ぽたぽたと赤い液体がマッドの手から滴り落ちる。
  それを止める事もなく、身体をずるずると引き摺るように歩くマッドを、誰もが遠巻きに眺めて
 いた。
  いつもならば身体にしな垂れかかる娼婦達は蒼褪めてその様子を隠れて見やり、賞金稼ぎ仲間も
 腫れ物に触れるかのように眼を逸らす。
  普段は狩りの間でもない限り、殺意に満ちた気配を放つ事のない男から、月さえも射殺せそうな
 険呑な雰囲気が醸し出されている事に、皆が怯えて身を隠す。全ての熱源であるマッドが恐ろしく
 冷徹な炎を上げている事でサルーンのある通りは静まり返り、そこだけ極寒の冬が訪れたかのよう
 だった。

  そんな中、氷を割るようにマッドに近づこうと動いたのはマリーだった。マリーはこれまでマッ
 ドがどんな形であれ、血を流しているところを見た事がない。尤もマリーはマッドと共闘した事は
 なく、もしかしたらマリーが知らないだけでマッドも数え切れないほど血を流しているのかもしれ
 ないが。
  しかし、マリーが知るマッドは、突き抜けるような黒い眼と爆ぜるような白い光を浮かべている
 のが常で、赤い血を流しているところなどは想像もつかなかった。だから、サルーンを訪れるで
 もなく、町を囲う柵に凭れてぼんやりと夜空を見上げる姿は、異様と言えば異様に見えたのだろう。
  だが、その異様な姿であるが故に近づこうとしたマリーを、他の賞金稼ぎ達は首を横に振って引
 き止める。止せ、と。
  何故と振り返れば、やはり彼らは首を振るばかりだった。

 「今のマッドはな、機嫌が悪いんだよ。」
 「だから、何故?」

  マリーは機嫌の悪いマッドを見た事がない。それは即ち、マリーがマッドの事をほとんど知らな
 いという事だ。彼女はマッドがこの西部においてどれほど恐ろしい存在かを知らない。

 「今日のマッドは、決闘に負けたのさ。」

  その言葉に、マリーは怪訝な表情をした。確かにマッドは怪我をしているが、しかし大怪我とい
 うわけではなさそうだった。どう考えても、決闘をした後には見えない。
  しかし賞金稼ぎ達は依然として決闘に負けたと言う。

 「マッドを傷つける事なく、決闘に勝ってみせる賞金首が、この荒野でただ一人だけいるのさ。マ
  ッドはそれを追い掛けて、いつも返り討ちにあってる。」

  お前も聞いた事があるんじゃないのか?

  賞金稼ぎ達の言葉にマリーは首を横に振る。マリーは賞金稼ぎとして日が浅い。きっと、マッド
 が誰を追い掛けているのかもまだ知らないのだろう。
  何も知らない少女に、男達は、何れ分かる事だが、と呟く。

 「サンダウン・キッド。5000ドルの賞金首さ。マッドが追いかけ、そして今まで唯一その首を腕に
  抱けなかった男だ。決闘して負けても、殺される事もなく生かされ続けている。それはマッドに
  とっては限りなく屈辱だ。」
 「生きている事が?」
 「ああ。マッドだけじゃない。俺達だってそうだ。西部に生きる男共は皆そうだ。だから今のマッ
  ドには近づくんじゃない。今のあいつほど、屈辱のあまり怒り狂っている人間はいないだろうか
  らな。」
 「馬鹿じゃないのかしら。」

  男達の慟哭にも似た声を、マリーは一蹴する。

 「生きている事が屈辱だなんて、馬鹿馬鹿しいわ。死んだ獅子よりも、生きている犬の方がマシっ
  て言うじゃないの。決闘だろうとなんだろうと、生きていればまたやり直せるのに。それに、貴
  方達、マッドの事を何も知らないんじゃないかしら。」

  彼女は賞金稼ぎ達を見回し、はっきりと告げる。

 「彼ほど生きる事に貪欲な人間は、この西部にいないわ。そんな彼が、生きている事を屈辱だなん
  て思うわけがないじゃない。」

  きっぱりと言い放ち、マリーは唖然とする賞金稼ぎ達を置いて、遠く離れた場所で空を見上げて
 いるマッドのもとへと、ずんずんと歩み寄っていく。彼らが我に帰って、止めようとした時は既に
 遅く、マリーはマッドのすぐ傍に近付いていた。




  今にも手を伸ばしそうな表情をして夜空を眺めているマッドは、マリーが近づいても一言も言葉
 を発しなかった。一瞥さえ向けないマッドに、マリーは戸惑いなく声をかける。

 「月でも欲しがっているつもり?」
 「あんな紛いモノ、いらねぇよ。」

  心此処にあらずと言わんばかりの様子だったマッドは、しかしマリーの声に間髪入れず返した。

 「俺は、あんな誰かの光がねぇと光る事もできねぇモノは、欲しくねぇな。」

  薄い笑みを孕んだ言葉は、果たしてマリーに自嘲として届いただろうか。しかしマッドにはそん
 な事はどうでも良く、彼はようやく月から眼を離し、マリーをその黒い眼に映した。先程まで見つ
 めていた夜空の色に染まったのだと言わんばかりのその眼の色は、賞金稼ぎ達が杞憂していた怒り
 の色は一欠片も見受けられない。
  それを見て、マリーは気が抜けたような表情をした。

 「貴方の仲間が、貴方が怒ってるんじゃないかって怯えてたわ。」

  その言葉に、マッドは苦い笑みを浮かべる。

 「貴方が、決闘に負けて殺されなかった事を屈辱に思っているとも言ってたわ。」

  マッドは言葉を返さず、ただ、喉の奥だけで笑う。

 「どうして、その賞金首に拘るの?」
 「他に出来る事がねぇからさ。」

  マッドの言葉は、マリーの意表を突いたようだった。少し見開かれた瞳にマッドは笑みを消さず、
 言葉を続ける。

 「賞金稼ぎなんて、所詮、賞金首を撃ち取らねぇと何もできねぇんだ。賞金首がいなけりゃ、何の
  役にも立たねぇよ。今から、他の何か別の仕事をしろって言われても、無理だな。だから、せめ
  て、賞金額のでかい賞金首を撃ち取って、名を上げるのさ。」

  そう月が欲しいのではない。
  月は自分と同じ。
  自分が欲しいのは、自分を輝かせる太陽だ。

 「賞金稼ぎなんて、そんなもんさ。それが嫌なら、早いとこ止めるんだな。俺はもう、止める事が
  出来ない。」

  賞金稼ぎの頂点に昇りつめ、その血色の玉座に座った時に、既に戻る道は閉ざされている。なら
 ず者が蔓延り、彼らが法と癒着している不毛の大地では、その玉座が法の網目を掻い潜って人々の
 嘆きを金次第で払拭する。そこに座る事を決めた時点で、マッドには逃げる場所が潰えている。
  いや、もしも代わりの誰かがいるのならば、その道は再び開くだろうが、仮にそうなったとして
 も、マッドは自分が戻らないであろう事を知っている。
  その理由は、

  他に出来る事がない。

  それは、賞金稼ぎ以外で生きる術がないという以外に、正しくマリーの言葉に対する問い掛けの
 答えを孕んでいる。
  その賞金首に拘る理由は何か、とマリーは聞いた。
  だからマッドは、他に出来る事がない、と答えた。
  そう、マッドには、サンダウン・キッドを追い掛ける以外に、太陽を手に入れる術がない。そし
 てマッドは他に、本当に欲しいものがない。だから、マッドは賞金稼ぎを止める事が出来たとして
 も止める事が出来ない。
  それ故に、手の届かない自分に怒り狂い、死という焼き鏝さえ押す事も叶わない事が屈辱だ。

  これが、マリーに理解できるだろうか。
  いや、理解してもらう必要すらない。
  これはマッドだけが知っていればいい、あの男との契約だ。
  この荒野で対極に位置する、あの男と、自分だけが知っていればいい。

  マッドは、そっと腰に帯びたバントラインに触れる。
  微かな硝煙が漂い、それがピースメーカーの銀色を思い出させて、マッドは一瞬、マリーはおろ
 か、世界を忘れた。




  「マッドは怒ってもなかったり、生きている事を屈辱だなんて思ってなかったわ。」

  しばらくして戻ってきたマリーの言葉に、賞金稼ぎ達は一様に顔を見合わせ、ゆっくりと首を振
 る。
  マリーの言葉は、賞金稼ぎ達も知っている事。彼らはマッドが自分達に八つ当たりをするなど思
 っていない。生きる事に貪欲である事も知っている。
  けれどもマリーは何一つ知らないのだ。マッドのそれらを、一瞬で覆す事が出来る人間がいるこ
 とを。
  その男が絡む事になら、マッドは好きなだけ怒り狂うし、そしてその男の為ならマッドは死すら
 厭わない。