   挑発的な物言いに、サンダウンは顔を顰める。
   敵であるサンダウンがマッドを語ったのが悪かったのか。いやそれよりももっと前、サンダウ
  ンとマッドが二人で話をしているのを見られたのが悪かったのか。
   きっと、後者だろう。
   マリーはあの時、あの場の空気から、サンダウンがマッドに一番近しい玉座に座っている事を、
  女の勘で悟ったのだ。だから、サンダウンを撃ち殺そうと決めたのだろうか。
   自分がマッドの隣に座る為に?
   だとしたら、思い違いも甚だしい。
   そんな思い違いの所為でサンダウンは人を殺すつもりはないし、そしてマッドに人殺しをさせ
  るつもりもない。そう、別にマリーを思い遣っての事ではない。それにサンダウンも、マリーを
  思うほど心が広いわけではない。

  「あれの怒りの琴線が何なのか、知っているつもりだ。」
  「ふざけないでちょうだい。彼は『嘆きの砦』。誰よりも冷然として裁きを下すのを、私は見て
   きたわ。他の賞金首でも良いのに、わざわざ極悪な犯罪者を選んで狩るところを。そんな彼が、
   賞金首に心の内の何かを知らせるなんて有り得ない。仮にあったとしても、それは思惑があっ
   ての事よ。」

   それは、サンダウンには嘲笑に聞こえた。まるで、お前が彼の人に近付けるはずがないのだ、
  と言われているよう。
   マッドが『嘆きの砦』である事はサンダウンも知っている。けれどもそれは、マッド特有の気
  紛れの一つだ。そして賞金稼ぎの王である彼が、覚悟を決めて持つ、法を掻い潜った裁きの刃だ。
  マッドにしか座する事は出来ず、マッドにしか断ずる事は出来ない。 

   そんな事は、サンダウンはとうの昔に知っている。

   だが、マリーの物言いが、サンダウンの腹の底で蠢く何かを引っ掻いた。ぞわり、と広がるそ
  の得体の知れない気配に、マリーは気付いただろうか。気付いたとしても、サンダウンが本性を
  現わしたとした感じないかもしれない。それは確かに正しいのだが、けれどもそれを押し留める
  事など、小娘一人には不可能だろう。
   サンダウンの牙を受け止めて微笑んでいられるのは、この世にただ一人しかいない。

   そしてその気配は、サンダウンがマリーの首を捩じり切るその前に、荒々しい馬蹄を響かせて
  斜陽の光と共に閃いた。