ジャックスの身体が宙に吊るされてから数日経ったある日の事。
  ジャックスが犯人である事に動揺していた賞金稼ぎ達も落ち着きを取り戻し始め、ようやく普段
 どおりの荒野が戻りつつあった、その日の宵の暮れに、サンダウンは一人野営をしているマッドの
 背中を見つけた。
  黒い愛馬を背後に付き従えた姿は、相変わらず何の澱みも見受けられない。ジャックスが死んだ
 事でさえ、日常の一幕でしかなかったのだと言っているようだ。

  そんな普段通りの後姿を見て、サンダウンはジャックスが最期まで呆けたようだった事を思い出
 す。魂が抜けたようなその身体は、逃げおおせると思っていた罪に捕えられた事よりも、マッドに
 裏切られた事への衝撃の方が大きかったのだろう。マッドの事を弟や息子のように思っていると告
 げた男は、その弟と息子の手によって、絞首刑の階段を昇る事になったのだ。
  恋人が穢された事が許せず、汚した商人とその家族だけでなく、汚れた恋人さえ殺すという常人
 には理解できぬ凶行に及んだ男が、たった一つの裏切りで壊れてしまった。
  そして、ジャックスが壊れた理由が、サンダウンには良く理解できた。




  10.荒野の天秤





   サンダウンが、マッドに近付こうかどうか悩んでいる間に、マッドのほうが背後を振り向いた。
  地面に尻をつけたまま、首だけ捻ってサンダウンを振り返ると、マッドはぽむぷむと自分の隣を
  叩いて、こっちに来るように促す。それに従って、直ぐ傍まで寄ると、変わらぬマッドの声が、
  微かな笑みを湛えて耳朶を打った。

  「やれやれ、あんたがいなくても、あんたは俺に迷惑をかけるのが得意らしいぜ。ここ数日間、
   俺はあんたに懸けられた容疑を晴らす為に大忙しだ。」

   どうやらマッドは、ジャックスがサンダウンを犯人に仕立てあげようとした事を言っているら
  しい。そしてその口ぶりから察するに、サンダウンが一連の事件を知っている事を知らないよう
  だった。

  「………娼婦殺しの男の事か。」

   噂で聞いた程度の口ぶりでそう告げれば、マッドの顔が顰められた。

  「なんだ、知ってんのかよ。」
  「………噂にはなっている。」

   それは本当だ。恋人の仇をとって商人一家を殺し、それを脅迫してきた娼婦を殺し、しかも実
  は恋人さえ穢れていると言って殺した男。しかもそれがかつては人望あった賞金稼ぎとなれば、
  嫌でも噂にはなる。
   そしてその噂について、マッドがジャックスを捕えるまでに、どこまで知り得ていたのかを、
  サンダウンは知りたかった。
   マッドは、ジャックスが恋人を殺した事を知っていたのだろうか。
   サンダウンはジャックスは恋人の仇をとったのだと思った。だから20年前、若いサンダウンは
  彼を追い詰める事が出来なかった。マッドはジャックスが更なる罪を犯していた事まで知ってい
  たのだろうか。だから、マッドを弟と呼ぶジャックスを、無慈悲に荒縄を掛ける事ができたのだ
  ろうか。
   だが、マッドの首は横に振られた。

  「俺は、そんな20年前の事まで知らねぇよ。」

   眼の前にある焚き火に、枯れ木を投げ入れて、マッドはそう呟いた。

  「20年前の、知りもしない事件の事なんか、俺は興味ねぇよ。俺にとっての全ては、今現在、俺
   の手の届くところで起こった事だけだ。おれにとっちゃ、あいつは娼婦を殺した卑怯者さ。」

   その罪から逃れようとする卑怯者を叩き落とす為に、情報を集めていたら、偶々過去に起きた
  事件と繋がった。それだけの話。

  「………あの男は、お前の事を随分と言っていたが。」
  「賞金稼ぎにとっちゃ、情報を集める事は、死の危険から免れる為にも大切だ。咄嗟の判断や、
   捨て駒にされない為の立ち回りなんかは、相手の情報から見出すんだぜ?あいつが娼婦殺して
   逃げ出した時点で、あいつがそういう対象として見做されるのは、普通の考えさ。」

   尤も、あの男には、遂にそれが分からなかったみてぇだが。
   マッドの口元に、微かな笑みが浮かぶ。それはジャックスを嘲るというよりも、何か遠い過去
  を思い出して笑っているようだった。

  「此処までの事は、もう引退した爺さん連中が、俺が駆け出しだった頃に教えてくれた事さ。俺
   には賞金稼ぎなんて仕事は無理だって散々罵りながらも、色々教えてくれたぜ?今頃どうして
   る事やら。もしかしたら墓の下にいるかもしれねぇな。」

   その頃に、確かにジャックスとも出会ったのだという。『嘆きの砦』として旗を振っていたジ
  ャックス。

  「正直、俺はあの男の考えについていけねぇと思ったよ。」

   まるで正義の味方のように、ならず者連中を薙ぎ倒していくジャックス。そんなジャックスの
  眼にも、毛色の違うマッドは周りに比べて抜きんでて見えたのだろう。線の細さを心配してか、
  何かと世話を焼こうとし始めたが、マッドは周囲が思うほど軟弱ではないし、何よりも我が強い。
  賞金稼ぎの仕事を正義の御旗の下でやっているのだと思っているジャックスよりも、どら声で叫
  ぶ、あくの強い爺達と一緒にいるほうが馬があったのだ。

  「多分、ジャックスは俺を聖書の中に出てくる何かと勘違いしたんじゃねぇのか?偶々混ざり込
   んだ毛色の違う奴を見て、こいつは特別だって思って、それで手元に置きたいと思ったんだろ
   うな。犯された恋人を殺した事から考えても、多分あいつは、綺麗な物が好きだったんだろう。
   けど、こっちにしてみりゃ堪ったもんじゃねぇよ。」

   マッドの口元から笑みが消える。繊細な手の中で、ぽきりと枯葉が折れて、それらを全て焚き
  火の中に投げ込んでマッドは早口で捲し立てる。

  「弟だ息子だと言われたって、こっちはあいつに何の感情も持ってねぇ。あいつを蹴り落として
   西部一の座に座った時だって、別にあいつを越えたくてそうしたわけじゃねぇ。でかい山を目
   指して歩いてたら、その周囲にあるちっさい丘を越えてたなんて良くある話だろ。俺は別のも
   っとでかい山だけを見てるのに、通り過ぎた丘に『あいつは俺を越えたかったんだ』なんて言
   われても困る。」

   俺が目指してるのは、西部一の賞金稼ぎの座でも、賞金稼ぎの王でも、嘆きの砦でもない。  
   それらは、一番最初に立てた目標に行く過程で、偶々手に入れてしまっただけの話。偶々手に
  入れた物だから、それらをかつて持っていた人間になど、興味を示しようがない。
   マッドが欲しいのは、まだまだ先にあるものだ。
   ジャックスにとっての裏切りは、マッドにしてみれば裏切りでもなんでもない。

   だが、とサンダウンは微かに胸の奥が痛んだ。ジャックスはサンダウンにとっては汚点そのも
  のだ。しかし、ジャックスがマッドに裏切られた事で抜け殻になってしまった理由は、サンダウ
  ンには痛いほど良く分かる。
   荒野の枯れた世界の中で、マッドのように爆ぜる魂を持った存在がいれば、誰だって眼を惹か
  れる。皆が手に入れたいと願い、そして愛してしまうだろう。
   だが、その愛しい熱に、伸ばした手が冷ややかに振り払われてしまったなら。その黒い眼が、
  自分など歯牙にもかけず、何処か遠い場所を、人を、夢見ているのだとしたら。
   サンダウンなら、きっと、マッドが目指しているのだというものを、叩き潰すだろう。それが
  一体何なのか、分かり次第に。
   ふつふつと暗い思いが噴き上げてくるサンダウンの耳に、マッドの声が静かに、無情に降り積
  もる。

  「恋人が死んだ事も、その恋人が商人に犯された事も、商人一家が皆殺しにあった事も、そんな
   のは過去の事さ。俺には関係ねぇ。でも、あいつはそこから逃げようとして保身の為に娼婦を
   殺した。そうなりゃ芋づる式で、その時の罪も出てくるに決まってる。」

   マッドが偶々手に入れた『嘆きの砦』。マッドは偶々だと言うけれど、しかしジャックスより
  も遥かにその玉座はマッドに馴染んでいる。
   そして血濡れの玉座にマッドは、今だけでなく、過去の『嘆き』も聞いたのだ。
   だが、それはジャックスの慟哭ではなかったのか。一体、マッドは誰の嘆きを聞き届けたのだ
  ろう。

  「ガキの死体が、なあ………。」

   マッドは小さく呟いた。
   白骨化した三つの死体の中で、ほとんど原形を留めていなかったそれ。小さすぎて、月日によ
  る風化に耐える事ができず、僅かな頭蓋の一部しか分からなかったそれが、マッドの琴線に触れ
  たのだ。
   その瞬間に、サンダウンは、湧き上がっていた暗い思いがすっと消え去った。そして今更なが
  らに思い出す。

   マッドは誰よりも健全な『人間』だった、と。 

   マッドは気紛れでならず者達を捕えるという。だが、マッドの感覚は紛れもなく『人間』その
  もので、だからこそ『嘆きの砦』なのだ。ジャックスのように己の裁きが絶対だと信じるのでは
  なく、そもそもが気紛れだと言い切るのは己の中に誤りがある可能性も十分に知っている。それ
  はつまり、マッド自身が自分が『人間』に過ぎない事を、理解しているからだ。
   そして、人間であるマッドは、人間として、一番小さな嘆きを受け止めたのだ。20年前、サン
  ダウンが憐みをかける相手を間違えて、聞こうともしなかった、言葉さえ知らぬ赤ん坊の嘆きを。

   星の瞬きのような光を黒い眼に灯したマッドの横顔を見て、サンダウンはその足元に跪いて許
  しを請いたくなった。
   20年前の自分の不手際を彼に背負わせて、不要な嘆きを受け止めさせてしまったのだと思えば、
  罵られても仕方がなかった。むろん、マッドがそんな過去の事に口を挟むとは思えなかったが。
  しかし、子供の嘆きを受け止めたマッドの魂は、どれほど震えていただろう。その肩を引き寄せ
  て、全てサンダウンに投げつけてしまえ、と言ってやりたい。
   しかし、サンダウンが行動に移すよりも先に、やはりマッドが口を開いた。

  「それに、あのアホはお前に罪を被せようとするし。ふざけてんじゃねぇのか。」

   ここ数日間、本当に、腸が煮えくり返りそうだった。

  「ガキ殺して女殺して、挙句てめぇに罪を着せるだ?どんだけ俺の逆鱗に触れりゃ気が済むんだ。
   いっそ、嫌がらせかと思ったぜ。通り過ぎただけの丘が、俺が目指す山を妬んで、罪を着せた
   のかと思った。」
  「マッド?」

   何か、不思議な言葉を聞いた気がする。
   マッドが目指すものについての言葉だったような気がするのだが、それとも幻聴だったのだろ
  うか。 
   が、それを聞き直す前に、マッドは毛布に包まってころんと地面に寝転がってしまう。

  「マッド。」
  「俺は寝るぜ。あんたの濡れ衣を晴らしてやったんだから、あんたが見張りしろよ。」
  「…………………私は賞金首だが。」
  「それがどうしたよ。」

   サンダウンが寝込みを襲うだとかそういう疑いは微塵も持ってない声で、マッドはそれだけ返
  すと、後は何を言っても何一つとして答えなかった。それもそのはず、一瞬でマッドは眠りに落
  ちている。

  「…………………。」

   一人現実の世界に置き去りにされたサンダウンは、地面に転がるマッドを抱え上げると自分の
  肩に凭れさせる。睫毛が少し震えたが、眼を覚ます気配はない。
   無防備な姿に、いつもはそれでいいのかと心の中で突っ込むのだが、今日は別の事を問い掛け
  た。たった今、マッドが口にした言葉を頭の中で、何度も反芻しながら、囁く。

  「…………………越えるに値すると、思ってくれているのか?」

   過去の事とはいえ、一人の人間に誤った憐れみを施して、そのツケを払わせてしまった。その
  事はマッドの知らぬ事とはいえ、それでも問い掛けずにはいられなかった。
   目指す相手だと思ってくれるのか、と。

  「マッド…………。」

   救いを求めるように抱き締めても、『嘆きの砦』は錠を下ろしており、何も答えてはくれない。
   ただ、抱きこんだ身体からは、生きている人間の熱が伝わってきた。