Wiedersehen









 酷く冷たく、生命の乏しい、悲しみに彩られたその世界で、魔王として『憎しみ』と名乗った、憐れな青
 年の身体が崩れ落ちた。








 日勝は、この国で誰よりも強く、そしてこの国の全てを滅ぼした青年の亡骸を見る。

 実際、彼は強かった。

 まるで御伽噺やゲームの世界に出てくるような、日勝の知る力とは全く違う力で、己の強さを見せつけていた。

 けれど、あまりにも人から離れすぎたその力に、日勝は妙に歪んだものを感じていた。


 
 自分以外の者全てを滅ぼした彼は、確かに『最強』ではあったのだろう。

 しかし、彼の選んだ『最強』の座は、日勝が求めている者とはあまりにも程遠い。

 誰もいない世界で叫ぶその名称は、酷く滑稽で、その意味をなさない。

 越えるべき存在も競い合う存在も全て消し去ってしまえば、結局『最強』という誰かがいてこそ意味をな
 す言葉は、全くの無意味だというのに。

 人の悲鳴と嘆きと苦しみで形作られたその座は、どれほど冷たく硬いものだったのだろう。

 一人ぼっちの部屋で、自分が一番なのだと言う様は、友達のいない子供のようだ。



 可哀そうに。



 他人の事など普段は気にしないが、心の底からそう思う。

 日勝には、彼の悲哀や嘆きを完全には理解できない。

 だが、彼は確かに何かに悲しみ、そして悲しい『最強』になってしまったのだろう。

 そして、その彼は、もういない。



 ぼさぼさの金の髪が、眼の前で塵になっていく。

 一人ぼっちの魔王は、とても強かった。

 けれども、その強さは、自分を止めてくれる勇者まで消し去ってしまった。 



 ―――俺は、そんなふうにはならねぇよ。


 
 誰よりも強くありたい。

 けれども、その為には自分以外の強い人間が必要だ。

 越えて越えられて、そうやって永遠に強さを求めていくのだ。



「俺は求め続ける………最強の道を!」





 







「あ……あ……。」



 ポゴは覚束ない舌で、くずおれた男に向ける声を探した。

 男の血を吐くような絶叫が意味するところは、言葉を持たぬポゴには分からない。

 ただ、彼の眼差しがとてもとても悲しかった。

 それは狩りをした時に、小さな獲物を捕えた先にある、少し大きめの獲物の眼差しに良く似ていた。

 その瞬間はいつも、食糧だと思っている生物に対して酷く居た堪れない思いを抱く。

 倒れた男に対して抱く思いも、それと同じだ。


 
 突然落とされた場所は、ポゴのいる場所とは何処も彼処も違っていた。

 べるやゴリと一緒に駆け回る世界は、賑やかで、色んな生物や匂いがしている。
  
 なのにこの世界は、生物が立てる音も匂いも、極端に乏しいのだ。

 こんな世界で、彼は一人でいたのだろうか。

 彼には一緒にいてくれる者はいなかったのだろうか。
 
 ポゴが見る限り、彼は一人きりだった。

 ポゴ達と戦った時も、ずっと一人で戦っていた。
 
 べるのように、信じてついてきてくれる人はいなかったのか。

 ゴリのように、ふざけ合える友はいなかったのか。



 最後に金の髪を揺らして消えていく姿は、とても小さなものに見えた。

 ポゴの世界では、死者は多くの装飾品と共に土に埋められる。

 その身体に、生前近しかった者達が、少しずつ土を掛けていくのだ。

 深い悲しみに彩られながらも、確かな愛情を以て。

 身寄りのないポゴにとって、それはどうしようもなく羨ましい事でもあった。

 自分が死んだ時、そうやって土を掛けてくれるものはいるのだろうかという不安が、漠然とだがあった。

 けれど、今、自分にはべるがいる。

 自分がべるを看取るのか、べるが自分を看取るのか、それは分からないけれども、もう一人きりではないのだ。



 けれど、彼には看取ってくれる者もいない。



 滅びの匂いを散らす姿に、ポゴは、べるの事を強く想っていた。





 







 彼にとって、夜明けはとても遠いものだったのだろう。

 暗い世界で魔王として君臨していた彼には、夜明けがどんなものだったのかさえ分からなくなっていたの
 かもしれない。

 

 おぼろ丸は手にした刀を収め、もはや動く事のない身体を見る。



 人が死ぬのは何度も見てきた。

 忍びである以上それは当然の事だ。

 出来得る限り犠牲者を少なく、とは言っても、結局闇の世界に生きる人間が、血の臭いから逃れられるは
 ずがない。



 闇の中にいる。

 

 そういった点では自分も彼も同じなのかもしれない。

 自分も、夜明けがある事は知っているし見た事もあるが、忍びにとって夜明けは死を意味する場合が多い。

 血の匂いが絡めばそれは尚更だ。

 だから、自分の中はいつも闇に濡れていたような気がする。



 けれど。

 

 本当は、そうではなかったのだ。

 忍びだからとかそんな言い訳をして、夜明けから眼をそらしていただけだ。

 自分の心が暗い闇に支配されていた?

 違う、闇を心に引きずり込んでいたのは自分だ。

 だって、自分には闇を撃ち払うような仲間がいたのだから。

 幼い頃から共に修行しあった友が、厳しくも優しい頭が。

 そして、明けぬ夜はないと強く言い切った男が。



 どれだけ暗がりに身を落としても、夜明けを見る事がなくても、彼らがいる限り、自分の中にも夜明けが
 訪れるのだ。

 

 この魔王は、それこそが夜明けであると、知らなかったのかもしれない。

 自分を除く全ての人を消してしまった魔王は、夜明けを示す者も消してしまったのだろう。

 この国から、そして心の中から。



 ―――拙者は、決して忘れぬ。


 
 自分の夜明けを指し示してくれる者がいる事を、決して忘れたりはしない。





 







 なんて眼をしているんだろう。

 今は既に固く閉ざされた眼を、初めて見た時、まるで鏡を見たかのようだった。

 この世の全てを恨み、憎み、蔑んだ眼。

 辛いのは自分だけだと思い込んだ、獣よりも遥かに生々しい視線。



 ―――まるで、かつての自分のようだ。


 
 レイは、以前の醜い自分を突き付けられたような気がして目眩がした。

 自分では何も動かず、この世界の所為にして、勝手に絶望していた。

 絶望して、何をしても許されると勘違いして、人を傷つけた。



 でも、それは間違いだ、と。

 叱咤してくれる人に出会えた。

 生まれて初めて世界と自分の間を、その差を埋めようとする事が出来た。



 彼は、自分と世界の差を埋める事を諦めて、世界を壊してしまったのか。


 
 むろん、努力したからといって全ての願いが叶うわけではないだろう。



 レイの胸の内に、兄弟弟子の影がちらつく。



 自分なんかよりもずっと素直で、真面目に努力していたユン。

 自分なんかよりもずっと優しく、人の気を使っていたサモ。



 あの二人の努力は、まるで雑草が引き抜かれるかのように、心ない者の手によって潰されてしまった。

 しかし、彼らの続けていた人生が、無駄だった事だとはレイは思わないし、思いたくない。

 彼らがいなくなっても、レイが、彼らの事を覚えている。

 彼らの努力は、レイの中に息づいている。



 今、眼の前で消え去ろうとしている男には、そうやって、自分の意志を継いでくれる者がいなかったのか。

 それとも、いても見ようとしなかったのか。

 気付かなかったのか。

 そして、全て消してしまったのか。

 自分の思いを託す者達全てを。



 ―――あたいは、あたいが途中で倒れても、ちゃんと受け継ぐ人間を見つけるよ。


 志半ばで倒れても、この想いは決して途絶えない。





 







 今まで生きていた人間の身体が、有り得ない速さで風化していく。

 そんな事象は、キューブの膨大なデータベースの中には何処にも載っていなかった。

 しかし、それ以上に、風化した人間の放つ言葉一つ一つが、キューブの情報処理能力を酷く鈍らせていた。



 彼の放った声の抑揚。

 言葉。

 その身ぶり。



 それらは、かつて自分が作られた宇宙船で見た、人間同士の諍いのそれよりも、決して大きなものではない。

 しかしその裏で押し殺されたものが、キューブの鉄の皮膚を震わせる。



 憎しみ、嫉妬、不信。

 それら全てを纏めて昇華しきったような表情は、ほとんど、筋肉を使っておらず、無表情に近いものだった。

 初めて見た人間の新しい感情。

 データベースの中でだけしか見た事のないもの。



 絶望。



 人間とはこんな顔もできるのか。

 レイチェルの引き攣ったような、狂気に満ちた声でもない。

 カークの、嘲りを込めた不遜な態度でもない。

 ヒューイの、妬みを込めた眼差しでもない。
 
 恐ろしいほど澄み渡って、知的で、静かな、顔。



 キューブが人の感情をデータに当て嵌める為に使っている、人としての発露が、その身体からは失われていた。

 それでも、確かに分かるのだ。

 彼が、絶望している事が。

 人としての感情を忘れてしまうほどに、絶望している事が。



 ダース伍長ならば、そういう状態の人間を見た事があるかもしれない。

 戦線にいた彼は、人間の人間らしい感情が失われていく様を、知っているだろう。

 むろん、負の感情も。

 だが、作られて間もないキューブには、彼の感じる絶望の深さを推し量る事はできなかった。

 ただ、彼が、あの船の人達よりも更に深い不信に陥っている事は、言葉の節々から読み取れた。
 


 ああ、そうだ。

 人は簡単に他人を信じなくなる。

 人を蔑み、妬み、憎む。

 けれど、それは人の一端でしかない。



 生みの親が差し伸べてくれる手や、今は死者となってしまったあの三人の手も実は暖かかった事を、
 キューブは知っている。

 掛けられる声が、柔らかかった事も、覚えている。

 だから、まだ、キューブには、この人間のように人を諦める気にはなれない。
 

 
 まだ、自分は、生まれたばかりなのだから。

 絶望するには、まだ早い。





 







 最後まで、彼の心を全て読み取る事は出来なかった。

 アキラは塵になった男の行方を見て、もはや何処にも存在しない心の事を思う。



 魔王を名乗り、人への侮蔑と怒りと絶望を高らかに告げた彼の中に渦巻くのは、あまりにも膨大すぎる絶
 望の数々だった。

 この、色のない国で読み取った人々の怨嗟、呪詛、憤怒、悲哀。

 あまりにも荒み切った心の数々。

 しかし、魔王を名乗った男の心は、それらどの心よりも荒れ果てていた。

 読み取った瞬間、眼を潰されたかのようだった。

 そこにあったのは、暗く深い黒でも、血を吐いたような赤でもなく、ひたすらに何の色もなかった。
 


 国全体から憎まれ、英雄の座から引きずり降ろされ、友にも愛する者にも裏切られた、悲劇の主人公。



 彼を彩るものは何もなく、ただただ虚ろだった。

 そして彼は追い打ちを自分で掛けたのだ。

 自分の敵に回った世界を、滅ぼしてしまった。
 


 ―――そんな事して何になるよ。



 一人だけの世界。

 それはそれは味気ない世界だろう。

 嘆きも悲しみも憎しみも、誰にも届かないのだから。
 
 そう言えば、この男は、そんな者最初からいなかったと言うかもしれない。

 だが、本当にそうだったのか?

 ちゃんと確かめたのか?

 アキラは、彼が魔王である事を最後まで信じなかった子供がいた事を知っている。

 そしてその子供を潰したのは、他でもない彼自身だ。



 自分で、自分を信じてくれている者を、消してしまったのだ。

 なんて、憐れなのだろうか。

 彼にはもう、その死を悲しんでくれる者さえいない。

 ―――自分達以外には。



 ―――あんたは、その為に俺達を此処に呼んだのか?



 魔王を倒すべき勇者として、死を齎して欲しかったのか。

 彼も、人として、その死を悲しんで欲しかったのか。  
 
 心を読みたくても、その相手は既に存在しない。
 


 彼の残骸は、人のいない悲しい世界にばら撒かれている。

 自分達はもとの世界に戻るが、彼は結局、どんな姿になっても、誰もいないこの悲しい世界から出られな
 いのだ。

 ならばせめて、神の存在などこれっぽちも信じないが、彼の心が安らかに眠れたならいい。

 

 ―――そこには、誰か、いたらいいな。     
  


 自分のように。



「幸せだぜ………俺には帰る場所がある!」





 







 倒れた青年の金の髪が、ばさばさと揺れる。

 死んだ馬の鬣のようにぼさぼさのそれは、あっと言う間に塵になって何処かに飛ばされていく。

 ありとあらゆる負の感情を呑みこんだ身体は、もはや跡形もない。

 サンダウンは、その姿に自分の末路を見たような気がして、酷く苦いものが胸に湧き上がっていた。
 


 青年の叫びは、決して的を外したものではなかった。

 むしろ、人間の醜い部分を的確に突いていた。

 そしてそれは、サンダウンの中にも渦巻いているものだ。



 人の為に、街の為に、正義の為に。

 かつてのサンダウンが持っていた感情は、魔王となった青年の中にもあったもので。

 ならば、確かに、サンダウンもいつ彼と同じ運命を辿るか分からない。

 サンダウンの身体の底には、確かに絶望がひっそりと広がっているのだ。
  
 他愛が、誰かの為にという感情が、裏返るのはあまりにも容易い。

 何故自分だけが、と叫ぶ為に、多くの因子は必要ない。
  
 この青年のように、人の熱のない世界にいれば、それは更に加速していくだろう。



 人であるのに、人の持つ熱や色、音が分からない。

 それはもう、人ではあっても人とは言い難い、別の何かだ。

 だから青年は、魔王にならざるを得なかった。

 裏切られた事や、その後に自ら魔王を名乗った事、この国の人間を皆殺しにした事も要因かもしれないが、

 それ以上に、一人きりでいすぎた所為で、人としての在り方を忘れてしまった事のほうが、大きいのでは
 ないだろうか。

 自分で人の放つ気配を一掃してしまった後、青年の心はじわじわと忘却に蝕まれていったに違いない。

 結局、後戻りできなかったのだろう。

 後戻りしたくでも、止めてくれる勇者となる存在も、消してしまった。



 ―――寒かっただろう。



 叩き潰した世界は、どう考えても温かみとは程遠い様相をしていた。

 そこから零れ落ちる人の断片は、熱どころか刺に満ちていて。

 誰一人として何一つとして、青年に熱を届けてはくれなかったのだから。


  
 色、声、影、熱。



 今際の際、青年はそれを思い出す事が出来たのだろうか。

 彼は、人として死んで行けたのだろうか。

 風に飛ばされた彼の残骸は、少しでも熱を持っていただろうか。


 
 自分がいつか、辿るかもしれない道。

 辿っていたかもしれない道。

 魔王を胸の内に棲まわせるのは、サンダウンも同じだ。

 サンダウンは、自分の世界の乾いた風を思い出す。

 そしてその中にいる、自分の為の勇者の事を。



 無性に、彼に、逢いたかった。