軋んだ音を立てて、鉄錆びた臭いのする格子戸が開く。湿気た空気を多分に含んだその部屋は、
 これでもかというほど質素で、寝る場所として木の板が一枚敷いてある他は、苔が所々にこびりつ
 いた石畳が剥き出しになっていた。
  質素という言葉でさえお世辞に聞こえるその部屋の中に向かって、年老いた看守がしゃがれた声
 を投げかける。

 「起きろ。保安官殿のお出ましだぞ。」

  看守としては、その小部屋――冷たい牢屋の中に、できるだけ冷徹な声を浴びせかけたつもりだ
 った。此処に入る者は、小競り合いをした者から殺人をした者まで様々だが、しかし何れも大小拘
 わらず罪を犯している。
  そんな罪人に、昔堅気の老人が厳しい眼差しを向けるのは当然の事と言えよう。
  しかし、対して言葉を浴びせかけられた罪人はといえば、まるで悪びれた様子一つ見せずに、木
 の板の上で大きく伸びをしただけだった。
  酷く端正な影が牢屋の中に広がり、そしてゆっくりと微笑みを湛えて振り返った。




  霧の罪状





  殺されたのは、若い娼婦だった。
  その日の未明、まだ娼婦になりたての、身体も固く閉ざし垢ぬけない田舎の少女は、薄暗い路地
 裏で、その白い額を撃ち抜かれて殺されていた。
  街は西部開拓史の初期からあるような古い街で、重要拠点だったのか鉄道も通るような大きな街
 で、夜中でも人通りが絶える事がないような街だった。
  しかし、田舎娘が殺された裏通りは旧市街と呼ばれ、一番最初に作られた建物が立ち並ぶ場所だ
 った。老朽化の激しいその建物群はいつしか人が離れ、人々は新しい市街を作りそちらに移動し、
 そしてその場所は放置された。
  そんな場所で、娘は殺されたのだ。

  大きな街だ。
  それ故、犯罪者も流れ込みやすい。人通りの少ない旧市街の路地裏など、ならず者共の格好の塒
 になるだろう。だから、そんな所を通った娘がただで済むはずがない。
  しかし、殺された娘を知る者達は口々に言う。
  彼女がそんな所に行く理由がない、と。
  娼婦と雖も、そんな薄暗い場所には住んでいないし、働く売春宿ば大通りの人で賑わう場所にあ
 る。娘がそんな所に行く理由は、ない。
  では誰かに呼び出されたのか。呼び出した人間こそが彼女を犯人だ。

  だが、そんな推論をする暇もなく、彼女を殺したと思われる容疑者は、直ぐに見つかった。保安
 官が駆け付けた時、娘の死体が転がるすぐ傍で、彼は一人立ち尽くしていたのだ。
  むろん、それだけで彼を犯人とする事は出来ない。
  いや、実を言えば、それだけで犯人とする事もできる。西部開拓時代では現行犯以外の犯人は、
 基本的に憶測だけで――というよりも、検事や保安官の好き嫌いによって――逮捕し、罪を着せる
 事も出来た。その逆――明らかに犯罪者でも街の有力者と癒着している場合は、罪を免れる事もあ
 る。

  そして、今、殺された娘の傍で立ち尽くしていた男は、拘置所に収監されている。
  その男と面会した保安官は、静かに問い掛けた。

 「さて、何か思い出したかね?」

  牢屋に放り込まれているというのに、優雅に脚を組んで愉快そうな笑みさえ湛えている黒い瞳を
 覗き込む。
  しかし、形の良い唇で綺麗な弧を描く彼は、ゆっくりと首を横に振る。

 「いいや。やっぱり何度聞かれても、思い出せねぇな。マーシャの店を出てからの記憶は、すっぽ
  りと抜け落ちてるぜ。」

  その台詞に、壮年の保安官はがっくりと項垂れる。
  眼の前にいる囚人を簡単に解放できない理由が、先程囚人が言った台詞そのものだった。
  殺された娘の前に立ち尽くしていた男は、最後に立ち寄った酒場を出て以降、娘の死体の前で立
 ち尽くしている時までの記憶がないというのだった。

 「どうして、あの場所に行こうなんて思ったのかね?」
 「それも覚えてねぇな。」

  あんなとこに知り合いはいねぇんだけどな、それとも賞金首がいるっていう噂でも聞いたかな。
  そう、のほほんとして答える男は、まるで危機感がない。放っておけば証拠がないという理由で
 解放されると見越しているのだろうか。
  だが、そんな思いを抱いているのなら間違いだ。

 「言っておくが、君は極めて微妙な立場にいる。殺されたのは娼婦だが、銃を持たざる者だ。これ
  を殺したという事がどういう事なのか、君なら良く知っているはずだ。」
 「俺なら、そいつを撃ち殺さずに捕まえて、縛り首にするだろうよ。」
 「そうだ、銃を持たざる者を殺した者が、縛り首だ。そして君は、殺された娼婦のすぐ傍で立って
  いた。」
 「つまり、俺がもし殺していた場合、俺を簡単に釈放しちまったら、一番の汚名を持った犯人を取
  り逃がす事になっちまうってわけだ。」

  そこまで分かっていて、それでも男は笑みを絶やさない。それは、自由な西部の王者の風格を、
 法に縛られた保安官に見せつけるようでもある。
  そんな考えを首を一つ振って振り払い、保安官は言葉を続ける。

 「マーシャの店から殺害現場に行くまでの時間と、君がマーシャの店を出てから娘を殺したと思わ
  れる銃声が聞こえるまでの時間は、ほとんど一緒だ。」
 「わざわざ時計持って計りに行ったのか。ご苦労なこった。でも、それは俺が真直ぐ現場に行った
  場合の話だよな。」
 「君が寄り道していない事は、ある程度は証言から分かっている。そして、現場から立ち去る人影
  は残念ながら誰も見ていない。」
 「ま、人通りも少ない場所だしな。」
 「だから、もう一度訊く。」

  やはり相変わらずきらきらとした光を湛える黒い瞳を、保安官は思わず眼を逸らしそうになりな
 がらもなんとか耐え、出来る限りの威厳を保った声でもう一度問うた。

 「何か、思い出したかね?」

  それに対し、牢屋の中の、賞金稼ぎの王――マッド・ドッグは薄い笑みを絶やさずに、優しささ
 え伴った声で答えた。

 「いいや。何も。」