その噂は、荒野を駆け巡った。
  賞金稼ぎの頂点に君臨するマッド・ドッグが娼婦殺しの罪で収監されたという話は、西部全体を
 震撼させた。ならず者達は自分達にとって天災である男が地に落ちた事を喜び祝い、賞金稼ぎ達は
 王者の失墜に眼を見這っては不確かすぎる真実に首を捻る。そして、女達――ことに娼婦達は、彼
 女達が今までしな垂れかかっていた男の名誉の回復を求め、猛然と保安官事務所に抗議を繰り返し
 た。あまつさえ、保安官事務所に出入りする男は、客として扱わないとまで言い放った、娼婦の中
 でも一番格上の女の言葉に、その他の娼婦も頷き、それに保安官は頭を痛める結果となった。
  しかし、保安官としてはそう簡単に容疑者を釈放出来ない。
  もしも、マッドが本気で釈放を望んでいたのなら、保安官としてもきっと望まぬ形で――マッド
 からの圧力に屈して――釈放せざるを得なかっただろう。
  だが、当のマッド・ドッグ本人が、釈放してほしそうな素振りも見せず、悠々自適に監獄生活を
 している以上、保安官もマッドを釈放する理由が見当たらない。
  結果、今日も保安官事務所には、娼婦や賞金稼ぎ達の冷たい眼差しが降り注いでいた。




  監獄の王者

  





 「と、言うわけだ。」

  マッドを収監した街の保安官サイラス・オーキッドは、溜め息交じりに現状を説明した。
  サイラスは40代手前の連邦保安官で、本当の事を言えば娼婦殺しのような些細な事件には手を出
 すような立場にはない。しかし、容疑者が西部一の賞金稼ぎであるマッド・ドッグであるという事
 と、サイラスが元来、小さな事件にも顔を出す気さくな人柄である性分から、彼はこうしてこの事
 件を担当する事になったのだ。
  40手前というそろそろ保安官を止める時期であるのに、それでも長く続けているのは、サイラス
 の気さくな人柄が人気を呼び、役所もなかなか彼を止めさせる事が出来ないという理由がある。
  だが、絶頂だったサイラスの人気も、ここ数日間は下り坂だ。
  よりにもよって、マッド・ドッグを収監した事で、今まで親しげだった賞金稼ぎ達はおろか、娼
 婦達でさえ冷ややかな眼差しを向けてくる。
  昼夜問わず、顔を合わせるたびにマッドを釈放しろと詰め寄る彼ら彼女らに、サイラスは今更な
 がらにマッドの人気を思い知ると同時に、なんだか酷く理不尽な思いを抱いた。

  サイラスとて、好き好んでマッドを逮捕したわけではない。
  マッドが被害者の傍にいなければ、サイラスはわざわざマッドを捜し出してまで逮捕しようとし
 なかっただろうし、マッドが何をしたのか覚えていないなど曖昧な事を言わずに、何らかの目撃情
 報なりを口にすれば、そちらに眼を向けただろう。
  だが、マッドはといえば自分が縛り首になる事など微塵も考えていないのか、サイラスが面会す
 るたびに優雅に脚を組んで、たゆたうような笑みを浮かべてばかりで、『何も覚えていない』と嘯
 くのだ。
  まるで君主然としたその姿に、真の王者は何処にいても王者の風格を漂わせるのだと納得しそう
 になる。しかしサイラスとしてはそんな納得はいらない。サイラスが欲しいのは、マッドが有罪か
 無罪かのどちらかを納得させるだけの証拠であって、マッドが賞金稼ぎの王である事を今更納得し
 ても意味がない。

  ふわふわとはぐらかしてばかりの容疑者と、そしてその容疑者を釈放しない事を責め立てる娼婦
 と賞金稼ぎの板挟みにあい、流石のサイラスでも愚痴を零したくなるというものだった。
  その愚痴を、ふかふかのソファに居心地悪そうに座って聞いている男はしばらくの間無言で葉巻
 をふかしていたが、のろのろと眠たそうだった眼を開く。

 「いっその事、検事に突き出してやったらどうだ?」
 「証拠がないのにか?」

  かつて自分と同じく保安官だった男の台詞に、サイラスは、ばんばんと机を苛立たしそうに叩く。

 「あの男が、都合良く犯行時の記憶を忘れてなければ、さっさと釈放している。それくらい、あの
  男が犯人だという証拠はないんだ。死体の傍に立っていたという事以外は。」
 「だが、犯人でないという証拠もないんだろう?」
 「そうだ。しかし、あの男には、娼婦を殺す動機がない。」

  動機は後からついてくる、とは良く言ったものだが、マッドには娼婦を殺す理由が何処にもなか
 った。
  女には困らない男だ。殺された娼婦に振られて逆上したなんて、そんな事は考えられない。それ
 に殺された娼婦は娼婦の中では格下で、マッドが手を出すような相手でもない。
  しかしそこは男と女の事だ。何かあったのかもしれない。それに情が絡まなくとも、代わりに金
 銭が絡む事もある。もしくは、憎しみの種が。
  だが、サイラスが殺された娼婦の周辺を洗えば洗うほど、マッドの姿は彼女の傍から消えていく
 のだ。殺された娼婦と同じ宿で働く娼婦、そしてその宿の主人は口を揃えて言う。

 「マッドが、あの娼婦に絡む事なんて一度もなかった。」

  と。マッドが買う事は勿論なく、何か憐れみを施す事もなく、過去に何かあった事もない。殺さ
 れた娼婦はこの街から出た事はなく、他の街でマッドと何か絡む可能性もない。

 「それで、殺された娼婦には恋人がいたんだが。」
 「ほう。」
 「その恋人は駆け出しの賞金稼ぎなんだがな………。」
 「それで?」

  促されたサイラスは、再びばんと机を叩く。

 「その恋人ですら、マッドと殺された娼婦の間には何もなかったと言うんだ!恋人が殺されている
  のに、容疑者を庇うような言葉を言うんだぞ!どうしろと、どうしろと!」

  もはや、誰一人としてマッドを疑う者がいない中、逮捕した保安官はただの悪者だ。
  ぎちぎちと椅子を貧乏揺すりするサイラスを、呆れたように見やりながら、男はだったら釈放し
 てしまえば良いと言った。が、それに対してサイラスは首を横に振る。

 「そういうわけにはいかない。あの男が容疑者である事に変わりはない。何より、あの男は絶対に
  何か知っているんだ。」

  牢屋の中だというのに笑みを湛えている賞金稼ぎの君主の、その奇妙な自信には、必ず理由があ
 る。王者は何かを知っており、それ故に何か事を進めようとしているのだ。
  サイラスは、決して、西部一の名を冠する賞金稼ぎを侮ってはいない。監獄の中であっても、外
 を動かす事が出来る糸を、マッド・ドッグは持っている。でなければ、西部一の賞金稼ぎの座に座
 れるはずがない。

 「賞金稼ぎ達が、マッドを釈放する為にあちこちで聞きこみをしている事も分かっている。きっと、
  面会に来る賞金稼ぎに、マッドが吹き込んでいるんだろう。」
 「………どうかな。あれは確かに、牢屋の中にいても外部を動かせるだろうが。」
 「そうに決まっている。大体、でなければ都合良くジャックスの奴が帰ってくるわけがないだろう。」
 「………ジャックス?」

  サイラスの口から出てきた人物の名前に、男は訝しそうな声を上げる。その声音に、サイラスは
 首を竦めてみせた。

 「マッドの前の賞金稼ぎの王さ。まあ、知らなくても仕方ない。お前が保安官を止めた直後に有名
  になって、けれどもすぐにマッドに取って代わられたからな。」

  だが面倒見が良い事で、賞金稼ぎ達からは今でも慕われている。もしかしたら、マッドもかつて
 は世話になったのかもしれない。だから、窮地に立っている今、最も信頼できる人間を呼び寄せた。

 「おそらく、マッドはジャックスに外の賞金稼ぎ達を纏めさせ、自分の容疑を晴らす策を練ってい
  る。そして容疑を晴らす為の何かを握っている。」
 「だったら、尚更放っておいたらどうだ。」

  勝手に拘置所から出ていくのなら、放っておいても問題ない。
  しかしサイラスは再び首を横に振った。

 「マッドが出ていく分には構わん。だが、あの男が真犯人を知っているのに黙っているのだとすれ
  ば、放っておくわけにはいかん、保安官として。」
 「……それで、お前は私にどうしろと言うんだ。」

  場末の酒場で酒を飲んでいたところを連れて来られた男は、些か不機嫌そうな声を上げた。確か
 にかつては保安官仲間だったが、今は違う。そもそも自分のような賞金首に成り下がった人間を連
 れこんで、もしも誰かに見つかったらどうするつもりなのだ。
  だが、サイラスはそんな事は些細な事だと言う。

 「お前なら、マッド・ドッグの考えている事を読めるんじゃないかと思ったんだ。何せお前とあの
  男は敵対してると言っても長い付き合いだ。何か知っている事があるんじゃないのか。」
 「あれが、行く先々の店の料理のレシピを書き留めている事は知っているが。」
 「そんな事聞きたいんじゃない!大体そんな事を知って、一体何の得になるんだ!」
 「…………。」

  とっておきの秘密を『そんな事』呼ばわりされ、男はいっそう不機嫌になる。しかしサイラスは
 かつての保安官仲間の下り坂の機嫌など一向に気にしない。

 「大体、お前だってあの男の事が気になるからこの街に来たんだろう。自分を長年追いかけている
  賞金稼ぎが、娼婦殺しの容疑で捕まったから。でなければ、銃の腕がならず者を呼び込むと言っ
  て賞金首になって荒野を流離う人間が、わざわざこんな大きな街に来るものか。」  

  だから、お前がどうにかしろ。

  かつての保安官仲間の無責任すぎる台詞に、荒野を流離う5000ドルの賞金首サンダウン・キッド
 は、非常に嫌そうな顔をした。