がちゃり、と金属の外れる音がして、マッドは薄く眼を開いた。
  看守や面談を請う娼婦や賞金稼ぎが出入りする時にだけ開かれる、牢屋に通じる扉は今は開け放
 たれており、そこから光が溢れている。そして、それに導かれるように看守が牢屋の鍵を外したの
 だ。その様子を眩しそうに見やりながら、マッドは問うた。

 「医者から銃弾でも送り込まれたか?」
 「お前の持っていた銃弾と、娼婦の身体から出てきた銃弾が違っていたんだと。」

  マッドの言葉に、苛立たしげに看守は鍵束を揺らす。それは、ならず者と紙一重の賞金稼ぎを放
 逐する事への憤り以上に、マッドの言った事が正しかった事に苛立ちを覚えているのだろう。腹立
 ち紛れに、普段よりも言葉数の多くなっている看守は、更に言い募る。

 「しかも賞金稼ぎ共は、他に容疑者がいたと言って喧しい。」
 「へぇ?」

  マッドはその言葉に、片眉を上げてみせる。

 「サンダウン・キッドが容疑者だと言って憚らない。儂にしてみれば、適当な賞金首の名前を上げ
  ているだけとしか思えん。」
 「………いや、そういうわけじゃあねぇだろうが。」

  マッドは口元に淡い笑みを浮かべて、年寄りの看守には聞こえるか聞こえないかの声で、囁く。

 「それが、答えか………。」




  嘆きの砦





  ブーツの鳴らす硬質な足音は、予想に反してサルーンには向かわなかった。王者の帰りを待ちわ
 びているはずの賞金稼ぎや娼婦のもとには向かわず、人目を避けるようにして路地裏を通り抜けて
 いく。実を言えば記憶喪失の振りをしていたという事が賞金稼ぎ達に知られている以上、彼らに逢
 えばその意図を追求可能性が高い。それ故に、もしかしたら、こうして隠れるように歩いているの
 かもしれない。
  そしてその足音は、婦殺しの現場である旧市街と、今現在の市外の境に位置する場所で、止まっ
 た。かさついた土が幾つも盛り上がるそこは、旧市街からも現市街からも、どちらからも人が時折
 訪れる場所。時に花束が持ち寄られる事もあれば、忌避されるかのように誰からも忘れ去られる場
 所でもある。
  まるでそこを別世界にしようと言うかのように、木々で取り囲まれたその場所には、何本もの十
 字架が突き刺さっている。
  そこに、賞金稼ぎマッド・ドッグは臆する事なく足を踏み入れた。
  人気のない墓場は、味気のない木々の葉擦れの音以外は静寂そのものだった。一応、それなりに
 大きな街の墓場である為か、墓荒らしの気配もなく、所々に新しい花が添えられている。
  だが、どちらかと言えば良く整備された墓場のその風景に、マッドは特に何かを思う事もないよ
 うだ。花束から飛んできたらしい花弁を無情に踏み潰し、朽ちかけた十字を手で払いのける。
  そうして、彼はようやく目当ての場所に辿り着いたのか、歩みを止めた。
  そこにあったのは、まだ新しい大輪の薔薇が添えられた、粗末な墓だった。尤も、他の同じよう
 に今にも朽ちそうな十字架とは違い、あちこちに補強された部分のあるそれは、その墓を訪れる者
 がいる事を示している。
  そして、今もその墓の前には、先客がいた。

 「よお。」

  墓の前に立ちつくしている影に、マッドは屈託なく声を掛けた。

 「それが、自殺した召使の墓か?」
 「ああ、そうだ。」

  マッドの声に、男は振り返った。精悍な顔に刻まれた皺には、疲労の色が濃い。だが、マッドは
 そんなものは意に介さなかった。

 「で、俺に何か言う事は?」
 「ああ、感謝している。お前は記憶喪失の振りをしてまで、俺が容疑者として追われないように捜
  査を撹乱してくれたんだからな。」
 「でも、なんで逃げなかった?」

  逃げる暇はあっただろう、とマッドは問う。すると、男の表情に苦渋が見え隠れした。そして彼
 は吐き捨てるように告げる。

 「お前を置いて、逃げられるわけがないだろう。俺はお前を弟や息子のように思ってきた。俺の後
  任として。そんなお前を、置いて逃げられるわけがない。」    
 「でも、娼婦の身体から銃弾が出てきて、俺のものじゃないと証明された。これ以上の捜査の撹乱
  は無理だぜ?」
 「ああ、それは問題ない。お前が殴られたと嘘を言ったおかげで、他の容疑者を作る事が出来たか
  らな。」

  サンダウン・キッド。西部一の賞金首。賞金稼ぎと賞金首は、紙一重の存在だが、しかしどちら
 が正義かと迫られたなら、普通に考えれば賞金稼ぎだと答えるだろう。

 「だから、もう大丈夫だ。」
 「………そうかよ。」

  マッドは男の言葉に頷いて、葉巻を懐から出して咥える。その様子を見て、男はふっと笑う。

 「お前も一人前に葉巻を吸うようになったんだなぁ。」
 「ああ………。」

  マッドはゆっくりと息を吐くと、首を傾げる。

 「でも、一つ分からねぇ事がある。あんた、なんであの娼婦に眼を付けられた?」
 「ああ、あの娼婦の恋人が賞金稼ぎの小僧だって事は知ってるだろう。そいつから、色々と俺の事
  を聞いたらしい。俺が、昔この近くに住んでたって事もな。それで、娼婦の方はずっとこの街に
  住んでいる。勿論、あの商人一家が行方不明な事も知っていた。俺の事もな………。」
 「なるほど、事件の直後消えた男として、疑われたか。」
 「そうだ。あの娘はあの屋敷を探検――どうせ金目の物でも漁ってたんだろうが――した時に、死
  体を見つけたと言っていた。それで、その死体に関する事を色々調べたんだそうだ。」
 「それで、商人に犯され自殺した召使がいた事を知ったわけか。」
 「ああ。」

  男は吐き捨てるように、まるでその時の事を思い出した事でさえ苦痛で、早く吐き出してしまい
 たいと言わんばかりに、悲鳴のような声上げた。

 「二度もあいつを穢されたようだった。場末の娼婦に、あれこれと詮索されて。ほじくり返されて。
  挙句、厭らしい笑いを浮かべながら金を寄こせと言ってきた。あいつは男に穢されて、それで死
  んだ。だが、死んで尚も、今度は醜い雌豚に穢される。許せなかった。」
 「………だから、か。」
 「ああ、そうだ。だから、この手で撃ち殺してやった。」

  決然とした目つきでマッドを見る男に、マッドは微動だにしなかった。代わりに、やはり微動だ
 にしない声音で囁く。

 「あの商人達も、お前が殺したのか、ジャックス?」

  甘い声音は、まるで紅茶の香りについて談義しているようなものだった。しかし、それに対する
 男――ジャックスの声は、飢えた獣のようだった。

 「ああ。あの性欲狂いの化け物。その化け物に身体を捧げている女。そしてそいつらの血を引いて
  いる邪悪な子供。あんな連中が生きていて、あいつが死んでいるなんておかしいだろう。」

  慟哭からは血の臭いがした。獣の叫びに、しかしマッドはやはり表情を変えない。それを見据え
 ているはずなのに、何も映していない眼は血走っている。

 「だから、俺は制裁を下してやったのさ。嘆く事も出来ないあいつの代わりに、『嘆きの砦』とし
  て最初の仕事をしてやった。商人は両手両足を縛って、その前であいつの妻を犯してやった。犯
  しながら身体を滅多刺しにしてやった。そして奴の赤ん坊は首を締めてやった。顔が青黒くなる
  までな!」

  俺は邪悪な一族を滅ぼしてやった、嘆きの砦として!
  叫び、ジャックスはマッドに手を伸ばす。

 「お前なら分かるだろう。俺の後を継いで、『嘆きの砦』として生きるお前なら。この世は嘆きに
  満ちていて、なのに嘆きを齎す連中は法に守られてぬくぬくとしてやがる!俺もお前も、奴らに
  虐げられた人間の声が聞こえる。だから、俺達は『嘆きの砦』であり、奴らに粛清を与える最後
  の網だ。」
 「………………。」

  マッドは咥えていた葉巻を地面に落とすと、火の点いたそれを踏み潰す。そして、空に向かって
 告げた。

 「もう良いだろ。聞ける事は聞いただろ?さっさと連れて行けよ。」

  その台詞に、ジャックスは怪訝な顔をした。
  そしてサイラスは、ぎくりとした。まさか、つけていた事がばれていたとは。しかしやり過ごそ
 うにもマッドは更に言い募る。

 「ずっと聞いてたんだろ保安官さんよ。」
 「……………。」

  沈黙はジャックスとサイラスの二人から零れた。その沈黙を割って、サイラスは意を決して二人
 の前に姿を表わす。その瞬間に、ジャックスの沈黙は驚愕にすり替わった。

 「マッド………これは………。」
 「これはも何もねぇだろ。てめぇの殺しの自白は、誰でもない保安官に聞かれてた。だから、言い
  逃れはできねぇぜ。」
 「っ………どういう事だ!」

  怒鳴る老いた賞金稼ぎに、若い賞金稼ぎは表情一つ変えない。そこにはかつての君主を打ち倒し
 たという誇りさえ、奢りさえ垣間見えなかった。

 「どういう事?俺は自分の仕事をしただけだぜ?」

  マッドは淡々とかつての王者に囁く。

 「ジャックス。俺はてめぇを軽んじたりはしてねぇよ。だから、娼婦殺しの現場を見た俺を置いて
  逃げ出すお前を見た時、ここでお前が犯人だって言っても、まだ人望のあるお前が犯人だと信じ
  る奴は少ないと思った。」

  だから、一旦は記憶喪失の容疑者の振りをする事にしたのだ。そして真犯人であるジャックスを
 どうやって犯人として捕えるかを考えた。

 「一番手っ取り早いのは、てめぇ自身に自白させる事だ。その為には、お前に俺が味方だと思い込
  ませる必要があった。その為にも、殴られもしてねぇのに殴られたって言って、記憶喪失になる
  必要があったんだ。俺が記憶喪失になんかなってねぇのは、てめぇが一番良く知ってるからな。」

  記憶喪失になっていない人間が、殴られて記憶喪失だと言い張り、そして容疑者として捕らわれ
 る事を選んだ。それを知った犯人は、マッドが自分を庇っているのだと思い込む、果たして、ジャ
 ックスはそうだった。
  それを聞かされたジャックスは、顔面蒼白だ。

 「お前っ……俺はお前を家族のように思ってっ……!」
 「そのわりには、俺が捕まっても、自分が犯人だと自白しにこなかったじゃねぇか。結局保身に回
  ったんだろ?」

  だが、安心しろよ。
  マッドは、蟲惑的な笑みを浮かべる。

 「俺は、てめぇの事を、兄とも父親とも思った事はねぇ。まして、憧れた事さえねぇよ。」

  はんなりと微笑んで、マッドの指は優しく腰に帯びた黒のバントラインの銃把を撫でる。うっと
 りと、それこそ何かに憧れるように。

 「俺が憧れた人間は、この世で一人だけだ。後にも先にも、な。そしてそれは、てめぇじゃねぇ。
  俺が憧れた人間は、少なくとも、てめぇみたいに自分の罪を他人に擦り付けようだなんて思わね
  ぇよ。」
 「俺は、俺は………!」
 「大体、何が『嘆きの砦』だ。粛清だ何だほざいて、結局はてめぇのやりてぇようにやるだけだろ
  う?だったら、他人の嘆きを盾にして正義を掲げるんじゃねぇよ。『嘆きの砦』には正義の御旗
  なんてねぇんだぜ?そもそも、産まれたばかりの赤ん坊を殺した人間に、嘆きを掬い上げる権利
  が何処にあるんだ?」

  鼻先で笑うようなマッドの台詞に、ジャックスは遂に吠えた。飢えた獣のような声は、既に人間
 の声の形をしていない。   

 「俺は醜い獣を殺しただけだ!」
 「赤ん坊の美醜を判じれるほど、俺らはそんなに偉いんか、ああ?!」 

  転瞬、マッドの気配が噴き上げる。今まで興味を失っていたような黒い瞳にも、ひりつくような
 光が燦然と閃いている。

 「往生際が悪いぜ、ジャックス!法の網目を潜り抜けた人間を叩き落とすのが『嘆きの砦』だって
  言うんなら、女とガキを殺しておいて、だらだらと言い訳を続けてのうのうと逃げるてめぇ自身
  こそ、叩き落とされ側の人間だろうが!」
 「煩い!それを言うなら、お前だって……!」
 「ああ、そうだよ!『嘆きの砦』なんか所詮、賞金稼ぎが気紛れでやってるようなもんだろうが!
  それで新しい嘆きが生まれる事くらい、百も承知だ!」

  そんな事も分からずに『嘆きの砦』を名乗っていたのか。
  それとも本気で粛清だと信じていたのだろうか。
  だとしたら、笑わせる。『嘆きの砦』にあるのは人々の嘆きと流れた血の色だけで、正義の御旗
 も銀の星もないのに。

 「連れて行けよ。」

  賞金稼ぎの王は、未だに己の天下を夢見る先代の王を見下ろして、保安官にそう命じる。勝手に
 裏切られて傷ついたような顔をするジャックスに、マッドはもはや何の感慨も浮かばないようだっ
 た。
  もはや、朽ちた十字架と同じ態を成している男に、サイラスは縄を掛けようと近付く。
  だが、それよりも早くジャックスは腰に帯びている銃を抜き払う。その銃は、紛れもなく22ミリ
 口径のS&Wだ。流れるような動作で銃を抜いたジャックスは、しかしその銃口を自分に押し当てる。
 もう、逃れる事は出来ないと判断したのか、己の額目掛けて、銃弾を撃ち込む――。

 「あぐぅっ!」

  苦鳴に満ちた声は、額を撃ちぬいた事によるものではなかった。
  ジャックスが引き金を引くよりも早く、マッドのバントラインが銃声を上げて、ジャックスの持
 つS&Wを撃ち落としたのだ。
  腕を抱えて蹲るジャックスに、マッドの剃刀のように冷ややかな声が振りかかる。

 「見苦しい男だな、てめぇの始末もつけられねぇのかよ。」

  マッドは、サイラスを押しのけてジャックスに近付くと、ようやく初めて、その身体に触れた。
 端正な指で髪を鷲掴むと、顔を上げさせる。

 「てめぇが、銃殺で済むと思ってんのか?女二人とガキを殺したてめぇが?」

  嘆きの砦の名に懸けて、そんな生易しい死なせ方はさせられない。

 「てめぇは、縛り首になるんだよ。娼婦殺しのジャックス。」

  嘆きの砦は、そう、宣告した。